愚にもつかないアレブリヘ

長尾たぐい

un alebrije de lo más tonto

 ヒナコは朝靄の中を歩いていた。視線の位置はずいぶんと低い。ザザザ、と水が流れる音が絶えず聞こえてくる。ここは小学生の時、父に連れられて歩いた父の母方の生家の近くの沢だ。けれど、父の姿はどこにもない。その代わり、ヒナコの周りには無数の気配が息づいていた。

 未舗装の足元で小石が跳ねた。ヒナコが蹴飛ばしたのではなく、小石自身が跳躍したのだ。パスン、パスンと湿った土の上を跳ね回る小石は、工業用の油の油膜のような虹色に光っていて、そこに喜怒哀楽さまざまな表情が浮かんで消えた。

 鬱陶しい。ヒナコは足にまとわりついてくる小石を無視して進む。軽石でもないくせにの感触は妙に軽い。靄が晴れてきた。どこからともなく振動音がして地面に大きな影が落ちる。見上げた先のそれは、蛙の足を生やした巨大なスズメバチだった。

——ぶううううん。


——ダダダダダダ、バタン。

 階上で響いた物音にハッとしてヒナコは目を覚ました。泥棒。……いや、違う。あれはアスミがトイレに駆け込む音だ。直後に鳴り出した目覚まし時計のベルを止めて、ヒナコは布団を出る。

 もう二十年近く世界中を飛び回っているくせに、マラリアにも黄熱病にもコレラにも腸チフスにも罹ったことのないアスミが『いま帰国してるんだけど、胃腸炎になった。多分ノロだって。家賃払うからヒナコんちの二階貸して欲しい』と連絡してきたのは昨日、金曜日の夕方だった。

 ヒナコは生まれてこの方、実家から離れて暮らしたことがない。二世帯住宅の二階を使っていた祖父母はとうに亡く、父と母は十年ほど前に熟年離婚をして各々別の住まいを持ち、弟は結婚して別の地域で妻と子供と暮らしている。そうして五十路女のヒナコひとりが住まうこの家は、夫と喧嘩をして家を飛び出てきた友人の、育児に疲れ果てた友人の、そして住所不定のアスミの仮宿として機能していた。

 アスミの願いをヒナコは二つ返事で了承した。トイレも洗面所も二階に完備しているので、ノロだろうがロタだろうがある程度自分で始末ができるのなら構わない。水分と軽い食事くらいは用意できる。しかし、アスミが直近で訪れていたのは確かニュージーランドのはずだ。日本と正反対で真夏を迎えた衛生事情の良い国で、そんなものが流行っているのだろうかとヒナコは首を傾げつつ、客用布団を布団乾燥機にかけてアスミを待った。

 タクシーで玄関に乗り付けたアスミはわずかな時間、寒風に晒されただけでガチガチと歯を鳴らしながらこう言った。

「生牡蠣にやられた」

「ニュージーランドで?」

「銀座のオイスターバーで」

「バカじゃないの」

「ホタテとグリーンマッスルばっかり食べてた反動がきてさ」

「知らないよ。ほら、二階のいつもの部屋用意しておいたから。着替えは三回分あるから、二回着替えたところで連絡入れて。今日は何か食べる?」

「いや無理」

「だろうね。経口補水液置いておいた。適宜レンジで温めて飲みな」

「ありがと」

 そう言って二階へ向かうアスミの足取りはふらついていたな、とヒナコは寝ぼけ眼を擦りながら思った。先ほどのダッシュは下痢か嘔吐によるものだろう。ヒナコはヤカンに水を入れ、火にかける。コーヒー豆を自動ミルで挽きながら、スマホを手に取ってアスミ宛てにメッセージを送る。

『葛湯あるけど、飲む? 抹茶か黒糖か生姜』

 湯が沸くのを待ちながら、ヒナコは保温ポットの中に残っていたややぬるい天然物の白湯を飲む。二階のトイレが流れる音がしてしばらく後、返信が来た。

『生姜』

 シュンシュンとヤカンが白い湯気を吐き出す。

『了解』

 結局、この土曜日にアスミが口にしたのは、その葛湯と半合以下の白粥と梅干しだけだった。重症だ。けれど、幸いこの週末は三連休だから、ギリギリ看病をしていられる。ノロウイルスは三日もすれば症状が軽くなるから、火曜になったら身の回りのことは自分でしてもらおう。ヒナコは頭の中でそう算段をつけた。


   *


 ヒナコは日差しの照りつける海辺を歩いていた。足を踏み出すたび、灰色のクロックスが白い砂浜に半ば埋まり、細かい砂が足にまとわりつく。波はやる気なくタプタプと弛緩した音を立てていた。大学生の時、友人たちと遊びに行った小さな海水浴場だ。けれど、友人も友人が連れてきた男たちもいない。その代わり、海からは変わるがわる珍妙な生き物が打ち上げられた。

 吸盤の代わりにびっしりとビー玉が生えたタコが、ワカメがグルグルと巻きついたサバが、イッカクのようなツノを生やしたウツボが、百円ショップで売られているような造花で彩られた巨大なヤシガニが、波際でのたついていた。

 ばかみたい。ヒナコは歩みを止めず、それらの生き物を踏み抜いて進む。どれもパン、パスンとビニール袋でできた通販の緩衝材のように、軽い音を立てて破れた。そのくせ、それらが潰れた後には、月経の経血のような生臭いにおいが立ちのぼる。しおが満ちてきた。一際大きな波が押し寄せた。その後には、無数のタカアシガニの足を生やしたダイニングテーブル大のオレンジ色のヒトデが立っていた。

——ザザザザザザ。


——ガサガサガサ。

 戸棚を漁る人影にギョッとしてヒナコは目を覚ました。泥棒? いや違う。二回目の錯覚を振り払って、ヒナコは昼寝をしていたソファから身を起こす。音の主はマスク姿のアサミだった。

「ごめん、どうしてもお腹が減っちゃって。メッセージに応答がなかったから、手を死ぬほど洗ってから降りてきた。一旦、あたし上に戻るわ」

 ん、とヒナコはあくびをしながら返事をする。床に転がっていたスマホを拾って確認してみると、そこにはメッセージと着信履歴が残っていた。元々、ヒナコは人を泊めている時、プリンや個食アイスのような属人性の高いもの以外は断りなく自由に飲食していいと言っているので(後からどんぶり勘定で請求する方が、ちまちまと精算するより遥かに楽だ)、アサミがしていたことを咎める気はない。むしろ、食欲がわいてきたなら良いことだと思った。アサミは朝に白粥を、昼に半玉分の煮込みうどんを食べるに留まっていたから。

 ヒナコは薄めた漂白剤をタオルにつけ、念のためアサミが触っていた戸棚のあたりと、部屋のドアノブやスイッチあたりを拭いた。アサミはぶっ飛んでいるようで危機管理意識は高いので、「手を死ぬほど洗って」との言葉にヒナコは疑念を持っていない。あくまで念のためだ。

 そして戸棚と冷蔵庫の中身を見てから、メッセージを送る。

『とりあえず白桃の桃缶と、塩味の軽い煎餅はどう?』

『ありがたい』

『じゃあ、まずその二つ。あと、これからみりんプリン作るけどいる?』

『食べる!』

『まかせろ』

 返事にも恢復の兆しがうかがえる。良いことだ。ヒナコはプリンにかけるシロップ用のみりんを鍋に入れ、フツフツと沸き立つ表面をぼんやりと見つめる。目覚める前に夢を見ていた気がするのに、それがどんなものだったのか思い出せない。そういえば昨日の朝、目覚めた時も同じような感覚がする。悪い夢ではなかったと思う。ヒナコの見る「悪い夢」のパターンは子供の頃から変わらない。ファンタジー世界やSFの世界で、救世主が現れるまで危ない現場を凌ぐ人間として奮闘するというものだ。現実で管理職になってからは、夢の中でもいかにも下っ端という役柄ではなく管理職として上からも下からも突き上げられるようになったのには閉口した。

 きっと、いつもひとりでいる家に、アサミがいるからどうしても眠りが浅くなるのだろう。けれど、ヒナコは誰かを泊める時のこういう空気が嫌いではなかった。ひとりでは味わえない、煩わしさと一体の安心感。昼間にトイレを使う回数も減り、今は静かに眠っているだろう階上のアサミの気配を感じながら、ヒナコは眠りについた。


   *


 ヒナコは夕日に染め上げられた屋外プールにいた。いつも近所の公営温水プールで泳ぐ時に着ている、五分袖・腿上まであるグレーとターコイズのセパレート水着。この屋外プールは温水プールに隣接していて、熱中症を避けられるぐらいの時期——初夏と晩夏に子供向けに開放される。ヒナコは脛ほどの深さのプールの中から、敷地全体を見渡した。ここには一度も来たことがない。ししおどしの要領で落とされる大量の水、小さなスライダー、ささやかな円周サイズの流れるプール。子どもたちが楽しそうに遊び回っている。水音にシャワシャワという蝉の聲が重なる。こんなふうにはしゃぎまわることはもうできない。友人の子供ももう思春期に入った子ばかりだから、こんなところに付き添いで来ることすらない。

 そう思ったところで、ヒナコははたと気がついた。

 ——このプール、どこにも大人がいない。

 うすら寒いものを感じた瞬間、子供たちが奇妙な生き物に変わり、叫び出した。

「空洞!」「空っぽ!」「スカスカ!」

 声は人間の子供と同じ。切羽詰まったものも、恐怖を煽るような響きもない。近所で聞こえていてもおかしくない。けれど、子供たちの姿は異形としか言いようのないものになった。コウモリの羽を持った豚、羊のツノが生えたニワトリ、緑色の心臓が脈打つ透明なワニ、顔が上下に二つ並んだブルドッグ、ねばつく鱗に覆われたマンチカン。

 ヒナコは浅いプールから上がり、プールサイドを駆け出す。昨日の昼に、一昨日の夜に見た夢をヒナコは思い出した。

「空洞!」「空っぽ!」「スカスカ!」

 統率する者のいないままに、叫び声はどんどんと大きくなっていく。

「お前の人生に中身はない!!!」

 瞬間、声はユニゾンとなりヒナコにぶつけられた。ああ、そう、かも、しれ——。

「何思ってもないこと口にしてるの!」

 サッカーボールのように丸い胴体の牛に乗った、すみれ色のカウボーイハットの人物がそう叫んだ。人物の造形は牛と同じく、子供の工作のように拙い。つるりとした顔の、丸と線から成る表情からは感情が読み取れない。でもヒナコにはそれがどこか焦っているように思えた。手のひらも指もない腕が差し出された。その手は粘土のようになめらかで、少し温かかった。

「こんなところ、さっさと出るよ!」

 カウボーイハットの人物は自分の後ろにヒナコを乗せ、牛を敷地の塀に向かって走らせた。馬と思い違うほどの凄まじいスピードが出る。だというのに蹄の音は滑稽なほどに軽い。

——タカッタカッタカッ!

 プールサイドにごろごろと巨大な物体がいくつも転がってくる。風船、カプセルトイの容器、ビーチボール、ピンポン玉。どれも人と同じような大きさをしている。牛は胴体から不自然ににょっきりと伸びた首を振って、それらを退ける。続いて、牛と同サイズの繭玉、ほおずき、マラカス、フォーチュンクッキー、カプセル薬が現れた。牛はそれをむんずと踏んづけて跳躍した。

——タカッタカッタカッ!


——タンタカタンタン、タタタン。

 手探りで掴み取った枕元のスマホを持ち上げた瞬間、着信音が止まった。発信者はアスミだった。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。折り返したがアスミは電話に出なかった。ベッドサイドの目覚まし時計は午前六時半を指していて、その隣に置かれた牛のアレブリヘがゆらゆらと首を揺らしていた。

 これはアスミがメキシコで買ってきたものだ。

「アレブリヘ? ってのはメキシコ版の赤ベコってこと?」

 牛の首をつついて揺らす私に、アスミはいいや、と笑いながらヒナコに語った。

 メキシコには、中にお菓子や果物を仕込んでパーティーの余興に割って遊ぶピニャータや、イースターに燃やすユダの人形フーダスといった紙張り子の職人が多くいること、その職人のひとりが病気に罹り高熱でうなされていた時に、夢の中で化け物に「アレブリヘス!」と叫び声をかけられる中でひとりの男と出会い、彼が指し示す方向へ向かったところ、危篤状態から持ち直し、その後その職人は夢の中で出会った化け物「アレブリヘ」たちを紙張り子で作り出すようになったこと。それらがなぜかすんなりと定着してしまい、今はメキシコのある地域で作られる極彩色の木彫り工芸品全体がアレブリヘと呼ばれていること。

「で、路上で若いにーちゃんがこれを売ってた。バケモノじゃなく、牛とカウボーイだけどアレブリヘ? って訊いたら、『これは張り子だから間違いなくアレブリヘだ』って」

 この手のひらサイズのオブジェは、見た目から想像するよりずっと軽い。極度にデフォルメされた牛とカウボーイは日常離れした妙な存在感がある。昨日の夢に飛び込んできたのはこのアレブリヘで、それまでの夢でヒナコにまとわりついていた異形の生き物たちもきっとアレブリヘだった。

 中身のない張り子。

 ヒナコは自分の下腹部に手を当てて、冬の休日にはやや早い朝の始まりをどう過ごすか考え始めた。


「ヒナコ、朝すごく早い時間に着信あったけど、どうした?」

 電話の向こう、階上にいるアスミの声からはこの二、三日の間影のように付きまとっていた弱弱しさが取れていた。ヒナコは「先に電話したのはそっちでしょ」と言おうとして、やめた。

「ごめん、たぶん寝てる時の誤操作。それより体調はどう?」

「下痢も止まったし、熱も下がった。自分でおかゆやレトルトなら温められるから、今日はもう放っておいていいよ」

「今日は祝日で休みだから、もう一日だけ甘やかしてあげるよ」

「でもその分料金割り増しするでしょ?」

「……独身同士のよしみで割引してあげるから」

「そこで無料タダにしてくれないのがアンタらしいよね。じゃあ、今日もみりんプリン作って」

「そこで容赦なくたかってくるのがアスミよね」

 ヒナコは苦笑した。どうしようもなく身体が辛くても、心が辛くても、アスミはきっとをその全てを見せてくれない。それは多分お互い様だ。苦しさの一部を吐き出し合って、どうしようもないときに少しだけ相手を頼る。

「ま、いいよ。プリンぐらい」

 だから、ヒナコは「夢で助けてもらったからね」とは言わない。


〈了〉










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