最終話   そして時は流れる

 神田小伝馬町にある神威一刀流の道場は、今日も門下生たちの猛々しい掛け声が響き渡り、皆一様に竹刀を振って修練に明け暮れていた。


 その中に進之介の姿もあった。


 白の長着に漆黒の袴姿の進之介は、3つ年上の門下生の一人と向き合いながら竹刀を中段に構えていた。


 門下生はじりじりと間合いを詰めていくが、進之介は一切の表情と構えを崩さない。


「いえいッ!」


 門下生は裂帛の気合とともに、進之介の籠手に向かって剣を振り下ろした。


 吸い込まれるように進之介の籠手に向かって振り下ろされた攻撃を、進之介はまるで蝿でも叩き落すように軽く捌いた。


 門下生の体勢が崩れる。


 その瞬間を進之介は狙った。


 門下生の攻撃を捌くと同時に、進之介は門下生の籠手、胴、面の三箇所に連続して打突を加えたのである。


 進之介の流れるような連撃をその身に受けた門下生は、白目を剥きながら道場の床に仰向けに倒れた。


「それまでッ!」


 道場主である鬼柳斎が声を発した。


 齢60をとうに超えていたが、堂々とした体躯の鬼柳斎はまるで老いというものを感じさせないほどに背筋が伸びている。


 進之介は床の上で失神している年上の門下生に頭を下げると、続いて道場の奥で正座をしていた鬼柳斎に頭を下げた。


「進之介、お主はまたさらに腕を上げたな。構えから打突に移る間の動作に無駄がまったくなかった。まさに天賦の才よ」


 鷹のように鋭く吊り上っている目を進之介に向けながら、鬼柳斎は満足気に何度もうなずいた。


 神威一刀流の跡継ぎである進之介の技量に、鬼柳斎は惚れ込んでいる証であった。


「ありがとうございます」


 進之介は無表情のまま頭を下げると、鬼柳斎が両手で拍手を一度だけ打った。


 道場の修練が終了したことを意味する拍手である。


 その日の修練が終了すると、門下生たちは汗が滲んだ床板に雑巾がけをして鏡のように磨き上げた。進之介も黙々と作業をこなした。


 そして半刻も経つと通いの門下生は道場を後にし、残るのは内弟子衆のみとなった。


 内弟子衆たちは酒でも飲みにいくかと意気投合していた。


 だが、進之介だけはさっさと代えの服に身を包み道場から去ってしまった。


「進之介の奴、毎日のようにどこに出掛けているんだ?」


 内弟子衆の一人が呟くと、隣にいた内弟子衆の一人がにやけた顔で小指を立てた。


「女のところにでも通いつめているんじゃないのか」


「へー、あの堅物がね」


 などと進之介の噂話で盛り上がっていた内弟子衆であったが、当の本人である進之介はそんな浮ついた気持ちなど微塵もなかった。




 進之介は神威一刀流道場の門を出ると、常に人気が絶えることのない広小路を抜けて目的地の場所を目指していた。


 淡々と時間を掛けて歩いていると、次第に辺りは人気がなくなっていった。


 林道である。


 進之介は緑が目立つ林道の中をひたすらに歩いていた。


 道場で稽古を終えた後だというのに、進之介には体力の衰えというものが感じられなかった。


 そんな進之介の足が不意に止まった。


 進之介が顔を上に向けると、長年手入れをされていない鳥居が目に入った。


 時坂神社。進之介の目的の場所である。


 進之介は鳥居をくぐると、五十段ほどの石段を登り始めた。


 一歩一歩踏みしめるように石段を登り終えると、進之介の眼前には境内の様子が飛び込んできた。


 人気などは皆無であった。


 奥にある本殿は半ば朽ち欠けており、雑草なども伸び放題であった。


 だが、進之介にとってそんなことはどうでもよかった。


 進之介の視線は、朽ち欠けた本殿の隣にあった古池に向けられていた。


 進之介は悲痛な表情で古池に近づいていく。


「エリファス殿……」


 古池に近づいた進之介が漏らした第一声がそれであった。


 あれからもう一ヵ月が過ぎようとしていた。


 この世界とはまったく別の世界に旅立った日から。


 進之介は片膝を地面に付けながら古池をじっと見つめた。


 穏やかな風により水面がゆらゆらと揺れている。


 進之介は今でもあの時のエリファスの行動が理解できなかった。


 なぜ、エリファスは自分を泉に突き落としたのか。


 しかし、そのお陰で進之介は再び元の世界へと帰ることができた。


 だからこそ後悔が募った。


 進之介は騎士団に囲まれ絶体絶命の窮地にたたされたとき、はっきりと死を覚悟した。


 ようやく再会できた梓に存在を否定された直後ということもあり、進之介は自暴自棄になっていたかもしれない。


 だが、それでもいいと進之介は思っていた。


 自分の背中にいたエリファスのために死ぬのならば、それはそれで命を賭ける意味があると。


 進之介は悲しげな表情で古池を見つめ続けた。


 エリファスに赤く染まった泉の中に落とされ意識を無くした進之介は、気がつくと神威一刀流の道場から近くにある溜池の側で目を覚ました。


 そして虚ろであった意識が晴れていくにつれ、進之介の中に恐ろしいほどの後悔の波が押し寄せてきた。


 異国の服装で身を包み、いつの間にか鞘に納まっていた〈神威〉に目を向けながら、進之介は涙を流した。


 何もできなかった。


 進之介の脳裏には、この言葉がこびりついて離れない。


 思いを寄せていた梓を連れ戻すことも、世話になったエリファスを助けることも、進之介は何もできなかった。


 そしてそれは、この先一生背負わなければならない業だと進之介は覚悟している。


 進之介はひとしきり古池を眺めると、おもむろに立ち上がった。


 毎日のようにこの場所に進之介が足を運ぶのは、あの日々の出来事が夢幻ではないと自分に言い聞かせるためでもあった。


 同時に、自分の無力さを自覚することにもなる。


 進之介は古池から身を翻した。


 一日一度、古池に自分の姿を投影させ己の無力さを噛み締める儀式は終わった。


 それでも、この先一生行う厳粛な儀式である。


 進之介は古池から立ち去ろうと一歩足を踏み出した。


 ――ありがとう


 進之介は振り返った。


 辺りを見回し、自分の他に誰かいないか確認するが、人の気配は微塵も感じられない。


 気のせいか。


 そう思った進之介だが、たしかに聞こえた。


 エリファスが囁いた最後の言葉が。


 進之介は拳を固く握り締めると、空を見上げた。


 広大な空は青から山吹色に変わり、そろそろ『逢魔ヶ刻』と呼ばれる、人が魔物と出会うとされる刻限にさしかかっていた。


 進之介は腰に差していた〈神威〉をすらっと抜いた。


 美しい直刃の刀身は赤く染まって見えたが、それは夕陽の反射により赤く見えただけで、〈神威〉の刀身は元の世界に帰ってきてから何の変化も見られなかった。


 進之介はしばし刀身を眺めた後、〈神威〉を鞘に静かに納めた。


 もう一度、〝神隠し〟に遭いたい。


 このところ進之介はずっと考えていた。


 すべてはこの時坂神社から始まったことである。


 そしてできればもう一度、アトランティスに行きたいと進之介は考えていた。


 それも含めて、進之介は日課のように時坂神社に通っていた。


 もしかするとまた古池の水が赤く染まり、自分をアトランティスに誘ってくれるのではないか。そんな淡い期待を込めながら、


「また明日くるでござる」


 進之介は古池を横目に呟いた。


 何年、何十年、もしかすると一生待っても無駄かもしれない。


 それでも進之介はこの場所へと訪れるだろう。


 進之介は大きく空気を吸い込むと、寒々しい冬の風が頬を撫でていく。


 進之介は再び歩き出した。


 哀愁を漂わせる進之介の背中が境内から石段へと消えていくと、古池の水面が風に煽られゆらゆらと波立った。


 先ほどまで進之介の姿を映し出していた古池の水面は、夕陽により赤く染まっていた。



 〈了〉


 ================


【あとがき】


 最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


 主人公たちの人生はまだまだ続きますが、物語自体はここで幕引きとさせていただきます。


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【完結】若き最強のサムライ、異世界でも剣を振るう ~神威一刀流の秘剣を伝授された拙者、異世界に誘拐された婚約者を見つけるため剣鬼とならん~ 岡崎 剛柔(おかざき・ごうじゅう) @xtomoyuk1203

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