3.良い出来
一瞬だけ、眩しいハレーションを覚える。
真っ白な光が消え、黒マジックペンで何かが書かれている白いゴム底の靴と、どこかの校章が入った靴下が見える。
ふわりと、何かが調理されている匂い。湿度のある空気に、いっそうの湿り気を足している匂い。
早蝉の寂しそうなぎこちない声、道路のアスファルトを削る車のタイヤと、ふかされるエンジンの音。
ジー……ジー……、まだ早かったかな。ジー……、ジー……。短い命。恋はできないかもしれない。
醤油の匂いはどこから来るのだろう。調理の音は聞こえない。弱火で煮ている最中なのかもしれない。煮ているのはしいたけかもしれない。里芋ではない。
「……おばあちゃん……」
祖母のことを思い出す。決して私を傷付けない手、温かくてしわだらけの手。あまり動かない表情に、たまに柔らかさが乗せられる目。涙がどんどん溢れてくる。情けない蝉なんかに負けないくらい、私は大きく声を上げた。うわああああん、うわああああん、と。誰かに聞かれても構わない、もういい、もういい。
気付くと私は、目をさんざんこすった手で鞄と靴を持ち直して、祖母の家へと向かっていた。どのくらい歩いたかわからない。日は落ちていく。期末テストのことを考える。勉強のことを考える。国語のノートがもう残り少ないことを思い出す。
私は祖母の家の近くのスーパーに寄って、国語に使うノート一冊と卵二パックを買った。ビニール袋を提げて祖母の家のドアチャイムを押す。
「あれ、珍しいね」
いつもの祖母が、いつものように仏頂面で玄関先に出てくる。
「玉子焼き」
「美衣は玉子焼き食べたいのか」
「うん」
私も仏頂面だっただろう。ノートを抜いて、合計二十個の卵を祖母に渡した。
「座っておいで」
泣き腫らした目を見ても祖母は何かを尋ねることなく、私を迎えてくれた。
◇◇
丸まった醤油の匂いが染み付いている家で、祖母に言われたとおり居間の座布団に座り、私はテレビのスイッチを入れた。美容整形のコマーシャルが流れる。明るい音楽が流れる。そこに早蝉の声が足される。今日は朝から晴れていて暑い。
「美衣、自分で作ってみなさい」
「えっ……、うまくできるかな……」
「見ててやるから。そのためにこんなに卵買ってきたんじゃないのかい」
祖母に促され、私は立ち上がった。やってみたい。何だか腕に力が入らないけど、祖母がいればがんばれるかもしれないと思った。
前に教わったことを思い出しながら、私は祖母の見ている前で玉子焼き器に卵液を投入した。じゅうっという音、一気に立ち上るおいしそうな匂い。鮮やかな黄色はどんどん固まっていく。
「ほら、丸めないと」
「う、うん」
菜箸を動かしつつ、何とか卵を一方向へ丸めることができた。ほっとしていると「早く油引かないといけないよ」と叱られる。
油を引いて、卵液を入れて、丸めて、を繰り返して、太くなった玉子焼きを私は満足げに眺めた。「初めてにしては出来がいいね」と祖母は言う。とてもうれしい。
「すぐ食べていい?」
「好きにしなさい」
まな板に玉子焼きを乗せて、やけどしないように気を付けながら、包丁を入れる。祖母が作るより空気が入ってしまっているが、焦げたところはない。
居間のテーブルに乗せた玉子焼きはつやつやしている。箸で口に入れると、少しだけ入れた塩が効いていておいしい。鼻に抜ける卵の香りもたまらない。出汁も砂糖も玉子焼きには邪魔になる、塩だけで十分おいしいとは祖母の弁だ。本当に、そのとおりだと思う。
「おいしい」
「そうかい」
「食べたら帰るね」
「ああ」
いつもの会話をした私の目から、また涙がこぼれた。
◇◇
夏休みが終わり、最初に登校する日がやってきた。宿題は終わらせたけど、不安はあった。次はどんないじめが私を襲うのだろうと思うと学校に行きたくないという気持ちが強くなった。
父と母に、いじめのことは言っていない。先生にも、誰にも言っていない。誰かに話したって、「とにかく学校には行きなさい」と言われる場面しか思い浮かばない。狂ったダイヤルは自分で直すしかない。誰かに託すことなどできない。
「行ってきます」
いつもの挨拶をして、私は家を出た。スカートのポケットのお財布には、卵二パックを買えるだけのお金を入れてある。
「気を付けて行くのよ」
「はぁい」
まだ夏は終わっていないとばかりに鳴き叫ぶ蝉の声が満たしていくのは、私の耳だけではない。
三日月には、高いマンションに上っても届かない。昼間の月は玉子焼きの黄色より濃い色になれない。
祖母に似ている私は、料理上手になれるかもしれない。嫌われ者でもいい。
私の中のダイヤルは、私が調節する。時々、祖母の手を借りながら。
私の中のダイヤル 祐里 @yukie_miumiu
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