悪徳の紫煙

 駐機場で二本目の煙草を捨てると、タクシーが停まった。星灯りには眩しすぎるほどのライトを灯したタクシーだった。

 タクシーは乗客を一人降ろすと、闇夜の中を走っていった。

 星も街灯も、はっきりと見える。

 私の酔いはとっくに覚めていた。

「急に呼び出して悪かったな」私は近づいてくる人影に向かって言った。

「なあに、寝るにはまだ早い時間だ」人影は言う。流れてきた夜の雲と数少ない街灯のせいで、表情はもちろん、姿もよく見えなかった。

「吸うかい?」私はラビットフットのパックを人影の方に向けた。

「いいや、煙草はやめたんだ」人影は離れたところで立ち止まり、言った。

「そうかい」私は煙草を咥えると、オイルライターを擦って火を灯した。一瞬、辺りが明るくなった。「煙草はやめて、葉巻に替えたんだったか」

「まあな」人影はマッチを擦って葉巻に火をつけた。その瞬間だけは、男の顔がはっきりと見えた。「グァーマルガの最上級品だ。これを吸ったら、煙草なんて雑草みたいに思えるぜ」

「へえ。一本もらえるかな?」

「嫌だね。他人にやるような代物じゃねえ」

「女にはやるんだろう?」

 やつは黙った。暗闇に溶けようとしていたのかもしれないが、私の目にはやつの黒い影がはっきりと見えていた。

「ある女のカセットテープの箱から、あんたと同じ葉巻のにおいがしたよ。あんた、カセットテープって知っているか?」

「存在はな。実物を見たことはねえな」

「いいもんだぜ。心の底がくすぐられる。よかったら貸そうか?」

「おまえは、レコード派なんだと思ってたよ」

「犬派か猫派か、決められないのと一緒さ。どっちがいいかなんて決められない。まあ、そういう俺も、自分からカセットテープを手に取ったりはしなかっただろうけどね。アンジェラ・ロメロって女の家にあったのを偶然手にしたのさ。この名前に聞き覚えは?」

「ねえな」

「エンジェル、といえばわかるか?」

「なあ、ダン。何が言いたいんだ?」

「ヴィオレッタの裏路地で、裸で死んでいた女さ」私は雲がかかった星空に煙の輪っかを吐き出した。「リッキー、アンジェラ・ロメロを殺したのはあんただろう?」

「ちょっと待てよ。葉巻のにおいだけで俺を疑うのか? どうかしてるぜ」リッキーの黒いシルエットが少しだけ動いた。

「ああ、どうかしてる。スギサワ捜査官の話じゃ、アンジェラの体内から見つかった体液からあんたのDNA型が検出されたそうだ」

 墓場のような静寂。

「ハッタリだろう?」

「そう思うのかい?」

 見えない墓標の間を、無邪気な風が通り抜ける。

「殺すつもりはなかった」黒いシルエットは言った。「エンジェルとは、娼婦と客の関係だった。最初から最後まで、その一線は越えちゃあいない。エンジェルだってそうだ。金を払って女の身体を買う。恋愛感情なんて湧いたことはねえ。ただ……あの女は、首を絞められてよがる女だった。苦しめられて、感じるんだとよ。だから俺は、あの女を抱くとき、いつも首を絞めてやった。いつしか、それが癖になっちまった。でもよ、暴力ってわけじゃねえんだ。俺はあの女を殴ったことはねえし、無理矢理犯したこともねえ。すべてが合意の上だった。あの日も……あの日だって同じだ。ベッドの上で、エンジェルの細い首を絞めながら腰を振っただけだ。変わったことは何もなかった。それなのに……俺が財布を取り出しても、あの女は動かなかった。目を半分開けたまま、口を開けて……息をしてなかった。俺はパニックになって、慌てて服を着せて車に乗せた。病院へ連れて行くつもりだったんだ。でも、くそったれの信号に待たされている間、余計なことを考えちまった。もう手遅れだ、ってな。死体を病院なんぞに運び込んだら、俺が故意に商売女を殺したと思われるに決まってる。だいたい、俺にも家族がいる。あの女のために、どうして人生を捨てなきゃならない? 俺はあの女が望んだことをしてやっただけだ。金も受け取らずに死んだのは、あの女の勝手だ。それで、俺は行き先を変えた。あの女には悪いが、別の場所で死んだことにさせてもらった」

「服を脱がせて遺棄した理由は?」

「体液だよ」リッキーは泣き声とも笑い声とも思えるような声で言った。闇夜が彼の表情を隠し続けていた。「コンドームはつけてたからな、エンジェルの膣内から俺の精子が見つかるってことはないと思った。でも、確証はなかった。精液は見つからなくても、何かしらの、俺の体液が見つかる可能性は限りなく高い。だから、飯屋街の裏路地に棄てた。知ってるか? あの辺りは変人奇人の浮浪者が多いんだ。飯を買う金もドラッグに使っちまうような連中だ。残飯を漁って、ドブネズミみてえに生きてやがる。快楽に溺れて死んでいくんだ。服を脱がせた理由? あいつらのためだよ。女を抱きたくて抱きたくて仕方がないのに、女を買う金を持たねえ連中だ。やつらが女の裸を見たら、やることは決まってる。相手が生きていようが死んでいようが、関係ねえのさ。ヴィオレッタのダウンタウンで娼婦の死体がよく見つかるってのは、きっと俺みたいな不運に見舞われた男が棄てていくからだろうぜ。頭のネジが外れた浮浪者どもにくれてやれば、体液を上書きしてくれるからなあ。警察がまともに捜査しない理由もそれだよ。浮浪者どもが気色悪いことをするせいで、正確な情報が消えちまうんだ。死亡推定時刻だって滅茶苦茶になるそうだぜ。たとえ女を殺した犯人の体液が見つかったとしても、それより新しいのは、どこぞの浮浪者の体液だ。わかるかよ。誰が最後に生きた女とヤったのか、それを示す確かな証拠にはならねえんだ、体液だけじゃな」

「どうして撃った?」

「ああ? そいつは俺じゃない。どっかの気狂いが撃ったんじゃねえか? わからねえこと、理解できねえことなんざ、この宇宙にはいくらでもある。まあ、信じてくれなんて、言うつもりはねえけどよ」

 夜の間を、冷たい風が吹く。

「質問は終わりか?」人影が動く。「おまえが娼婦殺しを追っているのは風の噂で知っていたが、まさかエンジェルだったとはな。おとなしく見当違いのタトゥーでも追っていればよかったものを」

「リッキー。それ以上喋らないでくれ」

「ダン。喋らなくなるのはおまえだ」人影の片腕が上がる。私に向けられているのが指先なのか、葉巻なのか、銃口なのかは見えなかった。いずれにせよ、大した違いはない。

「エリック・アンドルド。捜査局はこれから正式にあんたの逮捕状を請求して、本格的な捜査に移る。いずれビンゴブックにもその名が載ることになるだろう。探偵協会からも、じきに除名される。もう、逃げられない」

「ハッ、知るかよ」リッキーの片腕は、私を向いたままだった。

「俺とやるつもりか?」私はジャケットを翻し、腰のホルスターを見せた。この暗がりで、リッキーに拳銃が見えている可能性は低かったが。

「馬鹿野郎」リッキーは乾いた笑い声を漏らす。「豚箱はごめんだよ」

 人影の腕が動く。

「いつか、こうなる気がしていたよ」

 銃声が鳴る。

 自分のこめかみに銃口を当てる人影は、黒い塊のまま大地に吸い寄せられた。

 私は短くなった煙草を咥えたまま、倒れた人影に近づく。ようやく見えたエリック・アンドルドの死体は、笑っているような、泣いているような顔をしていた。

 彼の傍に転がった葉巻からはまだ煙が昇っていた。

 甘い、匂いがした。

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天国と冥界の境目 京弾 @hagestatham

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