推定有罪

凪野 織永

推定有罪


「判決、推定有罪。青龍、朱雀、白虎、玄武の四名に、ありとあらゆる肉刑を課す」


 歪んだ笑みと共に吐き出された言葉に、既に瀕死と言っていいほどに傷だらけで血みどろな四人の男達は息を呑んだ。

 嘲弄じみた噂話が、悪意に満ちた罵詈雑言が、明らかな敵愾心が含まれた無言が、ひそひそと彼らの耳に届く。曰く、彼らは二度と日の下に出ることは叶わまい、と。

 それは実際、その通りだろうと四人も直感していた。目隠しが巻かれていて視界は遮られているというのに顔を合わせて、彼らはそれぞれ、これから全く同じ目に遭う哀れな同類に連帯感を抱くのだった。



 ざわざわと人々の喧騒に満ちた街。美しい朱色を中心に鮮やかな色と提灯の柔らかな灯りに彩られており、立ち並ぶ店や露店からは点心などの油と小麦、肉や砂糖などの匂いなどが入り混じっている。

 午点の胡麻団子を食べながら、とある男が壁にもたれかかっていた。一見なんともなしに佇んで咀嚼しているのみのように見えるが、深く帽子を被ったまま周囲に耳をそばだたせている。

「おい、知ってるかい」

「何が」

「今日の早朝、四人の大罪人が牢から脱獄したって話だよ」

「そりゃまあ、物騒だねぇ。折角四獣どもが討伐されたっていうのに」

「それも怪しい話だがね」

「どういう事だい?」

「あの獣達、死体がなかったんだとよ」

 その会話を盗み聞きながら、男は静かに嘆息した。身動ぎする度に、金属が擦れ合う音がする。彼の首に嵌まっている枷から伸びた鎖の音だった。


「炎駒」


 呼びかけられて、顔を上げる。そこには三人の男がいた。


「白冥、角端。どうだった? 聳孤が食べられそうなものはあったか?」


 その質問に、白冥と呼ばれた白髪の男は首を横に振る。目元に縦に走る傷跡があり、瞳は乳白色。じっと見つめているようで、何も見ていないような空虚な目だ。一見細身ではあるが、衣服の下には最低限だけ練り上げられた精悍な体躯が隠れている。


「これからどうしましょうねぇ」


 のんびりとした口調で、角端と呼ばれた男が伸びをした。髪も瞳も深い漆黒で、夜闇の森の中の暗さをそのまま映し出したかのような色だ。体格は炎駒の次にいいものの、柔和な雰囲気が親しみやすさを醸し出している。


「聳孤、どうしよう?」


 聳孤と呼ばれた、長い深緑の髪を結った男は手招きをした。翡翠の双眸を訝しげに歪め、そして男の手首を掴んで掌に文字を書きつける。書くと言っても筆で書いているのではなく、指でなぞっていると言った方が正しい。彼は身振り手振りや表情以外だと、こうして意思の疎通を図るしかなかった。


『私の事はひとまず良いから、早くここから離れた方が良いです。事情をよく知らない者に「戦災に巻き込まれた」とでも言えば多少の施しは期待できるでしょう。……それより、その団子を買う金なんて余ってましたか、炎駒』


 炎駒と呼ばれた男は、思わず誤魔化すようにはにかみながら頭の後ろを掻いた。短い赤茶色の髪に真紅の瞳が特徴的な、精悍で長身な体躯の男だ。


「すまん、腹が減って……」


「ならせめてもっと腹持ちが良いものを食べた方がよろしかったのでは……。ただでさえ食糧は高いのに……」


「胡麻団子ってそんなに高いのか」


「白冥は金銭感覚狂ってるな」


「お前に言われたくないっ!」


 全員が首に枷をつけている男達は、からからと笑い合う。戦が終わったばかりで戦勝ムードの真っ只中にある街は、少々異様な容姿をした男達の笑い声など意にも介さなかった。


 現在から数えて十年前のことだ。

 人類は世界全体を巻き込んだ戦争を行おうとしていた。国内だけの戦ならばまだマシだったろうに、利権を争って大国同士が殺し合おうとしたのだ。

 それを止めたのは、人間ではなかった。世界各地の神話、伝説、叙事詩。それに伝わる神やその使いが現れて、こう言ったのだ。


「我々が守護してきた人間どもは、今自らの手でその命を、文化を擲とうとしている。なんと愚かしく、嘆かわしいことだろう。我々はこれより、人類の選別を開始する。お前達の闘志を捥ぎ、平和主義者のみを残そう。そして、新しい人類を我々はまた守護しよう」


 と。

 そうして始まったのが人神戦争。つまり、人類と人類の超越者達の戦いだ。

 それはもちろん、一方的に人類側が嬲られていた。しかし、いくら矮小な人間でも抵抗をしない訳ではない。反旗を翻し、誇りを糧に戦ったのだ。

 そしてつい先日、この国で人を大量に『選別』していた四体の霊獣、即ち青龍、朱雀、白虎、玄武が討ち取られたという知らせが国中に伝播した。

 国民達は喜び、酒宴を開き、三日三晩狂喜乱舞を続けた。しかし、その情報はあくまで国民に知らせられたもので、それが真実であるとは限らない。

 四体の霊獣と人間が戦った戦場。兵士はほとんどが死に絶えた。後からその戦場に参った増援の兵は、そこで見たのだ。

 霊獣達の亡骸は一つたりともなく、そこにあるのは大量の人間の死体と、それに見合わぬ量の血痕。

 そして、瀕死ではありながらも唯一生きていたのは四人の男達であったと。

 それが現在、聳孤、炎駒、白冥、角端と呼ばれている記憶喪失の男達だ。

 そう、記憶喪失なのだ。それら全ては聞かされた話であり、四人の記憶は有罪判決を出されて牢に閉じ込められた所から全てが始まっている。四人は顔を合わせることもなく、閉じ込められた。

 四人は横並びになっている牢屋に入れられており、一日に一度全員が牢から連れ出されて別室へ。それぞれ拷問と言えるような肉刑を受けて、牢に戻ってくる。全員疲弊し切っているので、顔を確認する余裕もなく互いの容姿すら知らない、という状況にあった。四人がそれぞれ呼び合っている名前も、当人達の間でしか使わない渾名のようなものだ。

 そんな中、首筋に「朱雀」という刺青が入れられている男、炎駒が声を上げた。


「なあなあ」


 炎駒は精一杯に声を張り上げる。彼も他三人と同様に衰弱しているが、それを悟らせないような明るい声音で。


「おまえら、こっからでたくねえ?」


「ハァ? 出たいに決まってるだろう」


「外に出たとて、何をするんですか? 僕達、大罪人ですよ?」


 白冥、角端の順に返事が返ってくる。隣の牢、聳孤の牢屋からは文句の代わりに小石が投げ入れられた。


「おれは朱雀だぜ? この背中に翼はないけど、こんな鳥籠にずっといるつもりはないっ!」


 炎駒が叫ぶと、夜中の牢屋がしんと静まり返った。


「あ、あれ? おまえ達はそう思わねえの?」


「まあ、こんな所にいつまでも居たいとは思わないけどなぁ……」


「この牢からどう逃げるって言うんですか。ねえ聳孤」


 炎駒が牢から掌を差し出して、隣の牢、つまり聳孤の牢に向ける。すると掌が指になぞられて文字が綴られた。


『正直、脱獄自体は無理な事ではない』


「脱獄ができる……? 聳孤、詳しく!」


 ガシャ、と白冥と角端も身を乗り出して格子を掴む音が聞こえた。

 そうし、四人は聳孤の作戦の元、脱獄した。つい数時間前の話だ。


「けど、本当にどうやって逃げましょうか」


「そうだなあ……」


 弱々しく呟きながら、炎駒は己の左脚の踵のあたりをさすった。今は下衣で隠されているが、そこにはまだ塞ぎきっていない傷がある。

 四人の共通点は取り外せなかった首の枷と、首筋の刺青以外にもある。全員がそれぞれ、体が傷つけられて欠損を抱えているのだ。

 青龍の刺青が入った聳孤は、煮え湯を飲まされて喉から食道が爛れている。そのせいで水を飲むだけでも激痛が走るらしいし、喋ることもまともにできない。完全に潰れた訳ではないが、まともに治療も受けれていないので傷はあまり良くなっていない。

 朱雀の刺青の炎駒は、左脚の腱がばっさりと断ち切られていた。右脚は鞭打ちの跡があるものの動かす分には問題はないが、片足がないだけで歩き方は変になるし移動も遅くなる。本人は表に出さないようにしているが、大分煩わしそうだ。

 白虎の刺青が入れられている白冥は、両目を一閃する傷跡がある。傷自体は浅く、治りかけではあるが、その傷のせいで視力が著しく落ちているらしい。色も正常に認識できず、シルエットと音で他人を判別しているのだそうだ。

 玄武の刺青の角端は、炎駒と同じように右腕の腱が切られていて使えない。しかも右腕は彼の利き手であったようで、未だに右腕を動かそうとして動かないことに悲しげな表情を浮かべている。

 長く続いた拷問の日々は四人の体力と精神を削っていて、牢を脱出しただけでもかなりの疲れが出ている。なんとか家主が打ち捨てたのであろう空き家から衣服と少しばかりの金銭を拝借したが、それでも食うものにも困窮するほどには余裕のない状況だ。さらには、おそらくは自分たちを捜索しているであろう兵士達から逃げなければならない。


「どこも似たような戦乱状態。他国に亡命しようにも、そこで良い暮らしを得られる保証はないのですよ」


「どんな所でも、あの牢屋よりはずっとマシだ! だろ、聳孤!」


 そう言いながら炎駒が掌を差し出すと、そこにつらつらと長い文が書き出された。


『お前は何かある度に私に同意を求めるないでください。いくら私の頭が良いからと言って、私をお前の言葉の正当性の担保にいちいちされるのは面倒ですので』


「同……? 正当、何? な、なんて言った?」


『忘れてた。お前は私の想像よりもずっと教養がなかったですね、そういえば。すみません』


 掌なので完全に言葉が伝え切れる保証はない。しかし、それ以前に聳孤と炎駒の語彙力には大きな差があった。


「教……?」


「まァ、確かに炎駒の言う通り、あそこ以上に悪い場所はないだろうけどな。んでもって、あの牢に連れ戻されないためにここから離れることは必須だ」


 もうあんな場所は行きたくない。その一心で、全員深く頷いた。


「それで、どこへ行くんだ?」


「仏教の神が顕現していてまずい事になってる国があると聞くし……さっき、西の国の噂は聞いたが」


「西の国?」


「ええ。ここからずーっと西に行くと、神が一人しかいない国があるらしいんです。しかもその神は争いを好まず、顕現はしているものの人に害を成す事はないんだとか」


『多神教の国も幾つかあると聞きましたが』


「多神教……って、なんだ?」


「神様が複数人いて、それぞれの得意分野で人々を守ったり教えたり害したりする宗教だ」


「要は、安全そうな国があるからそこに行こうって事でいいか?」


 炎駒の言葉に、全員が頷いた。四人で生き残るには、それしかないのだ。身に覚えのない殺戮の罪を着ている彼らが生きていくには、この国は柵が多すぎる。


「それじゃあ、西に出発!」


「その前に、聳孤が食べられそうなものを……」


 もう一度言おう。聳孤は喉から食道が爛れており、水を飲み込むにも苦痛が伴う。そして、先ほどまで三人は聳孤が食べるのに痛みが少ないものを探していたのだ。


「……あ」


「……」


 聳孤が物言いたげに炎駒を睨む。もし彼が喋れたのなら、ちくちくと嫌味や皮肉を言っていた事だろう。それを炎駒が理解できるかはさておいて。


「しょ、食糧探しもそこそこに! な?」


「まァ、とりあえず行くか。もうここには噂が広まってる。四人の罪人が俺達に繋がる可能性は低いけど、逃げるに越したことはないだろう?」


 そう言いながら、白冥は角端に手を差し出す。そして角端は自然に動かない右腕を白冥を握らせる。

 炎駒はひょこひょことした不恰好な歩みで歩き出した。



 盲目の人間も片足が動かない人間もいる集団なので、当然歩みは遅い。普通の人間よりも倍は遅い速度だ。

 初夏の太陽に焼かれて、四人は三時間ほど歩いた後に適当な裏路地に座り込んだ。


「つっかれたぁ……」


「今どこらへんだ?」


「……街からようやく離れたくらいですね。まだまだかかりますよ」


「お金も無いしなぁ、どうするか」


「……路銀って尽きるものなのか」


 白冥が小さく頓珍漢なことを呟いていると、ふと聳孤が立ち上がった。そして道端に落ちていた適当な布を頭から被り、そして背を曲げて道の暗がりから外に出る。

 その先は香と男の欲が混じり合って漂う花街だ。

 そこに通りかかった平民の身なりをした男が、布を被った聳孤に目をつけた。

 ところで、聳孤は整った顔立ちをしている。女性的にも見える甘い顔で、拷問のせいで傷はついているもののその美しさは健在だ。むしろ悲壮感のある儚げな雰囲気が漂っている。布で顔の半分が隠れている今は、その雰囲気と僅かに覗く顔から女であると誤解してもおかしくはない。体格は男としては平均的だが、背を曲げているので女としては長身程度にはなっている。

 そんな彼が道の暗がりに手招きをしているのだ。どこかの妓楼から落ちた夜鷹だと思われても、仕方のないことである。

 男がゴクリと唾を飲み、聳孤についていく。そして角を曲がり、炎駒達三人の姿がその視界に映った。

 その瞬間、聳孤がしてやったりとイタズラっぽく笑う。やれ、とでも言うように。炎駒はニヤリと口角を上げ、角端が小さくため息をつきながら立ち上がる。盲目の白冥のみが状況を飲み込みきれず、首を傾げていた。

 数分後、彼らの手には路銀としては足りないが食糧などは買えるだけの金が握られていた。その代わり、聳孤を夜鷹だと思っていた男は素寒貧になった訳だが。


「ナイスだぜ、聳孤!」


「少し罪悪感もありますが……」


「どうせ指名手配犯だし、今更追い剥ぎの一つや二つ大丈夫だろ。貧民は戦争前からやってたんだろうし」


 じゃらりと音が鳴る袋を機嫌良さそうに眺めながら、聳孤は穏やかに微笑みを浮かべていた。彼は男の荷物をゴソゴソと探り、そしてその懐に入っていた何やらを取り出す。そこには、身なりとは合わない豪奢な飾りが施された煙管や金属細工、そして複数の財布が入っていた。


「これ、もしかして全部盗品か?」


 聳孤以外の全員がぎょっと目を剥く。聳孤が一番最初に手に取った財布が男本来の財布なのだろう。他の財布と比べて安っぽいし、汚らしい。


『盗品らしきものは、全て本来の持ち主に返しましょう。私達が使うのはこれだけです』


 地面にそう書きながら、聳孤は一番最初の財布を軽く掲げた。


「何か食べてからまた行くか。露店はどこだ?」


 きょろきょろと周囲を見渡しながら、炎駒は路地裏から出た。すぐに他三人も暗がりから抜け出て、炎駒に歩幅を合わせて歩き始める。


「ところで、どうやって返すのですか? その盗品」


 角端が問うたところで、聳孤が周囲を見回し、すれ違った一人の女に目をつける。

 彼女の肩を叩いて、そしてその掌に一方的に事情を書き殴って盗品を入れた袋を腕に乗せた。一連の動きを女が困惑で何も言えないままに終えて、聳孤は戻ってくる。


「……なんであの女にしたんだ?」


 聳孤は白冥の掌に書く。


『勘です』


「……」


 そこだけ論理的な理由はないのだな、と思いながら、四人は痛む足首を見ないふりして歩き出した。

 そんな四人を見てる女が、一人いた。先ほど、聳孤に大量の盗品を任せられた女だ。彼女はここから離れた東の花街で遊女をしていた女であり、身請けされて西の方角まで向かった女だ。

 彼女は首に揃いの枷をつけた一団を不思議そうに見つめて、そしてその一人の男に目を瞠る。深緑色の長い髪に、男だと言うのに中性的で整った顔立ち。


「諸月……?」


 それは、かつていた妓楼での顔見知りの名前だ。幼い頃に女と間違えて妓楼に売られ、暫くは禿として働いたものの戦争が始まるとどこかに消えてしまった青年。好色家から身請けの話が来ていたのに、それから逃げるように戦争に行ってしまった。

 そんな、関わりは薄いものの悪目立ちしていた人間の名前が、諸月だった。

 しかし、やはり彼女は大して仲が良い訳でもなく、自分も身請けされた今では二度と話すこともないだろう。彼女は踵を返して、男から目を背けた。さて、この盗品は誰に返すべきだろうか。主人の伝手を借りよう。そう思いながら。



「ここから真っ直ぐ西に行ったら何があるんだ?」


 地理に疎い炎駒が肉饅にかぶりつきながら問う。揚げ春巻きを嚥下した白冥が答えた。


「ここから先は戦争で……四獣が暴れたせいで随分地理が変わってるらしいぞ」


「え、それどこ情報ですか?」


「至る所で噂されてる。死んでしまった兵士の遺族が行き来しているだとか」


 確かに耳をそばだててみると、そのような話が囁かれているのが聞こえる。白冥は視力が低い分聴覚が鋭いのだろう。


「この花街を抜けてすぐ、かな」


 そう言いながら、また四人は歩く。鎖の擦れ合う音がひたすらに響いていた。

 花街はだんだんと廃れていく。色彩が鮮やかな塗りは剥げていき、街の雰囲気そのものが寂れていく。物乞いや本物の夜鷹、それに骨と皮ばかりに痩せほそった死体があちらこちらに転がっている。その周囲を舞っている蝿の羽音に、白冥が煩わしげに耳を塞いだ。

 そうして、どんどんと西側へ。とある場所を境として、光景は一変した。

 とてつもなく巨大なクレーター。月でもぶつけたのかと思うほどに地表が丸い形に削り取られており、中心点に向かうごとに勾配がキツくなっている。半径数キロメートル以上もの土地が、完全な更地になっていた。建物もごっそりとなくなっていて、おそらくはそこにいた人も一緒になくなったのだろう。

 死亡、なんて言い方ではなく、文字通り消失。血の痕跡もほとんどない事から、本当に血の一滴もなく消えてしまったのだろう。

 そして、そのクレーターは広い範囲に幾つも連なっている。地平線までずっと、荒野が続いているのだ。いくつか建っている掘立て小屋と、その壁を突き破るように倒れている蝿と蛆が沸いた人間を眺めながら、角端は息を呑んだ。


「これは……僕達がこんなことを……?」


 小さな小さな消えいるような呟きに、全員が口を噤んだ。

 お前達は四獣なのだと突きつけられた気分だ。お前は青龍だと、お前は朱雀だと、お前は白虎だと、お前は玄武だと、そう改めて耳元で囁かれているようだった。


「……みんな、進もう!」


 炎駒が叫んだ。声を張り上げて、何も気にしていないように振る舞って。その大音声に全員がびくりと肩を震わせて、愕然と炎駒の顔を見上げた。

 彼は、笑っていた。どこか傷ついたように、微笑んでいたのだ。じゃらり、と鎖が鳴る。首筋の刺青が垣間見える。それは彼らの共通点であり、連帯感の象徴だ。


「えーと、おれはとにかく痛いのはもう嫌だ! だから逃げる! 身に覚えもない罪があるって言われたって、なんのこっちゃわからん! なんだっけ、正当性? がない!」


 使い慣れないのであろう単語を使いながら、炎駒は言う。三人は目を目を見合わせて、そして苦笑した。

 聳孤が炎駒の掌を取り、そして彼自身の言葉を書き連ねる。


『私達がかけられているのは、あくまで身に覚えのない罪での有罪ですからね。あくまで私達の視点で言えば、ですけど。知らない罪なのですから、許容できないのも当然というものです』


「どうせもう何百人も何千人も殺しているなら、脱獄なんて大した罪じゃない。追い剥ぎもそのうちの一つだな」


「正直、僕が人を大量に殺したとか、信じられないですけどね……。だって、血とか苦手ですし、争い事も嫌いですし……」


 全員が顔を見合わせて、悪戯っぽく笑う。


「けど、どうせここまで来たんです。せっかくだから、もう逃げ切っちゃいましょう」


 贖罪だとか、そんなものは自分たちが記憶を思い出したら否が応でもでもしなければなくなるだろうし、しなければならなくなるだろう。

 けれどそれは、今ではなくとも良いのではないか。少なくとも今は、四人とも人を害そうなどという気はないのだから。

 彼らが望むのは、ひとときの自由。

 彼らが望むのは、四人での逃避行。

 ひとまず今は、それで良い。それがいい。

 自分が言葉を尽くす必要もなかった、と炎駒は子供のように無邪気に笑う。

 彼らはまた、ゆっくりとした足取りで歩み始めた。

 と、同時。


「あ、ぐッ……⁉︎」


 背中の骨に杭でも打ち付けられたかのような激しく鋭い痛みが突如走った。炎駒は思わず頭を抱えて地面にへたり込む。

 ぐらつく視界の中で見てみると、他の三人も同様に痛みに喘いでいた。聳孤は頭を抱え、白冥は頭と体を掻き抱いている。角端は地面に転がってひたすらに痛みに耐えていた。


「いっ……! うぅ……」


 背中の痛みが一層ひどくなる。メキメキと小枝を何本も重ねて踏み折ろうとしているかのような不吉な音が、自分の背中からしていた。骨格自体が変形していっているかのような痛みと恐怖に、目尻に涙が浮かぶ。

 不幸中の幸いか、痛み自体は十分もしないうちに弱まっていき、すぐに消えた。しかし、耐えるのに消費した体力は戻らない。息切れをしながら、炎駒はなんとか体を起こす。


「みんな、平気……か……?」


 呼びかけは消え入る。それもそのはず、すぐ横にいたはずの仲間達の姿が、違うものになっているのだから。


 聳孤は、頭から瞳と同じ翡翠のような美しい角が生えていた。木の枝を思わせる力強さで。他にも龍を思わせる大きな尾や、緑色の半透明な鱗も肌から生えている。彼は己の鋭くなった爪を見て愕然としていた。言葉を失う、という言葉が声が出せない彼に当てはめられるものかはわからないが。


 白冥は、頭に虎の耳が生えていた。ぴこ、と動くそれは神経が通っており、決して偽物ではないとわかる。白と黒の縞縞模様の尾も生えていて、それに触れてようやく事態を把握したようで顔を青くしている。


 角端は一番変化が少ない。尾のような蛇が生えており、彼自身の脚に巻き付いている。また、肌に亀の甲羅のような模様が浮き出ていた。しかし、そこから人間の肌特有の柔らかさは感じない。自分の肌に触れて、彼自身がその硬さに驚いていた。


「え、炎駒……?」


 愕然とした声音で呼ばれて、炎駒は「なんだ」と返そうとした。それができなくなったのは、彼の視界の端に真紅の羽根が降ったからだ。

 そう、彼の瞳と同じ色の、真紅の羽根が。

 背中に違和感。恐る恐る振り向くと、そこには巨大な羽があった。

 真紅の、まるで人間から生えたかのような大きさの羽が。


「……は?」


 燃え立つような色の翼が、他でもない炎駒の背から生えている。その事実に、彼は惚けた声をこぼすしかなかった。



 人がほとんどいない荒野でそれが発現したのは、不幸中の幸いと言えるだろう。崩れかけていた簡易的な小屋から比較的清潔な大きな布を頭から被って、四人は状況を話し合う。

 四人の容姿は、一目見て四獣のそれとわかる特徴が出ていた。

 聳孤は一番わかりやすく、しかも隠しづらい。生え伸びた角は帽子などでは隠しきれないほどに大きく、龍の尾も地面を引き摺るほどの長さで、太さ的にも隠し切るのは困難だ。

 炎駒も同様に、かなり隠しづらい。羽以外に大きな変化はないものの、その羽が隠せないのだ。炎駒の大きな体躯をすっぽりと覆えるほどの大きさで、布を被ろうともその形は顕著に出てしまう。

 白冥は比較的隠しやすい。虎の耳は帽子を被れば見えないし、尾も下衣に入れれば目立たない。ただ、尾は彼の感情が露骨に出るようなのでそれだけが懸念点だ。

 角端は一番外見が変わっていない。尾のような蛇は独立した意思を持っているようで、角端が頼むと下衣の中に姿を消してくれている。しかし肌は、触れれば変だとわかるほど硬質化しているので、触れられないようにだけしなければならない。


「僕と白冥は良いですけど……炎駒と聳孤は」


「俺から見ても形が変だってわかるなァ」


 白冥は目を細めてなんとか霞む視界も明瞭にしようとする。しかしそうせずとも、布の下に明らかな質量を感じる炎駒の羽や、頭から存在感を主張する聳孤の角はわかりやすいらしい。

 布を被ってもシルエットが人間とは違う炎駒は、特に顕著だ。しかも歩くごとに真紅の羽根が落ちるのでその点でも悪目立ちする。


「悪い……」


「いえ、炎駒が悪い訳じゃないですよ」


「けどどうする? 食料は多少は買い込んだが、この姿じゃ街中は通れない」


 そこで、聳孤が手を挙げた。三人の視線が一斉に彼に向く。

 彼は静かに、はるか西の荒れ果てた地平線を指差す。まるで、行こう、とでも言っているように。


「……そうだな。こんな姿になってしまったからには、人の少ない道……つまり、この荒地を行くしかない」


 果てがないようにすら思える広大な荒野には、人の影も見えない。人に見られたくないのなら、人のいない場所にいるしかないのだ。

 ただただ、西へ。


「……行くか!」


 炎駒が明るい声音で叫んだ。それに、先ほどよりも疲弊した、しかしどこか晴々とした表情で三人が頷く。

 荒野は限りなく続いており、その行き先を考えるだけで辟易としてしまうほどだが、四人ならば大丈夫だという根拠のない自信と信頼があった。

 脚や、喉や、目や、腕にそれぞれが抱えた傷も、障害も、四人で補い合えば無きものに等しくなると本気で思える。

 四人ならば、きっと。

 まじないのように口の中でその言葉を転がしながら、四人はひたすらに歩を進めた。



 それから三日間、四人はゆっくりとした足取りで歩き続けた。荒野には幾つか荒屋があり、家を戦火で失った者達がその影を追うようにそこで暮らし続けているのだとわかる。とはいえ、まともに食糧も得られないのだろう。そこの人々は全員が生気を失っており、死体と成り果てているのか生きているのかも一瞥では判別できないほどだ。

 あちらこちらに腐臭が、死体が腐った匂いが漂っている。人のみならず、家畜や野生の獣もだ。生きとし生けるもの達の、驚くほどに平等な成れの果てが、そこにある。

 それを見て僅かに眉を顰めた角端に、匂いでそこにあるものを感じ取った白冥が声をかけた。温度のない、冷徹な声音は、それはそうなるものだと最初から知っているかのようだ。


「気にするな、角端。いちいち気にかけていては気が滅入ってしまうから」


「けど、白冥……」


「角端、おれ達も同じだぜ。おれたちもいずれああなる。いつかああなる。それがいつかは、わからないけど」


 四獣でもそれは関係ない。むしろ、一度討ち取られたはずの自分たちは、普通の人間よりも死に近いところにいるのかもいしれない。

 元来、人よりも争い事を好まない性分であるらしい角端は、痛ましげに死体を眺めていた。きっと、彼は心の中で死した者達の魂の平安をいちいち願っているのだろう。角端は、そういう男だった。

 白冥はそれを見て、正確に言うなら雰囲気で感じ取って、小さく嘆息する。角端と対照的に、彼は命の道理というものを理解しているのだ。不思議なことに、彼の認識はこうだった。「下賤の者の命は、どれほどでも潰えるものだ。それをどれほど上手く使えるかが、上の者としての素質である」。

 己の根幹に根付いた思考でありながら、傲慢だなと鼻で笑う。どうやら記憶を失う前の自分は、高慢な性格だったようだ。今は客観的な事として捉えているが。

 ふと、白冥は思う。自分達は一体何者なのだろうか。

 記憶こそ彼らにはないものの、今までの人生の経験により形作られた性格や性質は残っている。例えば、角端ならば平和主義、白冥ならば尊大。炎駒ならば陽気で、悪く言えば考えなし。聳孤ならば聡明だが時折口が悪い、など。

 それらは全て、彼らが生きてきた環境や周囲の人々、体験や学習した事により形作られた無二の性質だ。

 問題は、それがどうやって形成されたか。人としての経験を積んだゆえの彼らなのか、人の上位存在である四獣としての立場があったゆえの彼らなのか。

 つまり、彼らは人間として育ったのか、神として生きてきたのか、だ。

 白冥は角端の硬い手を掴んで歩きながら、ひたすらに思考を巡らせる。


『どうしました?』


 ふと、右手が取られて掌に文字が書かれた。この意思の疎通の取り方は、聳孤だ。


「オマエ、ここを見てどう思う?」


『どうと言われましても……戦場の跡地としては、珍しくはない光景なのではないかと』


 白冥は頷く。同感だった。


「じゃあ、さっきの花街を見てどう思った?」


『特にどうも……いや……』


「どうした」


『不思議と、馴染み深かった気がします』


 その言葉に、白冥はなるほどと頷く。


「角端、オマエは?」


「装飾が煌びやかだな、と。今思えば、物珍しいなと思ったのかも」


「炎駒は?」


「人が多くて、活気があるって思った!」


 やはり、と白冥は思考に耽る。

 白冥は、あの光景に何も感じなかった。それはつまり、花街のような栄えた場所に馴染みがあるという事だ。煌びやかな建物に、混じり合った香の匂いに、目に痛いほどの色彩とそれを纏う人々の多さに、慣れていたという事だ。それは聳孤も同様で、しかし角端と炎駒は違う。

 そして、慣れているということは、それが身近にあったということだ。数年前に突如現れそれ以来ずっと人を鏖殺し続けていたという自分たちが、人間の文化に慣れ親しんでいるというのは、なんとも奇妙な話である。

 それも、四人が本当に四獣であればの話だが。


「……いよいよ、話の根本が揺らいできたな」


 白冥の言葉に、聳孤も全く同じことを思っていたようで重々しく頷いた。



 そこからまた数日。食糧も尽きようとしている頃。

 地平線の近くに、明らかに人工的な灯りが見えた。


「あれは……?」


「どうやら、野営のようですね」


「げ、人がいるのか……」


「遠回りはできるか?」


『無理です。ここを真っ直ぐ行った先が西との国境で、遠回りしていては食料も水も尽きて全員お陀仏ですので』


 つまり、あの人がいる中を四人は行かなければならない訳である。

 野営地は広範囲に展開しており、幾分か活気もあるように見える。小さな簡易的な小屋が幾つも建っており、一日二日で立ち退きする雰囲気でもなさそうだ。


「……隠さなきゃ、ダメだよなぁ」


 炎駒が己の背に生えた巨大な翼を見ながらため息を吐いた。四人にそれぞれ現れた人間のものではない特徴は、上手く隠し切れるかわからない。


「いざとなったら走って逃げるしかないですよね」


「そうなったら炎駒はどうする? 走れないだろ」


 視線が一気に炎駒に集まる。脚の腱が切られていて、走ることはおろか歩くことさえも一苦労である炎駒を。しかし彼は眉尻を下げて笑いながら、あっさりと言い切った。


「その時はバッサリ見捨ててくれ!」


 三人の視線が一気に咎めるようなものになる。見捨てる訳ないだろうと、暗に顕著に述べている瞳だ。聳孤が乱暴に炎駒の腕を引っ張り、その掌に言葉を書き殴った。爪が食い込んだようで「いたいいたい」と炎駒が悲鳴をあげたが、お構いなしだ。


『馬鹿ですか。そんな事する訳ないでしょう。その羽は飾りですか、飛んででも逃げなさい』


 あまりに素早く書かれたものだからその意味の半分も理解はできなかったが、明らかに怒気を滲ませているその表情からある程度は察したらしい。炎駒は「わかった」と短く答えた。

 どうやらここいら一帯は元々は小高い丘だったらしい。あちらこちらの土が掘り返されたように穴ができているが、元の形が完全に失われたわけでもない。勾配の上に集落は位置している。そしてこの山を越えて、さらにその先の川を渡れば、この国の国境を越えて別の国へと逃げられる。いくら各国が困窮している状態であれど、または困窮しているからこそ、脱獄犯を他国まで追う余裕もないだろう。政治的にも厳しいはずだ、と聳孤と白冥は言っていた。

 そして、その集落が四人の目前にはある。

 どうやら日中はそこに住まう人々は山を降りて何か仕事をしているらしい。随分と閑散としていて、人気がない。いるのは女ばかりだった。子供がいないのは、ここにいる人々は何らかの目的で一時的にここに滞在しているだけだから連れてこなかったのか、それとも死に絶えたのか。

 集落の真ん中では巨大な火を焚いていた。よくよく見てみれば、その火種は人間の死体だった。煙と一緒に、肉が焼ける匂いが周囲に広がっている。それは腐臭を誤魔化し、集落全体を陰鬱な気分に落とす香のようなものだった。


『おそらく、戦後の後始末ですね』


 聳孤が外套を被って全身を隠しながら、目をきょろきょろと動かして集落全体を見回す。


「……死体は放っておいたらくさいし、虫も出るし、病気にもなりやすくなるからな。食べられる訳でもないから腹も膨れないし」


 炎駒が辟易としながら、その火を眺める。ちり、と彼の羽が炎のようにゆらめいた気がした。やけに実感がこもっている気がするその言葉に、白冥が目を丸くした。


「やけに詳しいな」


「そうか?」


 そんな会話も、人が彼らの話を聞ける範囲になれば自然と小さなものになってやがて絶える。あからさまに警戒はしないように、不審に思われないように、そして衣服の下に隠したものが見えないように。

 ちゃり、と鎖が擦れる音すら今は煩わしかった。自分達の存在を極力消そうとするかのように、四人はゆっくりと集落を横切る。

 一人の女とすれ違う。見窄らしい見た目ではあるが、肉のつき方や清潔感などからそこまで困窮しているわけでもいなさそうな。現在の社会情勢を鑑みれば、おそらくは裕福な方の。顔には皺がいくつか浮かんでいて、髪にも白髪が混ざっていた。おそらくは五十代ほどだろう。

 自然と息を潜めて、四人はその女の横を通って……そして、その女が角端の顔を僅かに垣間見た瞬間、彼女は目の色を変えて角端の腕を掴んだ。

 その細い腕に見合わないほどに強い力で掴まれたそれに、角端はサッと顔を青ざめさせる。角端に身に起きた変化は二つ。尻から蛇のような尾が生えたことと、肌が亀の甲羅のように硬質化したことだ。

 つまり、触れられてしまえば、彼の異変はすぐにわかる。彼が人ならざるものの特徴を持っていることは、すぐにわかるのだ。


「あなた……!」


 愕然として叫ぶ女性。角端は混乱していた。なぜ突然掴まれたのか。掴まれてしまったら、自分たちの正体が露呈してしまう。角端だけじゃない、三人の身すら危ぶまれる。

 まずい。まずい。せっかくここまで逃げてきたのに。せっかくここまで歩いてきたのに。せっかく、解放されたのに!


「角端を、放せッ!」


 静かな恐慌状態は、威嚇するような鋭い叫び声によって解かれた。

 見れば、鋭く変異した爪を立てて牙を剥き出しにし唸っている白冥が女の腕を捻り上げていた。下衣からは大きく膨らんだ尾が立って見えている。

 そして、同じように聳孤と炎駒も角端を守るように手を広げて立っていた。聳孤は大きな尾をビタン! と地面に叩きつけて、炎駒は真紅の羽を広げて元から大きな体躯をさらに大きく見せている。

 周囲に人がいないのが幸いだった。彼らの姿を見た者は、老年の女性しかいないのだ。


「あなたたち、いや、あなた様達は……!」


 女は愕然と声をあげた。不思議と、そこに険はなく、むしろ歓待するような、喜びの響きが込められている。そして、彼女は角端に向かって頬を紅潮させて興奮しながら叫んだ。


「よくやったわ、瑞!」


 知らない名前で呼ばれた角端は思わず固まって、声を出せなくなる。しかし、同時に奇妙な違和感があった。

 なぜだがあの女にあの名前で呼ばれると、腹の底から滲み出るような恐怖が湧き立つのだ。

 二の句を紡げない角端に、女は間を置かず叫ぶ。捲し立てるように。


「四神の凱旋よ! 祝わなければ、讃えなければ!」


 いっそ狂気を感じてしまうほどの熱量に、白冥は訝しげだった。女は突然に腕から力を抜き、そして集落の一角にある比較的新しい小屋を指差した。


「見窄らしい場所ですが、どうぞおいでください。私共で歓迎いたします」




 警戒しつつも案内された先に向かうと、そこにあったのはやはり簡易的で隙間風が吹き込む薄暗い小屋だった。仮設住宅と言った方がいいかもしれないが、やはりその粗雑で急拵えな作りは小屋と表現するのに相応しい。

 窮屈な小屋に四人並んで座って、目の前の老年の女に警戒の目を向ける。角端を瑞と呼んだ彼女は、なぜだか上機嫌だった。


「……一つ、訊いてもいいか?」


 口を一番に開いたのは、炎駒だった。とは言っても、こっそりと話す内容を聳孤が掌に書いて、それをそのまま口に出しているだけなのだが。

 女性は快く頷く。その気味が悪く思える笑顔に引き攣った笑みを返しながら、炎駒は続けた。


「えっと……まず、ここって何ですか? どうして人が集まっているのでしょうか」


「それはですね、この先に四神様が討伐された戦地があるからです。未だに死体の回収が終わっていなくて、遺族などが集まって死体の回収や身元の照合を行なっています。私も愚息が戦場に行ったらしく、教えに従わぬ愚か者であっても血の繋がった息子なので参った次第です」


 「愚息」という言い方に、全員が眉を顰めた。聳孤に視線で先を促されて、炎駒は続ける。


「……『瑞』というのは?」


 女は一瞬、きょとりと目を瞬かせる。そして、角端に視線を遣った。


「そこの男ですよ。正確には、その体の前の持ち主、といったところでしょうか」


 その瞬間、白冥が立ち上がって鋭い爪を女性の首に突きつけた。刃のような爪はそのたるんだ肌に突き刺さり、血を一筋流れさせる。

 直接向けられている訳でもないのに、彼の背中からひしひしと感じる殺意と敵意。それを直に浴びせられている女性は、しかし眉ひとつ動かさない。


「……角端を、愚息と言ったな?」


「いいえ。私は私の息子である陰瑞を愚息と言ったのです」


「撤回しろ。不愉快だ」


「はい。大変申し訳ありません」


 あっさりと微笑んで答えた女性に、白冥は目を丸くする。しかし、白冥は感じ取っていた。それは本当にカクタンに向かって申し訳ないと思って撤回したのではない。白冥が怒り、撤回しろと言ったから謝罪を述べたのだ。彼女は己の発言を、間違っていたとは微塵も思っていないのだ。

 それを白冥もわかっているのだろう。未だ不機嫌そうに唸っているが、角端に袖を引かれて渋々座り直す。


「この戦場に参った者達は、全員が死にました」


 その喋り出しに、四人は息を呑む。その顔を見回しながら、女は続けた。


「生きて帰った者はなし。行方不明者は四人。諸月、瓦劉羽、帝参、そして私の息子の陰瑞。……瑞は、あなた様に瓜二つなのです、玄武様」


 玄武。その名を呼ばれて、角端は体を強張らせた。それは、彼の罪の名前だ。彼が牢で呼ばれた名前だ。いい思い出は、皆無に等しい。


「なぜ……」


 掠れた声で問う白冥に、女性は飄然と返答する。


「私の家は四神……世間では四獣と言われている方達を信仰しているのです。朱雀様、青龍様、白虎様、玄武様。…貴方達なのでしょう?」


 燃え立つような真紅の翼。翡翠の角と太い尾。虎のような爪に耳や、亀の甲羅のような皮膚。その特徴を見れば、一目瞭然なのだ。


「それにも関わらず、瑞は不敬にも貴方方の討伐に向かってしまいましたが。けれど、死して貴方達の依代となるのなら本望というものでしょう」


 女は笑う。息子が死んで、役に立って、良かったと。心底から。

 角端は口を引き結び、手を強く握って微かに震えている。その背を、聳孤が優しく撫でた。


「……お暇させていただく」


「あら、もうですか? 大した供物もありませんが、どうか私の感謝を……」


「要らん。不愉快だ。去ね、消え失せろ。二度とオレ達の前に姿を現すな」


 白冥は縦長の瞳孔を極限まで開き、女を睨みつける。その言葉に女は笑顔を固めて、「……は?」と呆然と呟いていた。


「行くぞ、三人とも」


 白冥は角端の腕を引いて小屋から出る。それに続くように、他の二人も席を立った。

 最後に、聳孤が振り返る。信仰対象に拒絶された女が、そこに一人いるばかりだ。


「ぉ、まぇ」


 ひどく掠れた弱々しい声が、聳孤の喉から漏れ出た。

 聳孤は煮え湯を飲まされたせいで喉が爛れている。しかし、それは決して潰れた訳ではない。治りさえすれば、声は出せる。

 ここ数日で傷が多少回復した聳孤は、全く喋れない訳ではなかった。ひりひりと激痛が走るが、喋れはするのだ。痛みを堪えながら、聳孤は何とか言葉を紡ぎ出す。


「ほか、さんにんの、ぇんじゃ、は」


 他の三人の縁者は。聳孤の問いはそれだった。

 諸月、瓦劉羽、帝参。そして角端として共にいる、陰瑞。行方不明となっているという人間は、四人だ。

 四人。聳孤達も、四人。その人数の一致を偶然と流すことは、聳孤にはできなかった。


「……瓦と、帝さんはここに来ていることは確認しています。けれど、諸は知らないです」


「……」


 聳孤は鋭い舌打ちをする。

 彼は、己が諸月であることを察していた。その名に、なぜだか馴染みがあるような気がしたのだ。

 それはおそらく、三人も同じ。それぞれ、己の人間としての名前は、聞いた瞬間にわかっただろう。

 ——私は、ひどく孤独な人間だったんだな。

 そう思いながら、手を振っている炎駒に追いついた。

 ——今は、そうでもないけれど。




『貴方達の縁者に、会って行った方がいいのでは?』


 突然そう伝えてきたのは、聳孤だった。その言葉に、白冥と炎駒は目を丸くする。


「……突然どうしたんだ、聳孤」


『瓦劉羽と帝参の縁者が、ここにいるらしいので。会った方が、いいのでは?』


 炎駒と白冥がわずかに目を見開く。やはりか、と聳孤は目を細めた。反応を見るに、瓦劉羽が炎駒、帝参が白冥だ。


「……聳孤の言いたいこともわかりますよ、僕。つまり、自分が一体何者なのか知りたくないのか、という事ですよね」


 自分達は、ただ四獣を宿した人間の死体なのか。それとも、ただ四獣を討伐に行って怪我をして、記憶喪失しただけの人間なのか。

 その答えに繋がる鍵が、あるかもしれない。


『無知は、罪だ。知ろうとしないことは、もっと重い罪だ』


 聳孤は毅然と告げる。その鋭い翡翠の瞳は、三人の顔を見回した。


「わからないことは、しるべきだ」


 ひどく嗄れた不安定な声で、聳孤は告げた。言い終わった瞬間激しく咳き込んで、地面にしゃがみ込む。炎駒は慌てて駆け寄ってその背をさすりながら、「そうだな」と呟いた。


「おれ、バカだけど……バカだからって何も知らないじゃ済まされないし」


 いつまでも聳孤に頼っているわけにもいかない。知りたいことは、自分で知らなければ。


「会うよ、聳孤」


 決意に満ちたその一言に、聳孤は喉を抑えながら満足げに笑む。次に二人の視線は、白冥に注がれた。


「……もし、もしさ、それでオレ達が人間として生きていた頃の記憶を思い出したとしたらさ……」


 白冥は俯いた。顔に影が差す。まるで、怖がって立ち竦んでいるかのようだった。


「オレ達はどうなる? 人間として生きるのか? 獣として暴れるのか? ……離れ離れに、ならないよな?」


 わずかに潤んだように見える乳白色の瞳に、炎駒達は目を見合わせて苦笑した。


「僕達が人間だろうと獣だろうと神だろうと、もうこの国にいられないことは確かですよ」


『炎駒でもわかってた事でしょう。もしかして白冥って結構馬鹿ですか』


「コラ、聳孤!」


 白冥に向けられた穏やかな笑み。聳孤はこっそりと炎駒の掌に文を書き、炎駒はまるで弟でも叱るように怒鳴った。

 当然、彼らは共にある。白冥は虚を突かれて黙り込み、そして次に顔を挙げた時には懸念は消え失せていた。


「わかった。聳孤の分まで存分に知識欲を満たしてくるさ」


 その言葉に、今度は聳孤が豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をした。いつも澄ました顔をしている彼の珍しい表情に、白冥は思わず「ふはっ」と失笑する。


「少し考えればわかるだろ。お前の言い草、明らかに変だったから」


 聳孤は己の過去は知れない。彼の過去を知る者はここにはいないのだから。それを、白冥は察していたのだ。

 悪戯っぽいニヤケを隠しもしない白冥に、聳孤はチッと舌を打つ。拗ねているようにも見えるその仕草に、炎駒と角端も思わず笑ってしまった。



 それから数時間後。白冥は集落の端にある、家の玄関の前に立っていた。

 そう、家だ。この周囲は戦火に燃やされたばかりであるので、基本的に特急建築の脆く雑な小屋しかない。しかし、ここだけは家の体をなしている。

 戸を叩くと、数秒の時間を置いて老年の男性が出てきた。どこか見覚えがあるような気がする顔だと、白冥は思う。心労が刻み付けられたかのような皺と白髪の数で、しかし背はまっすぐに伸びていた。

 老人は訝しげに白冥を眺めた。足の爪先から頭の天辺まで。全身を布で覆い隠した不審な男を、老人は睨む。


「帝参という男のことを聞きたいのですが、よろしいでしょうか」


 丁寧な口調は、不思議と自分の口に馴染んでいる。老人は一瞬目を見開き、そして白冥を家の中へと誘導した。

 一般的な民家ほどの広さと部屋数の家は、その外見と異なり内装はひどくこざっぱりとしている。生活するのに必要最低限、といった印象だ。


「こちらにおかけください」


 と椅子を引かれて、白冥は慣れた様子で座った。慣れた様子で? どうやら、参は高い身分にいた人間らしい。誰かに世話を焼かれるのに、慣れている。「茶も出せずに申し訳ありません」と謝られて、反射的に尊大に答えてしまいそうになった。


「参坊ちゃんのことを聞きたいと、仰りましたね」


「はい」


 白冥は、知らず生唾を飲んだ。耳に痛いほどの沈黙が体感では数分続く。実際は、ほんの数秒だったかもしれないが。


「参坊ちゃんは、大富豪の帝家の次男です。私は参坊ちゃんにつけられた、世話役でした。あのお方が幼い頃から、ずっとお世話をしてきました」


 参の出自を聞いて、白冥は深く納得した。なるほど、自分の偉ぶった態度の所以はここからだったのか、と。


「参坊ちゃんは家では放蕩息子と呼ばれており、次男坊という立場もあって自由に過ごしていました。そして、四獣を倒しに行くのだと。坊ちゃんは武術に優れたお方でしたので、きっと帰ってくるだろうと呑気にも思ってしまっていました。……結果、届いたのは行方不明の報せでしたが」


 老人は俯く。その表情は伺えないが、さぞや悲痛に顔を歪めているのだろう。それを想像するだけで、胸が締め付けられるような心地がした。


「奥様と旦那様が我が子に無関心でして。なので、私が探しにきた次第でございます」


「……そうですか」


 白冥も短く答えて、黙り込む。悼むような沈黙が、その場に流れた。それに耐えかねて、老人が口を開く。


「……参坊ちゃんは、温和な方でした」


「はっ?」


 思わなかった一言に、思わず白冥は呆けた声をあげていた。


「昔から家の中の権力争いに巻き込まれていて、苦労の絶えない方でした。それにも関わらず、人懐っこく笑顔が可愛らしい方でいらっしゃって」


 誰だそれは、と言いそうになって、直前で飲み込む。無意識的に『帝参』は『白冥』と似た人物像だと思い込んでしまっていたが、それは違うのだろうか。

 もし、参が白冥と全く違う性格ならば。全く違う人格ならば。

 白冥は、参ではなく白虎なのではないか。参の体に取り憑いて、その体についた傷のせいで記憶は失ったものの性格は白虎のもの。そう考えた方が、自然なのではないか。

 口を押さえて黙り込んだ白冥に、老人は「大丈夫ですか?」と首を傾げる。自分の顔から血の気が引いていることがはっきりとわかった。


「……すいません、お暇させていただきます」


 早口に言い終えると、白冥は立ち上がって足早に玄関まで向かった。

 そしてその足を、老人の叫びが止める。


「待ってください、参ぼっちゃん!」


 足が床に縫い付けられたかのように、動かなくなった。その反応を見て、老人は悲しげに微笑む。


「その声、髪や瞳の色。それに、仕草……一体何年、お隣にいたと思っているんですか」


 白冥は布を深く被り直して、口を噤んだ。その仕草が、何よりもわかりやすい答えに老人の目には映っただろう。


「何か、事情があるのでしょう。貴方は大変思慮深いお方です。一度その片鱗を見てしまえば、常の笑みが嘘と思えてしまうほどに」


「……」


「帰られるつもりは、あるのですか?」


 白冥は老人から目を背けた。

 そんなものは、ない。これから四人で海外に亡命して、もうこの国には帰らない。白冥自身も、それを望んでいた。

 小さく、首を横に振る。それを見て、老人は肩から力を抜いた。


「……ご武運を」


 その一言に、驚いて振り返る。老人は、寂しげで喜ばしげな笑みを浮かべて、白冥に手を振っていたのだ。

 目頭が熱くなったような気がした。これは参の感情か、それとも白冥の感情か、彼にはわからない。ただ、寂しさだけがそこにある。


「……さようなら、爺」


 その呼び名は、自然と唇から滑り落ちた。白冥自身も、驚いてしまうくらい。再度背を向けて、玄関の扉を開く。

 背中にずっと、見送りを受けながら。



 炎駒は、小屋が特に多く建てられている場所の一角に足を踏み入れる。ここは貧しい者達が身を寄せ合っている場所なのだろう、顔立ちも体格も全く違う女二人が寄り添って毛布を被っているのが見えた。

 落ち着きなく視線を巡らせるが、どこが炎駒の、劉羽の縁者の住む場所なのか全くわからなかった。何せ、どれも似たような形、同じ素材で作られてた小屋なのだから見分けがつかない。

 聳孤からある程度の場所は聞いているものの、炎駒はこの場所で迷ってしまっていた。ふと、建物がまばらになっている場所で壁に板を打ちつけている少女が見えた。赤みがかった髪を一つに結った、快活そうな若い娘だ。痩せ細り方から栄養状態は良くないことはすぐにわかるが、しかしそれでも健康そうな印象がある。

「あの、そこの人」

 敬語に慣れていない炎駒は辿々しい丁寧な口調で少女に話しかけた。少女はすぐに振り返り、そして炎駒の姿を見て目を瞠る。背に何かを背負った大男など、驚かれても仕方がない。


「瓦劉羽という男の血縁者を探してるんだけど……」


「……兄さん?」


「え?」


 少女の呆然とした呟きに、炎駒もまた呆然と返す。

 少女は壁に打ち付けている途中の板と釘、槌を全て放り投げて駆け出した。炎駒の、胸の中へ。


「兄さんっ! 良かった、生きてた!」


「え、な、なんだ⁉︎ 何、誰⁉︎」


 混乱している炎駒と、感極まるあまり涙を流して炎駒の腹に頭を押し付ける少女。幸い、周囲に人はほとんどいなかったものの、人がいたら不審げな、あるいは迷惑そうな目を向けられていた事だろう。

 それから数分後。ようやく落ち着いた少女は、薄暗い小屋の中で咳払いする。


「ごめんなさい、取り乱しました」


「いや、良いんだけど……どうしておれが劉羽だと?」


「声とか、体格……それと、勘かな」


「勘……」


 少女はどうやら、貧民の出身であるようだ。そして彼女は瓦の姓を持つ者、即ち正真正銘、劉羽の妹である。なんたる偶然だろうか。


「それで、あなたは本当に兄さんじゃないんだよね?」


「ああ、おれは炎駒。えっと、タニンのソラニ? ってやつだ」


 炎駒はそう答えた、実際、自分が劉羽である可能性も否定しきれないのだが、少女のあの喜びようを見ると告白しきれない。一度そう言ってしまったら、また腹を抱き締められて二度と解放されないような気がした。


「そっか。……うん、そっか」


「……大丈夫か」


「大丈夫。うん、大丈夫。行方不明って、死んじゃってるって事だって母さんも言ってたし。うん、そう、知ってた。だから大丈夫」


 少女は自分に言い聞かせるように言いながら、俯いた。その肩に手を置いて慰めるのは、残酷だろうかと炎駒は迷う。


「……それで、兄さんに何か用ですか?」


 少女は顔を上げた。目の下がわずかに赤らんでいるのには見ないふりをする。


「えっと、彼がどんな人間なのか知りたくて。妹なんだろ? 劉羽って、どうしてここに来て……」


「どうしていなくなったか、って?」


 死んだ、とは二人とも言えなかった。少女は劉羽が死んだのだとは思いたくないのだろうし、炎駒は劉羽が純粋に死んだとは言い難いところにいると知っていた。


「……兄さんは、力自慢だったよ」


 炎駒は弾かれたように顔を上げる。目の前では、少女が自分の髪をいじりながら語り始めた。


「うちはさ、ずっと昔から貧乏で。父さんは頭が言い方が何かと言いってあたし達に勉強させようとしてたけど、働きすぎて死んじゃった。それから、兄さんは変わったんだ」


 少女は僅かに目を伏せる。


「自分は頭が悪いからって、滅多に口を開かないようになった。そこから、元から力は強かったんだけど喧嘩は負けなしになって、お金のために四獣を討伐するって」


 身銭は無くても、あたしは兄さんがいればよかったのに。少女は瞑目した。


「……ごめん」


「なんであんたが謝るの」


「いや……ごめん」


 少女は苦笑して、そして炎駒の顔を覗き込む。


「兄さんじゃないんでしょ。……小さい時の兄さんそっくりだけど、死んじゃったんだもんね。父さんがいなくなる前の兄さんはとっくの昔に死んじゃってて、大人になった兄さんもついこの間いなくなった」


 彼女の周囲のものは、どんどんといなくなっていく。それは、いかなる心境だろうか。その心痛は想像するに余りある。


「……劉羽は、どうして戦場に?」


 守るべき妹がいたのに、それか、妹がいたからか。それとも、金のためか。


「わかんないよ。……けど、少なくとも、戦場で何かいい出会いがあった事は確かだと思う」


「良い出会い……? 戦場で?」


 少女とそっくりに首を傾げた炎駒に、少女は一枚の手紙を差し出す。粗末な紙に文字がずらりと並んでいて、うげ、と炎駒は眉を顰めた。炎駒は文字が読めない訳ではないが、難しい単語はわからない。そしてこの手紙は炎駒が決して書けないような言葉や知らない言葉の羅列が存、暗号にも等しく思えるのだ。


「なんだこれ……」


「それ、兄さんから送られてきたの」


「は? そんな筈……」


 だって、炎駒が読めない文字が使われているのだから。記憶喪失ではあるが知識は残っているのだから、自分が劉羽であったのなら読めない文字は読めない筈なのだ。

 炎駒自身が、本当は識字もできる、つまり全く別者の朱雀でもない限り。


「……この手紙、貸してもらえないか?」


「え?」


「仲間に、文字が読めるやつがいるから。絶対に内容は伝えに戻るから、今だけ」


 少女はきょとんと目を丸くするが、すぐに微笑んで頷いた。


「いいよ。どうせあたしが持ってても読めないし。よろしくね」


「ありがとう!」


 炎駒はそう言うと、手紙を胸に抱えて小屋を走り出た。とは言っても、片足が動かないのでひょこひょことした歩きだが。しかし、気持ちでは確かに走っていたのだ。


「……変な人」


 その後ろ姿を見送りながら、少女は呟いた。そして、ふと自分の足元に眩い色彩を発見する。拾い上げて、くるりと指で回しながら観察してみた。


「何これ……羽根?」


 それは、真紅の羽根だった。毛の先が僅かに揺らめいているように見えるのは、目の錯覚だろうか。


「……あったかい」


 それは、まるで人肌に触れているかのような温度だった。安心する、柔らかい心地よさ。

 それを胸に抱いて、少女は泣いた。胸の中に、いなくなった兄が戻ってきたような心地になった。



 集落の端で目立たないように肩を並べて座っていた聳孤と角端は、暇つぶしに会話をしていた。会話といっても、側から見れば角端が一方的に喋っているように見える。聳孤は角端の左手の掌にひたすらに文字を書いていた。肌は硬質化しているが感触は至って普通に働いているので、筆談は可能だ。

 角端は、読み書きには余り苦労していないらしい。難しすぎる単語や普段あまり使わないような言葉はわからないが、日常会話で使う分には困らない程度だ。


『もしかしたら、私は花街で育ったのかも。それも、妓楼で』


「え? 妓楼で? あそこは遊女と禿くらいしか育てられないのでは?」


『私の出生が結構特殊だったりするのかもしれないです。……例えば、遊女の息子だったり』


「ありえない……とは、言い切れないかもしれないですね。聳孤、綺麗な顔立ちしてますし」


『……ありがとう?』


「けど、こう言うのはなんですけど、堕胎とかってしないんですか? 遊女って」


『避妊できる薬も道具もあるし、堕胎もできます。……やっぱり、遊女の子供って線はなしですかね』


「逆に、禿だったのではないですか?」


『ない……とは、言い切れませんね。私、女性に負けず劣らずの顔立ちしてますから』


「聳孤って意外と自分に自信ありますよね……」


 そんな会話をしているうちに、炎駒と白冥がほとんど同時に戻ってきた。


「お帰りなさい」


「ただいま! 聳孤、いや、誰でもいいや! これ読んでくれ!」


 炎駒が帰ってくるなり、手紙を聳孤達の目の前に突きつけた。角端は訝しげにそれを受け取る。


「これは……手紙……?」


「どこから持ってきたんだ、炎駒」


 白冥が手紙という言葉を聞きつけて、炎駒をじろりと見た。


「劉羽の妹に会ったんだ。それで、それが劉羽からの手紙だって! おれには読めない言葉が多かったから、読んでくれ」


「それっておかしくないですか? あなたがもし元々劉羽であった人間なら、読めるはずでは?」


 角端の言葉に、全員が一瞬黙り込む。

 その沈黙を突き破ったのは、疑念の渦中にいる炎駒だった。彼は気がついたのだ。手紙を覗き込んだ聳孤が、目を見開いて固まっていることに。


「聳孤、どうした?」


 炎駒が掌を差し出すと、聳孤は徐にそれを取って文字を指で書き始めた。


『私の字だ』


「は?」


『この筆跡は、私のものだ。……これは、私が書いた手紙だ!』


 敬語がそこからは外れている。丁寧にするように取り繕う余裕も、彼にはなかったのだ。


『どういう事だ⁉︎ 説明しろ、アホンダラ!』


「今アホンダラって書いただろ⁉︎ それくらいはわかるぞ!」


 聳孤は取り乱すあまり、炎駒の掌に爪を立ててしまっている。「いたた!」と声をあげても聳孤には届かないようだった。


「しょ、聳孤、一回落ち着け!」


 白冥と角端に宥められて、聳孤はなんと平静を取り戻す。『すみません、取り乱しました』と地面の砂に書きながら頭を下げて、彼は手紙に視線を落とす。


「本当に、お前の字なのか?」


『この文字の癖は、私です。……なんでかわかりませんが、私の文字は少々……』


「……汚いな」


 白冥は手紙の文字を覗き込んで、言った。彼は聳孤と同じくらいに文字が読める。


「そうなのか?」


「ほら、見てみろ」


 白冥はそう言いながら、地面に己の文字を書く。先ほど聳孤が書いたものと並ぶようにして、全く同じ文字を。


「……なるほど」


「確かに、聳孤のはおれの文字と少し似てるかも。使ってる言葉が難しくて気づかなかった」


 こうして比べてみると、一目瞭然だ。白冥の文字は整然と整っており、聳孤の文字はそれと比べると雑で読みづらい。言葉を選ばずに言うと、汚い。


「確かに、この癖は聳孤かもしれませんね。……けど、どうして劉羽からの手紙を聳孤が書いているのですかね?」


『私じゃなくて、月が書いたのかもしれないです。……手紙の内容、要約して書きますね。炎駒にも伝わるように』


 聳孤はそう言って、手紙の文面に目を落として黙り込む。三人は聳孤の周囲で手紙を覗き込んでいるが、炎駒はやはり読めないように首を傾げていた。角端も所々読めない文字があるようだ。

 数分して読み終わり、手紙を脇に置いて地面に書き始める。


『至って普通の、業務連絡といった内容です。家族への手紙というより、報告書みたいな印象がありますね』


「報告書?」


「あまり、家族に向けた口調ではないという事ですか」


 聳孤は小さく頷く。


「炎駒、妹さんから聞いた劉羽の印象はそんなに堅苦しいものだったのですか?」


「いや、父親が死んでからあんまり喋らなくなったとは聞いたけど、昔は陽気だったって聞いたし、そんな印象はないな」


 聳孤はそれを聞きながら、再度その手紙に目線を落とした。


『戦場で暮らす日々についてと……仲間ができた、という内容が書かれています』


「仲間?」


『名前までは書かれていませんが……』


「聳孤、読み逃してる一文がありますよ」


 角端はそう言いながら、手紙の中の短い一文を指差した。


「『この手紙も、字がちゃんと読める仲間が書いてくれてる』……と」


 この手紙を書いたのは、おそらく諸月だ。月が仲間ということは。


「月は、劉羽の戦友だったってことか……?」


 元々、知り合いだったかもしれない。突如浮き上がった可能性に、聳孤と炎駒は目を見合わせた。

 そういえば、思い返せば、初めてあの牢屋で声を聞いた時や、そこから出て初めて顔を合わせた時、奇妙な馴染み深さがあった気がする。あの薄暗い牢屋で、互いに顔も見えなくて、拷問によって疲弊しきっていたあの時。


『それなら、白冥と角端も知り合いだった可能性もありますよね』


 聳孤に指摘されて、白冥と角端も目を見合わせた。確かに、この四人は元々この戦場にいたのだ。ならば全員が知り合いであっても、おかしくはない。


「そう、ですね……言われてみれば、そんな気がしてきました」


「不思議だな。オレ達はあの牢屋で出会う前から、出会っていたかもしれないなんて」


 一番最初の出会いは、目隠しをされたまま連れ出された裁判所。その次が、互いの姿も見えないようにされた牢屋。そして次が、外。そうだと思っていた。けど、人間だった彼らは、四獣が討伐される前から、同じ釜の飯を食べていたのかもしれないのだ。

 問題は。


「やっぱり、その人間と今のオレ達が同一人物なのか、だな」


 彼らは、この戦場で四獣と戦って記憶を失った人間なのだろうか。

 それとも、この戦場で人間と戦い記憶を失った四獣なのだろうか。


「……そもそも、どうして上は僕達を四獣だと判断したのでしょうか」


 その一言で、三人の視線が一斉に角端に集まった。


「今のように四獣の特徴が出ていたのなら、死人の体を乗っ取っている獣だと判断されてもおかしくはないと思います。けど、私達が投獄された時は普通の人間と同じ外見だったでしょう? どうしてその状態で、僕たちを有罪だと……四獣と判断したのでしょうか」


 言われてみてば、当然の疑問ではある。自分たちでさえ己が獣なのか人間なのかわからないというのに。人外の特徴が現れた現在でも、不思議と自分たちが獣であると断言できないのに。


『……冤罪の可能性も、あると思います』


 聳孤が地面に文字を書く。


「冤罪ィ?」


「えん……何だ?」


『つまり、上の人間は私達が獣か人間かわからないまま刑に処した、ということです』


 推定有罪。

 無罪か有罪かわからないから、疑わしきは罰する。そういう事だ。


「……否定、しきれないな」


 何せ、四人とも自分たちが『有罪』と断ぜられた事しか知らないのだ。なぜそこに至ったのか、彼らは知らない。

 重い沈黙が落ちた。気がつけば日はなだらかな斜面を描く地平線に沈もうとしており、赤みを帯びた光が斜め上から差している。

 とりあえず、今日は疲れた。様々な情報を脳に無理矢理詰め込まれた気分だ。

 粗末な布を地面に敷いて、まともに食べ物も食べないままに四人で並んで眠りについた。



「羽……劉羽!」


 自分の身長より少し下から名前を呼ばれて、劉羽は視線を僅かに下に下げる。そこには、軍師のような出立ちをした若い男がいた。深緑の髪をゆったりと結い、翡翠のような瞳で見上げてくる。彼は小柄な訳ではなく、平均的な身長ではあるが、何せ劉羽の身長が高いからほとんどの人間は見上げる形になる。

 どうした、という意味を込めて首を傾げると、軍師の男、月は小さく嫌味ったらしく溜め息を吐いた。


「もう二人とも集まってるます。この時間帯に集合と言ったのに、全く」


 そうだ、と劉羽は思い出す。ここは四獣を討伐するために編成された軍隊の中で、その中でも特に腕利きの四人が集まって作戦会議をする予定だったのだ。この部隊が集められた時点で四人とも顔見知りにはなっており、作戦会議を終えたら友好を深めるために小さな酒宴の席を設けるという予定だったのだ。劉羽はすっかり忘れてしまっていた。

 申し訳なさげに頭を下げると、月はふっと苦笑してその頭を乱雑にわしゃわしゃと掻き回した。そして、周囲には聞かれないように耳打ちをした。


「お前の杏仁並の頭の小ささにはもう慣れましたよ。ほら、行きますよ。白冥は普段はあんなですが、実は待たされるのが嫌いなので」


 そう言って、月は一足先に歩き始めた。劉羽もすぐに追いついて、肩を並べる。

 国を荒らし民を殺しているという四獣を討伐しに来て、気がつけばこんなところまで来ていた。この国の人口の減り具合は凄まじく、兵隊も何部隊も壊滅状態にあり、劉羽達は正規の兵ではないにも関わらずこうして軍隊にいた。最早性別も身分も関係なくなってしまうほどに、この国は困窮している。

 月も、元々は官僚になって成り上がろうとしていたのだそうだ。花街でほとんど独学で学を積み、そしてここで軍師として武勲を立てようとしている。中々の野心家だ。時折見下したような態度をとるが、それは限られた人間にしかとらないものだと劉羽は知っている。劉羽も他二人も変に取り繕われるのは好まない質なので、月の態度はむしろ好意的に受け取っていた。


「参、瑞。待たせましたね」


「お疲れさまぁ」


「劉羽、次からは気をつけるように」


 参は乳白色の瞳を細め、のんびりとした口調で手を振る。瑞は厳しく、元から細い目を更に細めた。

 そして四人は簡易的なテントに入り。

 そして。


「いやあー、本当に、ごめんな、三人とも!」


 今まで口を縫い付けられたかのように一言も喋らなかった劉羽が、快活に口を開いた。


「劉羽、静かにしろ。声が外に漏れるだろ」


「まあまあ、ここでくらい羽を伸ばしてもいいじゃないですか」


 先ほどは人好きしそうな笑みを浮かべてのんびりとしていた参はどっかりと椅子に座り込み、眉を顰めて尊大な態度で言う。

 瑞は表情を和らげて、のんびりと参を諫めていた。

 これが、本当の彼らだ。


 劉羽は、学がないからそれを周囲に悟られて舐められないように常に口を噤んでいる。しかし実際は陽気で明るい人物だ。彼がそんな人間でいられるのは、仕事も立場も関係なく素の自分でいられる人間を相手にしている時だけだ。


 月は、育ちが育ちなので口がかなり悪い。字も汚い。それを悟られないように、成り上がるために、常に丁寧な言葉を心がけている。口調自体は最早染み付いたものになっているが、毒舌を吐くのは彼なりの信頼の証でもある。


 参は、金持ちの家に生まれて、家の中の跡目争いやくだらない権力闘争に幼い頃から巻き込まれ続けてきた。だから己の身を守るために常に人を油断させる柔らかな笑みを浮かべている。しかし、本当はそんなものから一切合切開放されて、平民のように生きたいのだそうだ。


 瑞は、今のご時世では珍しい、四獣を信仰する家系に生まれ、彼もまたその信仰を強制されてきたらしい。しかし彼自身はそんな信仰は持っておらず、寡黙に口を噤んでいるのは己の意志を誰かに言ったら殴られる、しかし己の意志は曲げたくないという固い決意の現れだ。


 四人とも、それぞれこの世界での生き辛さを抱えている。その懊悩を全て捨てて、本当の素の自分でいられるのは、この四人でいる時だけだ。


「それで、どうやって四獣を倒そうか」


「情報はある程度、ここに」


「オレ達の兵の数で歯は立つか?」


「一騎当千、と言う言葉があるでしょう」


 らしくもなく挑戦的な笑みを浮かべて告げた瑞の顔を、全員が目を丸くして見る。


「僕達だけで、倒してしまえばいいんですよ」


 瑞は、自信ありげに微笑んで、三人の顔を見回した。


「いやいや、流石に無理でしょう。というか私を頭数に数えないでください、私は軍師ですので」


 月は軍師ではあるが、直接前線に赴いて指揮を執る手筈になっている。そうしないと、指示が通らないのだ。


「月も腕は立つだろ。頼りにしてるぜ、軍師様ァ!」


「私は頭を使うのが仕事で、戦いは脳味噌が筋肉でできてる連中に任せたいんですけどね」


「劉羽も、この中だと一番強いですから。頼りにしていますよ」


「おれ、頭を使うのは苦手だけど戦うのはできるから! 困ったら頼ってくれ」


 四人は腕を組んで笑い合う。ほんのひとときの平和な時間が、心の安寧の時が、そこにはあった。

 そして、それから間もなくして。


 土煙と血霧が漂う荒野の中で、劉羽は地面に倒れ伏していた。

 鼻を突くのは、生臭い血の匂いと、それが焦げたような匂い。鉄の匂いと味がやけに強いと思ったが、それは己が流した血のものだった。


「ゆ、え……つぁん、うぇ、い」


 月は、彼らしくもなく剣を傍に倒れていた。参は、まだ意識があるようで瑞の元に這いずろうとしている。瑞は固く目を閉じており、力無く他の人間の死体にもたれかかっていた。

 生きているかどうかも、わからない。しかし、彼らの元に向かおうにも、体は指一本動かすことすら苦痛で億劫だった。

 ふと、視線を動かす。煙の先に頽れた、四つの巨大な影。

 青龍、朱雀、白虎、玄武の死体だった。

 討伐自体は、成功したのだ。


「ゆえ……月! 倒せたぞ! これで、これでおまえも出世できる……」


 月の元へとなんとか這いずり、彼の肩を叩く。しかし返事はない。呼吸はか細く、今は命があるものの、このままだとどうなるかわからない。


「月、死ぬな……! おまえは、成り上がって官僚になるんだろ!」


 ぅ、と小さな呻き声。それが月が生きようとしている証左のようで、劉羽は安堵に力を抜いてしまいそうになった。

 しかし、軍勢は壊滅状態。生命の気配はほとんどない。衛生兵すら、おそらくは。


「月、持ち堪えてくれ……」


 哀願しながら、ふと気がついた。

 自分達が討伐したはずの四獣の体が、霧散していっているのだ。


「は……?」


 死体が塵となって消えるなど、普通の事態ではない。

 いや、そもそも四獣の存在事態、普通ではない。こんな事があっても、不思議ではないのだろう。ただ、自分達が死力を賭して戦った証拠が消え去ってしまったようで、ひどく虚しかった。

 僅かに淡い光発する、元々は四獣だった塵が周囲に広がり、蝶の鱗粉のようだった。切れ切れの呼吸をしていると、自然とそれを吸い込んでしまう。けれど、呼吸を止めることは決してできなかった。劉羽も、体中が傷だらけだったから。

 ふと、意識が遠のく。頭部から流れた血で視界が赤く染まって、眼球が痛い。全身にひっきりなしに伝播する痛みすら、遠くなっていく。

 そうして、劉羽は意識を落とした。真っ暗になった視界の端で、真紅の羽が揺らめいた気がした。



 炎駒は目を覚ます。何か悲惨な、けれどもいいこともあった夢を見た気がしたが、意識が覚醒してから毎秒ごとにその記憶は不明瞭になっていってしまっている。

 周囲を見回すと、聳孤も白冥も角端も、全員で身を寄せ合って眠っていた。一瞬、血まみれで死んでいるように彼らが倒れている光景を幻視して、ひゅっと息を呑む。その音に、聳孤がゆっくりと瞼を上げた。

 未だ寝ぼけているらしく、緩慢な所作で体を起こして、聳孤は炎駒の掌を取った。


「おはようございます」


 首につけられた枷や刺青は痛々しいけれど。未だに声も出せなければ水を一口飲むのにも激痛に喘ぐ様は見ていられないけれど。

 確かに、彼は生きていた。


「……おはよう」


 喉が変に詰まりながら、なんとか返事を返す。聳孤は訝しげに眉を歪めた。


『どうして、泣いているんですか』


 問われて、初めて炎駒は己の頬に涙が伝っている事に気がついた。


「あれ……? なんで、どうしてだ? どうして……」


 どうして、この涙は溢れて止まらないのだろう。

 拭っても擦っても、大粒の涙は瞳から零れ落ちる。炎駒の意志では止められない。とうとう嗚咽まで漏らし始めた。

 その困惑しきった泣き声に、白冥と角端も目を覚ました。泣いている炎駒と、その前でわたわたとしている聳孤を見て、しかし何も問わずに全員で肩を組むように抱きしめる。

 そこには、確かに人間の体温、一定の鼓動があった。

 それに、炎駒は更に泣いた。悲しいのではない。安堵の涙だった。



『落ち着きましたか?』


「ああ。ごめん、みんな」


「別にいいけど……全く、驚いた」


「何か悩みがあるなら遠慮なく言ってくださいね。むしろ言ってくれない方が迷惑までありますので」


 口々にかけられる言葉に、炎駒は恥ずかしいようなありがたいような複雑な心境で苦笑いを返した。


「なあ、みんな」


 目の下についてしまっているであろう赤い跡を気にしながら、炎駒は喋り出す。


「向こうの……四獣が討伐されたっていう場所に、行ってみないか?」


 思ってもみなかった言葉に、全員が不思議そうな顔をした。


「それはまた、どうして」


「なんとなく」


 なんとなく、行きたいと思った。行かなければならないと思った。

 それ以上は何も言わず、炎駒は黙り込む。あまり訳は話したくない、というよりうまく言語化ができなくて話せないのを察したのか、三人とも「わかった、行こう」と立ち上がる。

 朝日が出たばかりであるからか、人は寝静まっていた。人の気配は小屋の中にしかない。その荒野を、ひっそりと息を殺して四人は歩いた。勾配を上り、そしてその戦場の跡地を見下ろした。

 そこは、巨大なクレーターだった。月が落ちて来て地表を撫でたかのようなへこみは、その全体が赤茶けた色に染まっている。

 それが乾ききった血の色だと、四人は直感する。

 ここは、ありとあらゆる命が死滅した場所。自分が踏みしめている赤茶けた土の一粒一粒が、そのままここで失われた命だ。その重みに、炎駒は押し潰されてしまいそうな心地になる。

 目を閉じて、追悼。ここで奪い奪われた命を悼む。


「なあ、もしおれ達が人間だったとしたら……劉羽や、月や、参や、瑞だったら。この羽は、一体なんなんだ?」


 その問いに、後ろにいる三人が僅かに息を呑んだ。そんなこと、考えてこなかったと。いや、意図的に考えようとしなかったのかもしれない。自分達の存在が確定してしまうのが怖くて、あえて見ないふりをしていたのかもしれない。


「オレ達が本当に人の形を奪った四獣か……それか、この荒地に足を踏み入れた時に四獣の死骸のなんらかの力が作用したのか、だと思う」


 白冥が答える。彼らの体に異変が生じたのは、ちょうど四獣が暴れた跡地に入った時だ。土地に残った四獣のなんらかの力が、元々四獣と戦っていたという彼らに働いて姿が変わった。そう考えることもできる。そもそも四獣の権限という事態が摩訶不思議なのだから、いくら不思議な事が起きたって不思議ではない。

 ただ、彼らの魂が四獣のもので、その形に引っ張られて姿が変わったと考えることもできる。外見の変化という足がかりのみで、自分達が一体何者なのかを知ることはできないのだ。


「おれ、思ったんだけどさ——」


 炎駒が口を開いたその瞬間。

 白冥の鋭敏な耳が、何か異様な音を感じ取った。


「静かに。……なんだ、これは」


 一言で言うなら、足音だ。それ以外の何者でもない。

 しかし、まるでここ周辺にいた人々が全員一斉に歩き始めたかのように多重に重なり合った足音だったのだ。

 朝が来たから働きに出始めた、といった様子でもない。例えるなら、隠密をしようとして失敗しているような、土を擦るような足音なのだ。

 それが少しずつ近づいて来て、他の三人も異常を感じ取る。一気に空気が冷たくなったような気がした。警戒とともにピリピリとした空気を纏わせて、盆地の上を睨む。

 一番最初に顔を出したのは、老年の女性だった。どこかで見覚えがあると思ったが、すぐに思い当たる。

 陰瑞の、母だった。彼女は強張った表情で周囲を見回し、そして炎駒達の影を見つけるなり振り向いて叫んだ。


「いたわ! 四神様の名を御姿を汚す穢らわしい人間よ! 殺して頂戴!」


 ヒステリックな叫びに、一瞬何を言っているのかわからなくなる。その意味するところを理解した瞬間、さっと血の気が引く音がした。

 瑞の母は、軍勢を連れてきたのだ。自分達四人を殺すために。


「っ、逃げろ!」


 炎駒の叫び声と全く同時に、四人が一斉に踵を返して走り出した。盲目の白冥の手は聳孤が引っ張り、片足が不自由な炎駒を角端が手助ける。

 間もなく、見窄らしい大量の男達が水の母の横に並び立った。彼らは全員鋤や鍬を握っていて、迸る殺意を隠そうともしていない。

 そう、この国の民は四獣に苦しめられている。そんな彼らが、憤懣の捌け口を見つけたのなら、何をしてでも捕らえようとするだろう。四獣に似た姿なのなら、それだけで怒りの矛先となる。

 同じだ。四人を肉刑に処した国の上層部と。やはり、人間なのだ。人間だから、怒りを何かに向けたがるのだ。それを愚かだと蔑むことは、四人にはできない。彼らもまた、人たらんとするものだからだ。

 ただ、悲しかった。自分達も人であるつもりなのに、同族である人からは拒絶される事が。

 背を向けた四人に、民の幾人かが弓に矢を番える。小さく頼りない弓で、狙いもまともに付けられずに矢は四人から遠く離れた場所に刺さった。


「何やってるのよッ!」


 耳を聾する、甲高い叫び声。瑞の母は心の底から四獣を信仰していた。だから、自分達のような自分が人間か神か獣かもわからないような存在が四獣の似姿をしている事が、我慢ならないのだろう。彼らだって好きでこの姿になったのではないのだから、八つ当たりを喰らってやる謂れはない。


「早くしなさい、この鈍間! さっさとあの無礼者どもを殺して——」


 声が、ぷつりと途切れた。

 振り返ると、瑞の母は横から斧の柄で頭を強打されて倒れている。死んだかどうかはわからない。

 当たり前だ。彼女のような信仰の対象を持つ者は非常に稀で、そして民にとっては邪魔である。自分達に都合のいい情報だけ搾り取ったら、あとはただの力のない老婆だ。

 怒りによって老人に暴力を振るってはいけないという倫理観すら吹っ飛んでしまっているのだろう、民達の瞳は皆一様にギラついている。

 そしてその内何十人かが斜面を滑り降りて、自分達に走り迫ってきた。距離は離れてはいるが、何せ四人は走るのが遅い。


「なあ!」


「なんだ⁉︎」


「おれ、思ったんだけどさ!」


 それは、あの軍勢に中断された言葉の続きだった。三人はぎょっと目を剥き、正気を疑うような目で炎駒を見る。


「それ今言わなければならない事ですか⁉︎」


「ああ、今言わなきゃダメだ!」


「っ……手短かにしてくれ!」


 炎駒のきっぱりとした断言を聞いてしまったからには、聞かなければならない。三人とも先を促すように口を噤む。


「思ったんだよ——おれ達が四獣かそれとも人間かなんて、大きな問題か?」


 思ってもみない問いに、白冥が「はァ⁉︎」と怒鳴る。証拠も喋れたら同じように叫んでいただろう。


「大きな問題に決まってんだろ!」


「どうしてだ⁉︎」


「そ、れは……」


 白冥は言葉に詰まる。この場で咄嗟に言語化することは、難しかった。坂を駆け上がりながら、炎駒は清々しい笑みを浮かべる。


「な? 大した問題じゃないだろ?」


「いや、それは……」


「だからさ、おれはおれで良いと思うんだ。劉羽でもなくて朱雀でもなくて、『炎駒』! それでいいし、それで満足なんだよ、おれは!」


 炎駒は角端の借りていた肩を振り解いて、振り返っていた。眼前には、放たれた矢の一本が迫っている。


「っ、炎駒!」


 切羽詰まった叫び声。しかし、炎駒はなぜだか無邪気に笑っていた。このままでは当たるという位置にいるというのに。


「炎駒——」


 角端が庇おうと走り出すが、間に合わない。せめて腕を引ければ良かったのだが、咄嗟に動かそうとした右手は指が動かなかった。そう、腱が切られているのだから動かしようがないのだ。

 当たる——そう、誰もが思ったその時。

 炎駒が、真紅の翼を広げた。

 それは大きく力強く羽ばたいて強風を起こし——矢を、叩き落としたのだ。


「……は」


 誰かが驚愕の吐息を漏らす。炎のような羽が舞い、神々しく朝陽を乱反射した。

 疑いようもない、朱雀の羽根。それと同時に被っていた布を己から剥ぎ取り、その姿の一切合切を日の下に曝け出した。

 首に嵌った枷と、そこから伸びる鎖。首筋に刻みつけられた朱雀の文字。真紅の短い髪に、爛々と輝く血の色の鋭い瞳。


「ばっ……」


「馬鹿かお前は!」


 角端の言葉をに食い気味に、白冥が叫んだ。遮っていなかったら、角端も同じように言っていただろう。


「もう四獣だって思われてるんだから、姿を隠す理由もないだろ!」


 叫び返されて、黙り込む。言われてみればそうだ。


「なら、邪魔するものなんて全て取り払った方が、いいに決まってる!」


 誇らしげに吐き出された一言に、聳孤が失笑した。炎駒の横に並び立ち、己の姿を露わにする。その、翡翠の角と巨大な龍の尾を。

 白冥と角端も顔を見合わせて、そして一歩前へ。白虎の耳と尾、意思を持った蛇の尾と甲羅のような肌を晒け出した。

 風が肌と髪を撫でる。陽光が暖かい。朝露の冷たさが下衣にじんわりと沁みた。

 ああ、このような感覚はどれほどぶりだろうか。脱獄してからずっと、布を被って隠れてきたから肌に直に空気や日の光が触れるその感覚はひどく懐かしく思えた。


 自由。


 その一言が彼らの頭をよぎった。

 そうだ、自分達の正体に拘泥する必要なんてない。自分達はただ、自由が欲しかったのだ。自由が欲しくて、戦ってきたのだ。人間だったとしても、獣だったとしても、それは変わらない。決して。


 ただ、自由に。


 襲いかかってきた人間に、彼らは応戦する。粗末な鉈を振り下ろされるが、それは角端の硬い皮膚の薄皮一枚も切らなかった。鈍であっても、それは異常だ。

 角端の尾の蛇が敵の脚を噛み、それに悲鳴をあげて怯んだ隙を突いて鳩尾に肘鉄を喰らわせる。亀の甲羅の硬さを持つそれの威力は、角端が思っているよりも甚大だ。

 その横では、白冥が己から機敏に動き、敵の懐へと潜り込む。視界は不明瞭であるものの、ぼんやりとした輪郭や音などから情報を取得し、そして動かれる前に動く。

 敵の腹に拳をめり込ませようとするが、それは鋤の柄に阻まれた。ささくれ立った木の破片が拳に刺さり、白冥は眉を顰める。


「死ねぇッ!」


 絶叫と共に振り下されたそれを、白冥はするりと避けた。滑らかで柔らかい動き。驚愕に目を見開く敵は鋤を地面にめり込ませており、大きな隙ができていた。

 白冥は姿勢を低くし、そこから敵の顎を蹴り上げる。脳が揺れたのか、相手は白目をむいて地面に倒れた。

 いそいそと聳孤は土から鋤を引き抜く。しかし、地面に深く嵌まり込んだそれはなかなか抜けず、金具と柄を結びつけている縄を解いた。それだけで、聳孤にとっては十分だった。

 ただの長い棒を持って、聳孤は構えた。その構えは薙刀の八相の構えに似ていたが、少し異なっている。見様見真似で習得し我が物として、我流の棒術だ。

 手斧を持って襲いかかってきた敵を、証拠はまず一歩踏み込んで棒を円を描きながら振って、相手の手を叩いた。その衝撃で斧が落とされる。

 前かがみになった姿勢に、また一発。地面に倒れ込んだその頭に、更に一発。いくら脆い木と言えど、続け様に三発も殴れば一時的に行動不能になる。

 素人だな、と証拠は嘆息した。聳孤は体を動かすより頭を使う方が得意ではあるが、多少は武術の心得もある。我流ではあるものの、武器があれば他三人と多少拮抗する程度の実力はある。全くの素人に押されるほど弱くはない。

 彼は背後を降り仰ぎ、そして大空に鮮烈な色彩を広げる男のやろうとしている事を察した。弾かれたように、聳孤は動き出す。


 ——喉が痛い? 潰れそう?


 ——それがどうした!


 ——兵を、みんなを、正しい方向に導くのが私の仕事だ!


 爛れた喉を震わし、全身全霊で叫んだ。


「——総員、炎駒の元へ走れッ!」


 喉に走る激痛を堪えながら、聳孤は駆け出した。彼の司令である、逆らう理由はない。白冥と角端も瞬時に踵を返し、盆地を登り切った場所で翼を伸ばしている炎駒の元へと全力で駆け出す。

 敵兵は一瞬呆然とそれを眺めて、数秒遅れて追い縋ろうとした。しかし、時すでに遅しである。

 片足が使えない炎駒が別の場所にいるのなら、彼らは何の気負いもなく走れる。その速度は、弱った貧民程度では追いつけない。三人と軍団の距離はすぐに離れていく。


「みんな! 手を!」


 炎駒が羽根を目一杯に広げながら、聳孤達に手を伸ばした。

 彼らは示し合わせたように、一斉に炎駒の体に取り付く。その勢いにたたらを踏んだ炎駒はしかしすぐに持ち直し、そして雲がわずかに浮かぶ空を見上げる。


「ちゃんと捕まってろよ!」


 羽根が動く。体が浮き上がってしまいそうなほどに強い風が巻き起こる。いいや、それは実際、人の体を宙に浮かす力強さだった。

 飛んだ。

 その真紅の大きな羽根で、炎駒は三人を抱えたまま大空へとその身を踊らせたのだ。


「——は」


 その言葉にならない声を漏らしたのは、一体誰だったろうか。

 その光景を見ていた貧民か、炎駒と共に飛んだ三人のうちの誰かか、羽を広げて飛んでいる張本人である炎駒か、あるいはその全員か。

 どんな言葉を使ったとて、その事実は変わらない。まるで鳥のように、大空へと羽ばたいたという事実は。

 ぽかんとした表情を浮かべる貧民達の顔がみるみるうちに小さくなっていく。それを見て、白冥と角端も驚愕が隠しきれていない顔を合わせた。聳孤に命じられて反射的に炎駒の元まで向かったものの、彼が何をするつもりなのかは推し量りきれていなかったのだ。完全にその意図を察していたのは、聳孤くらいのものだろう。

 四人は、笑った。空気を切る感覚と音が新鮮で、子供のように。

 丘陵を抜け、何キロメートルも離れている川が目下に迫る。


「あはははは、速い、速い!」


「うわああぁ、怖……あ、けど結構楽しいかもです」


「はは、気に入ったようでよかっ……あ、やば」


 炎駒がふいに笑いを止めて呟いた。不吉な一言に、全員の表情が一斉に引き攣る。


「——まずい」


 下を見てみれば、どんどんと地面が近付いている。そう、高度が落ちているのだ。

 流石に、三人を一気に飛んで運ぶのは無理があった。羽が限界を迎えているのが、炎駒にはわかる。


「ごめん、落ちる」


 その言葉が終わるや否や、羽が羽ばたきを止めた。小枝を踏むような音が何重にも鳴り、とうとう四人の体は真下へと落下する。


「「「あああああああ!」」」


 やっぱりこうなったか、といった顔をしている聳孤以外の三人の悲鳴が、響き渡った。



 幸運なことに、四人が落ちた先は川の中だった。巨大な水柱を立てながら、地面に叩きつけられたような衝撃に四人は耐え忍ぶ。

 川の激流に呑まれて溺れかけた彼らの襟首を、誰かが引っ掴んだ。見ると、長い深緑の髪を水の中で燻らせた聳孤だった。角端は一足先に水から上がり、陸上から彼らを引き上げる。

 四人ともが何とか河原に上がった時には、全員が疲弊し切っていた。息を切らして、ごつごつとした石が転がる地面に寝転がる。


「っはは……なあ見たか? あのぽかんとした顔!」


 炎駒が仰向けになりながら笑う。羽は力無く地面に垂れていて、彼自身も疲れ切っているだろうに、しかし心底楽しそうだった。


「白冥」


「まあ、溜飲は下がったよ。よくやった、炎駒」


「角端」


「瑞の母だと言っていたあの人、ちょっと可哀想ですけど、殴られた瞬間不思議と少しスッとしました」


「聳孤」


 炎駒は寝転がったまま隣を見る。呆然としている聳孤が炎駒の顔を見ていた。


「——はは」


 口角が上がり、笑顔が形作られる。堰を切ったように、彼は大笑いを始めた。

 しかし。


「はははっあは、っ……ぐ、ゲホッ……! ごほ、ぅ、おぇッ」


 聳孤は体を転がしてうつ伏せになり——石の上に、血を吐いた。


「聳孤!」


 角端が重い体を起こし、聳孤へと駆け寄ってその背を撫でる。叫んだのが、聳孤の喉に悪かったのだろう。元から爛れていて、まともに薬も買えなかったし治療用の道具もなかったから自然治癒に任せていた。だから、叫びが喉の傷に障ったのだ。


「ゔ、こほ、っ、は」


 けれど、聳孤は笑っていた。長い髪の紗幕の下で、心底愉しそうに。

 動けない炎駒の掌に、文字を書いた。炎駒でも簡単に読める一言を。


『ありがとう』


 見上げると、聳孤はかつてないほどに穏やかに微笑んでいた。彼は続けて書く。その単語の意味は炎駒はよく読み取れなかったが、晴々とした表情から何を伝えたかったかは十分に伝わる。


『自由で、心地よかった』


 彼らは一体何者だろうか。

 人だろうか。

 獣だろうか。

 神だろうか。

 関係ないと、彼らは言う。揃いの首枷の鎖を鳴らし、彼らは笑う。

 ありとあらゆる柵を無にして。

 互いを互いの存在証明として。

 彼らが罪人であることは変わりない。人殺しか神殺しが、その差しかない。けれど、その罪が人に罰せられるかどうかはわからない。彼らの身に降りかかった罰は、推定の有罪の上でかけられたものでしかないのだから。


 推定有罪。

 されど、彼らは生きていく。

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推定有罪 凪野 織永 @1924Ww

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