2.昼間の月


 中学二年生に上がって、私はいじめられるようになった。きっかけはわからない。クラスの中で一番明るくて派手な女の子に、何か変なことを言ってしまったのかもしれない。話しかけられたことに気付かなかったのかもしれない。そんな、些細なことだと思う。いくら考えてみても、その女の子が中心になっているという点しかわからず、思い当たることがないから。


 今日も朝「くっせぇ」と男子に言われた。近寄らなければいいのに、わざわざそばに寄ってきて言い放つ。きっとこのあとは誰からも話しかけられず、まるで欠席しているかのように扱われるだろう。この三ヶ月間、毎日無視されているのだから。


 どうでもいい人に無視されるのはいいのだが、前のクラスから仲の良かった吉岡よしおかさんにまで無視されるのは、さすがにこたえる。私がいじめの対象になったと知った途端手のひらを返すように全く話さなくなった人のことなど、こちらから無視していればいいと頭ではわかっていても、感情がそれを許さない。私は今日も彼女の後ろ姿を見ながら、細くて長い息を吐いた。


 給食が終わり、五時間目が始まる。『疲れた』と唇を動かさずにつぶやいてみる。窓の外には薄い三日月が所在なげに漂っている。ちょっと風が吹けば、すぐに飛んでいってしまいそうだ。


 ホームルームが終わり、私は教室を出た。ぼんやりと歩きながら靴箱の前に到着し、上履きのかかとを脱いで自分の靴があるはずの場所を見ると、そこには何もなかった。


「……え……?」


 きょろきょろと辺りを見回してみても、見つからない。どうしようどうしようとそればかり考えていて、私は彼女がいることに気付かなかった。


安藤あんどうさん、何やってんの」


 硬い声色で、背中側から問いを投げられる。振り向くと、吉岡さんが立っていた。


「あ……、その、靴が……」


「靴ならあっち。持ってきてあげる」


「えっ、ほんと?」


 硬い声のままだが、吉岡さんはくるりと向きを変えて歩き出した。私も後ろを付いていく。やはり彼女は優しい。あまり大きな声ではしゃいだりはしないけど、落ち着いていて、穏やかな性格で……


「ここ」


 彼女はそう言って廊下に設置されている大きなゴミ箱の中に手を突っ込んだ。


「それ、ゴミ箱……」


 驚く私を尻目に、汚れた靴を取り出したと思うと、こちらめがけて思い切り投げ付けた。バシッという衝撃音と経験したことのない腹への痛みのあと、足元にボトッ、ボトッと音を立てて靴が落ちる。


「お礼は?」


「……え……?」


「お礼も言えないんだ。見付けてやったのに。いつもそんな風にトロくて無愛想だからいじめられるんじゃないの」


 予想もしていなかった言葉のあと数秒間、私たちは見つめ合ったまま動かなかった。吉岡さんの方はどうだか知らないけど、私は、動けなかった。先に彼女が目を逸らした。


 私は何も答えず、のろのろと牛乳やホコリで汚れた靴を拾うと彼女に背を向け、上履きのまま昇降口を走って出た。トロくて無愛想。仲良く話せていたのに、そんな風に思われていたんだ。なるべく彼女のペースに合わせているつもりだった。無愛想にしたつもりはなかった。二人のおしゃべりが楽しいと思っていたのは私だけだったのだ。


 悲しくて悲しくて、悲しいのに目は乾いていて、鞄と靴を持ったまま学校の門を出るまでひたすら走った。門を出てからは、なるべく高いところに行こうと考え始めた。どうしてかはわからない。あの三日月に、少しでも近付きたかったのかもしれない。


 この辺りで一番背の高いマンションに到着し、住人でもないのに、勝手に非常階段を上っていく。上履きのかかとはきちんとはき直した。薄いゴム底なのに、自分の足音が耳に障る。はあはあと息が切れても、だらだらと流れ落ちる汗が目に入っても、私は構わず日差しで熱くなっている金属の階段を上り続けた。


「……てっ、ぺん、きた……」


 最上階と思われる場所までたどり着いた。地上が遠く感じる。落ちたら確実に死ぬだろう。


「疲れた」


 今度は、口に出してみた。頭がだんだん冴えていく気がする。そうだ、吉岡さんは私の靴がゴミ箱に捨てられていたことを知っていた。それなのに私は、彼女は優しいなどと勘違いしてほいほい後ろを付いていったのだ。本当はそこで気付かなければいけなかった。罠だったと。


「疲れた」


 罠だと気付かなかった自分が悪いと自分を責めそうになったが、それは違うと思い直す。学校でも、私は無理に調節されそうになっているのだ。クラスで人気者の女子には、愛想を振りまかないといけない。たとえ罠でも、汚れた靴を投げ付けられたらお礼を言わなければならない。そうやって、私の言動に調節が入り込もうとする。私の中のダイヤルには誰も手を触れられないはずなのに。


「疲れた」


 何度でも言う。もう疲れた。私に伸びてくる手は優しくなんかない。もういいかな、と考える。もういいかな、疲れた。疲れた。もう、いいよね。疲れたの。頼りない三日月が風の吹くまま私を連れていってくれたらいいのに。疲れた。もう、いい。


 手に持っていた鞄と靴を足元に置き、私は上履きをはいたままの足を上げて非常階段の踊り場の柵にかける。ダイヤルは、今きっと狂ってしまっている。みんながむやみに触ろうとするから。重苦しい冷たい何かが腹の底に溜まっている。ダイヤルが狂ったから。みんなが触ろうとするから。


 みんなが。


  みんなが!

 私が気付かないと思って!

   そんなに馬鹿じゃない!



  「勉強がんばってるか」


 「何やってんの」



 そんな罠ではめようとして!



    疲れた。


 ダイヤルは、狂った。もういい。疲れた。



         疲れた。



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