紫陽花の花
増田朋美
紫陽花の花
その日、蘭のもとへ、小田島多香子という女性が訪ねてきていた。もちろん刺青師のところに訪ねてきたのだから、刺青を入れたいといってくるのであるが彼女の場合は、腕にあじさいの花を入れてくれという内容であった。亡くなった姉が好きだったというので、いつまでも姉のことを覚えていたいという意味で入れたいのだそうだ。蘭は、その通り、彼女の左腕に紫色の紫陽花を入れてあげた。蘭が最後の針を抜くと、彼女はとても喜んで、これで、姉がいつまでもそばについていてくれると、笑っていた。
「先生、ありがとうございました。これをお納めください。」
と、多香子さんは、封筒を一枚取り出して蘭に渡した。
「その中に、二万円入ってます。今日の施術時間は二時間だから、それでよろしいですね?」
と、多香子さんが言うのであるが、蘭は、封筒を開けてみて、
「どうして三万入ってるんでしょうね?」
わざと言ってみた。
「あ、あの、私の気持ちです。あるいは、亡くなった姉が払ったのだと思ってください。あたしは、今ここで紫陽花を彫ってもらったおかげで、姉がいつでもそばにいてくれるっていう気持ちになれるんです。それで、姉が私を慰めてくれるかもしれません。だから、二万円以上にお礼をしたいんですよ。」
「そうですか。でもですね、小田島さん。必要以上にお金を取ることは、やってはいけないことになっています。この一万円は、あなたが持っていてください。」
蘭は多香子さんに、一万円を返そうとしたが、
「いいえ、それは姉が先生に御礼をしていると思ってくださいよ。先生、どうしても受け取ってくださらないんですか?」
と、多香子さんは言うのだった。
「ええ。だって定価以上のお金を取ることは、法律違反でもありますからね。それはしてはいけないことでしょう。」
と蘭は、急いで彼女にそういった。
「やっぱり、いけませんか?」
と、彼女はがっかりと肩を落とした。
「ええ。このお金は、大好きなお姉さんに供養の品を選ぶときに使ってください。」
蘭はそう言って、彼女に一万円を渡した。それと同時に多香子さんのスマートフォンがなった。
「はいもしもし、小田島です。ああ、お母さん。え?それ、本当なの?わかったわ。今終わったからすぐ戻る。ウンウン、ありがとう。すぐ行くわ。」
多香子さんはそう話して電話を切った。
「お母様から電話ですか?」
蘭が聞くと、
「ええ。姉を殺した犯人が捕まったから、警察の人から電話があったそうなんです。」
と、多香子さんは言った。
「そういうわけですから、もうちょっと話をしたかったけれど、母が待っていると思いますので、今日は帰らせていただきますね。先生、本当にありがとうございました。」
そう言って彼女は、カバンをとり、蘭に頭を下げて、走っていってしまった。車椅子ではとても彼女に追いつけなかったので、蘭は、彼女に領収書を渡すのを忘れてしまった。まあでも、お姉さんを殺害した犯人が捕まったというのなら、被害者としてはどんなに嬉しいだろうと思うので、それ以上その日は連絡しないことにした。
翌日になって、蘭は、小田島多香子さんのラインを開いてみたが、朝のご挨拶も何もない。多分、彼女は警察とお話でもしているのかなと思って、何も無いことは蘭は気にしなかったが、領収書は取りに来てもらわないと困るので、彼女のラインに、昨日はありがとうございましたと言って、いつでも暇なときでいいですから、領収書を取りに来てくださいと送信しておいた。
それから、何日か日が経ったが、彼女から返事は全く来なかった。ラインだから読んでくれれば既読と表示されるはずなのだが、それもなかった。もしかしたら、スマートフォンを何処か電車にでも忘れていったのかなと思ったが、それでも、ラインはパソコンでも開けることを思い出し、スマートフォンをなくしたのであれば、パソコンで見直すだろうなと考え直した。なので、もう一度、その後いかがですかと送ってみたがまだ返事は来なかった。それも、既読にはならない。おかしいなと思った蘭は、彼女にラインの通話機能で電話してみようかと思ったが、すぐに電波の都合でラインは切れてしまうことを知っていたので、それはあまり好きではなかった。どうしたんだろうと、スマートフォンを見ながら、考えている間に、
「おーい蘭!早く買い物いこうよ。いつまで待たせるんだ?」
といいながら車椅子の音がして、杉ちゃんが入ってきたことがわかった。蘭はどうして杉ちゃんっていう人は、勝手に部屋に入ってきてしまうんだろうと思った。
「勝手に人のうちに入らないでくれ。買い物はちゃんと行くから、もう少し待ってよ。」
蘭がいうと、
「いやあ、だってインターフォンを五回も鳴らしたのに、何にも返事が無いから心配になったんじゃないか。」
と、杉ちゃんこと影山杉三は言った。
「それより、お前さんは何をしていたんだよ。なにか悩み事でもあったのか?」
杉ちゃんに言われて蘭は困った。そう言われてしまうと、杉ちゃんという人は、いつでもどこでも、答えが得られるまで質問を続けてしまう癖があった。なので蘭は、ちゃんと答えを言わなければならないと思った。
「実はね。昨日来た、お客さんで、お姉さんを誰かに殺害されてしまった人がいてね。その犯人が捕まったって彼女に知らせがあったようなんだが、それ以降、全く連絡が取れないんだよ。ラインをいくら送っても、返信は来ないし、どうなっちゃったんだろう。」
「それなら簡単だ。」
と杉ちゃんは言った。
「彼女の家まで行ってみればいいじゃないか。」
「ちょっと待ってくれ。それでは、住居侵入罪になってしまうかもしれない。人の家に勝手に押しかけるのは、どうかと思うけど、、、。」
蘭は杉ちゃんにいうが、
「いやあ、だって返事が無いんだろ?それは絶対なにか大変なことが起きたということだと思うからさ。僕らが、手を出しても迷惑がられるということは無いと思うぞ。なあ、顧客名簿なんかで住所控えてあるだろ?そこへ行ってみようよ。」
杉ちゃんは意思を曲げなかった。
「しかしねえ、杉ちゃん。そういうわけには、」
と蘭はいいかけたが、杉ちゃんの顔は真剣そのもので、決して軽い気持ちで言っているわけではないということもわかったので、蘭は、いってみることにした。
「わかったよ。いってみよう。」
蘭は、顧客名簿を取り出して、彼女の住所を、スマートフォンで調べてみた。すると、下横割という富士駅に近いところであることがわかった。二人は、介護タクシーに来てもらって、下横割のバス停まで乗せてもらい、あとは車椅子で、彼女の家まで行った。普通に一軒家で、特に金持ちそうな感じでもない。そういうことならなぜ、小田島多香子さんのお姉さんは殺されなければならなかったか、杉ちゃんは首を捻っていた。蘭も、確かにそうかも知れないなと思った。
蘭がインターフォンを鳴らすと、はあいという声がして、小田島多香子さんが顔を出した。一見すると、何も無いように見えるのであるが、まだお姉さんの事件が明るみになってから、あまり日数がたっていないので、部屋の中に祭壇が飾られているのが見えた。
「あれ、彫たつ先生。どうして家に来たんですか?」
と、小田島多香子さんは言った。
「小田島さん、こないだ紫陽花を施術した際、領収書をもらうのを忘れていかれたので、それを届けに来たんですよ。」
と蘭がいうと、
「ああ、そうですか。それはすみませんでした。本当に私っておっちょこちょいなんだから。ありがとうございます。」
多香子さんは、にこやかに笑って、領収書を受け取った。
「お姉さんの供養は順調に進んでいるのですか?」
蘭は思わず聞いてしまう。
「ええ。近い内に膳あげの法要をすることになっています。最近は、いろんな法要を省略してしまう家庭が多いのですが、私達はたとえ母と二人きりであっても、ちゃんと法要はしようねって話し合いました。だって、本来なら、もっと生きてて当たり前だったんですけど、無惨に取られてしまったわけですから。」
と多香子さんは言った。
「つまり膳あげの準備が忙しくて、蘭のスマートフォンに連絡を出せなくなったということか?」
と、杉ちゃんがいきなり言った。
「ええ、まあそういうことかな。」
と、多香子さんはそう答えたが、杉ちゃんは曖昧な答えを許さない。すぐにでかい声で、
「お前さん何かあったな。何か、蘭に返事を出せなくなるほど、重大なことがあったんじゃないの?」
と、聞いてしまうのだった。杉ちゃんの言い方が、ヤクザの親分みたいな言い方だったので、多香子さんは、困った顔になってしまったが、
「すみません。杉ちゃんは何でも聞いてしまう癖がありまして、ちょっと言い方は乱暴だけど、悪い人ではありませんよ。」
と蘭は訂正した。
「そうですか。あたし、やっぱり隠し事はできないようですね。そうやって、お二人にすぐバレてしまうんだから。実はこうです。姉の殺害された事件の内容を刑事さんから説明していただきました。姉の、小田島英子が殺害されたのは、歌手として、知的障害者施設を訪問したときの帰り道で殺害されたというのです。姉は、音大を出たあと、福祉的な歌を歌いたいと言いまして、ああいう施設で歌を歌うことを仕事としていたんですが、まさか、その帰り道で殺害されるんなんて、思ってもいませんでした。」
多香子さんは、とてもつらそうに言った。
「それで、犯人の名前や素質などもわかってきたのですが、今流行りの通り魔事件ではなく、犯人は女性だったそうです。名前は、えーとなんて言ったかな。あ、思い出した。須村です。須村善子。でも、警察の方に話を聞いても、姉がなぜ殺されなければならなかったのか、というところは教えてくれないんです。」
「わかりました。わかりましたよ。確かに、僕たちにも知る権利は保証されていますし、お姉さんの殺害された理由も知りたいですよね。警察の方に話を聞いても、何も応じてもらえなかったようですが、それは一人でいたからだったかもしれません。」
蘭が優しくそう言うと、杉ちゃんも、
「そうそう。三人よれば文殊の知恵という。これからは三人で事件を調べていこうぜ。お前さんは、被害者の一人なんだから、十分、知る権利はあるはずだ。大丈夫だよ。」
と、言ったのであった。多香子さんはそれでやっとありがとうございますと言ってにこやかになった。
三人は、富士警察署に行ってみた。そこへ行って刑事課の課長をしている華岡保夫に事件のことを聞いてみたのであるが、華岡は、うーんと腕組みをして考え込んでしまった。
「なんですか。華岡さん。何か話してはいけない理由でもあるんか?」
と杉ちゃんがいうと、
「実はね杉ちゃん。人権屋の方から、取り調べを慎重にやれとか、そういうことをうるさく言われていてね。こっちも困るんだよ。今ね、須村善子の取り調べをやってるんだが、彼女には、知的障害があったということで。」
と、華岡は困った顔で言った。
「だからさあ。俺達も、できるだけ早く事件を解決させたいと思っているのはやまやまなんだが、こればかりは仕方ないので、彼女が話をするのを待つしか無いかなあと思ってるのさ。」
「ということは、黙秘してるのか?」
蘭が聞くと華岡はそういうことだといった。
「そうなんだねえ。まあでも、そういうことを理由に話を聞けないということは無いと思うけどねえ、、、。それで、言葉も通じないのかい?」
杉ちゃんが聞くと、
「ああ。あの、富士市の林学園をよく利用していた女性だったので、食事とか、排泄とか、そこら辺を介助が必要ということなのでねえ。」
と華岡が答えた。
「そうなんだ。そういう女性が何で、慰問に来ていた小田島英子さんを殺害するに至ったんだろうか。それでは、よほど重大な理由があったんじゃないだろうかな?」
と、杉ちゃんが華岡に詰め寄るが、
「ああだけどねえ。それは俺達も知りたいところだよ。いくら、彼女にそれを聞いても、何も話してくれない。俺も困っちゃってさ。誰か通訳を呼ばなければだめだと思ってる。」
華岡は、大きなため息をついた。そういうわけで、警察署に行っても、なぜ姉である、小田島英子さんが殺害されなければならなかったのか、を聞き出すことはできなかった。杉ちゃんたちは空振りに終わったなと言いながら、警察署を出て、
「次は、英子さんが慰問に行った、その施設に聞いてみるか。」
と話し合い、林学園に向かって、タクシーを走らせてもらった。そして、小田島多香子さんと三人で、小田島英子さんが殺害された事件のことを聞かせてもらえないかと、学園長に話してみたのだが、他の利用者が怖がっているからと言われてしまった。まあ、そういう障害者を預かる施設だから、そういう答えでも仕方ないと杉ちゃんたちは諦めて、帰っていくしかなかった。
杉ちゃんたちは、施設の玄関近くでタクシーが来るのを待っていると、
「あの、すみません。」
と、一人の女性が現れた。
「小田島英子先生の事件を調べていらっしゃるんですよね?」
中年の女性だった。もう長く、この施設に勤めているのかなと言うことがわかる。
「私、山下真理恵と申します。この施設で、20年間働いていて、あの、須村さんとも仲良しでした。被害者の方には失礼かもしれないけど、須村さんは元気にしているのかって思ってしまいました。」
「そうなんだね。今ね、警察で、取り調べを受けているんだ。それでも誰にでも口を効かないというか、犯行の理由を話してくれないそうで、警視さんも困ってたよ。」
杉ちゃんは即答した。杉ちゃんという人は、すぐに答えを出してしまうので、困ったものであるが、こういうときはいいことでもあるのだった。
「そうですか。須村さんの事件を聞いたとき、何でかなって思ってしまいましたけれど、でも、小田島先生がしていたことは本当だったらとも思ってしまいました。」
と山下さんはそういうのであった。
「それでは、彼女、小田島英子さんがなにか問題があったということか?」
杉ちゃんはすぐ聞いてしまう。
「はい。小田島先生は、確かに歌はとてもうまくて、仕切りもうまくて上手な人でもあったのですが、須村さんのような障害のある人は、それ以上のことを感じてしまっていたのかもしれません。」
山下さんはそういったのであった。
「ということは、姉が、須村さんになにか悪いことをしてしまったということでしょうか?いえ、そんな事絶対ありえないです。だって姉は、私に行っていたんですよ。ああして障害のある人たちの前で歌うほうが、大舞台で歌うときよりもずっと私の事を聞いてくれるって。」
多香子さんは、そういったのであるが、
「いや、事実は事実だ。それは受け止めないと。」
と杉ちゃんが言った。
「それに甲乙も善悪もない。事実はただあるだけだぜ。」
「それでも、姉が、そんな事するでしょうか?あれだけ、障害のある人の前で歌うことを、楽しそうにしていた姉が、どうしてここの利用者三たちをばかにすることがありますか!私は違うと思います。須村さんという人が、勝手に勘違いして、姉を殺害したのだと思います!」
と、多香子さんは甲高く言ったのであるが、山下さんは、若い人はそうなりやすいけどと言いかけた。
「だけど、事実はただあるだけでそれに対してどう動くかを考えることだけが人間にできることなんだ!」
と杉ちゃんがそれを遮った。蘭は、泣き出しそうになった多香子さんに、
「もうちょっとお姉さんのことを調べましょう。もしかしたら別の姿があったのかもしれません。」
と、優しく言ってなだめた。それを信じ込んでいる多香子さんの姿が滑稽に見えたのか、それとも他に理由があったのかわからないが、山下さんがこう話し始めた。
「あたし、須村さんから聞いたことがあるんです。あなたは、歌が下手なので、この集まりから出ていってもらえないかと、小田島先生から言われたと。」
「でも、須村さんは、言葉が話せないはずでしたよね?」
蘭がそうきくと、山下さんはこういった。
「でもねえ。須村さんとはもう、20年近いお付き合いですから、彼女の態度でわかりますよ。彼女は私の事信頼してくれているから、それもしっかり私に言葉はなくても伝えてくれますよ。それはこの施設で長く働いていればわかります。最近の従業員は、お金のために仕方なく働いているっていう感覚の人が多いから、利用者たちも警戒してしまってなかなか心をひらいてくれませんが、須村さんは、そういう私にも、他の従業員にも屈託のない笑顔で答えてくれました。だから、彼女がそういう顔をしていないときというのは、絶対周りの人が悪いんだって、私はわかるようになりました。」
「そうですか。そういうことなら、もしかしたら、お姉さんの小田島英子さんが、もしかしたらそのつもりはなくても、須村さんを馬鹿にしているような態度を取ったのかもしれませんね。」
蘭は山下さんの発言を聞いて、なるほどと思い直した。
「まあ、人間だからな。口が滑って、言ってしまったこともあるのかもしれない。だけどそれだからと言って、小田島英子さんを殺害するというわけにはいかんだろう。だからそこはちゃんとさばいてもらうべきだと思うけど、、、。」
杉ちゃんも、そう考え直すような声で言った。
「でも姉は、少なくとも私の前では、明るくて、楽しくて、一生懸命仕事していたと思いますが、、、。」
そういう、小田島多香子さんは、でも何か、受け入れたような感じの雰囲気であった。
「一度、その須村さんと言う人にあってみたいと思います。姉がしたことを、彼女から、本当のことを聞いてみたい。」
「うーんそうだねえ。それでも、難しいと思うぞ。だって華岡さんだって困ってたでしょ。話をすることができないってさ。」
杉ちゃんが、急いでそう言うと、
「いえ、ちゃんと、事件の実相を調べなければ、多香子さんだって、本当に納得はしないんじゃないですか?それなら、もう一度、警察へいってみましょうか。それで、僕らで話をしましょう。須村さんがなぜ、お姉さんを殺害するに至ったのか。」
蘭はそう言って、電話をかけ始めた。
その間に富士警察署では、華岡が一生懸命須村さんに話しかけているのであるが、須村さんは怖がって泣くばかりという光景が繰り返されていたのであった。
紫陽花の花 増田朋美 @masubuchi4996
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