same words

トム

same words




 ――それは最も大切な『言葉』だから。



 日に日に気温の差が激しくなり、昼の気温が暖かいから暑いに変わる頃、縁側でいつの間にか居着いてしまった茶トラの頭を撫でていると、娘の洋子が盆に茶と和菓子を乗せ、声を掛けてくる。


「お茶ですよ……、あら、その猫、また来てるの?」

「……あぁ、母さんが餌を上げててな」


 そう言って、膝に乗った茶トラの顔を覗き見ると、向こうもそれに気がついたのか、こちらを向いて、大きな欠伸を一つして、またうつらうつらと目を閉じる。



 ――あの日も、こうして母さんと縁側で、外を眺めていたな。


「お父さん、今日も、来たんですか」

「……あぁ、儂がこの椅子で昼寝をしていると、いつの間にか膝の上に乗っているんだ」


 山間やまあいにある小さな集落の中に建つ、平屋の一軒家。農家だった実家を潰し、土地を売ってついの棲家と、このこじんまりした家を建てた。元々は都会のマンション暮らしだったが、子供達の独立と母さんの喘息の静養を考えて、決断をした。部屋はこの居間と台所、寝室と小さな書斎が一つ。猫の額程度の庭があり、そこには季節ごとの花が植えられている。犬でも飼おうかと話したら「……毛がダメだから」と病気の事を言われ、現実的にそれもそうかと諦めた。そんな事もあり、この居間から続く縁側に、籐で出来た椅子を並べ、陽気の日には、母さんが庭で作業するのを眺めて話をしたり、一緒に椅子に座って、遠くに山を望むこの景色を眺めるのが日課となっていた。そんなある日の穏やかな昼下がり、我が家に現れた闖入者、もとい、闖入猫。薄汚れ、私達の存在を知りながら、初めは庭の隅でコソコソしていたのに。気づけば母さんが餌をやり、いつの間にか洗ってあげたのか、綺麗な茶トラの子猫だと分かった頃には、堂々と縁側に寝そべり、私とともに昼寝をする仲になっていた。縁側から膝に乗るまでの期間は……あっという間だったが。




「……名前、付けてるの?」

「いや、儂は付けていない。……母さんも「猫ちゃん」と呼んで居たから、付けてはいないと思う」

「そうなんだ……こんなに懐いているのにねぇ」


 洋子はそう言って、私の膝に乗る老猫の頭をそっと撫でつける。そんな仕草を見ていると、ふと母さんも同じ様に、私の膝の上で眠る猫を、柔和な表情で撫でていたなと思い出した。


「……母さん、本当は動物、好きだったからな」

「……そうだね。良くご近所のワンちゃん達を嬉しそうに撫でていたもんね」


 本当に優しい妻であり、母でもあった。要領が悪く、集団行動が苦手な私にとって、社会という世界で生き続けるのは、本当に辛く苦しい日々だった。そんな駄目な私の前に彼女は突然現れたのだ、私の上司として。明朗で快活、場の雰囲気を読むのに長け、常にリーダーシップを発揮して仕事を精力的にこなしていく。


 ――正直、初めは苦手だった。


 何しろ、自分と正反対なのだ。人とのコミュニケーションが下手くそで、頭の回転も遅い私は、どうしても話を伝えるのに時間が掛かってしまう。そこが要領の悪い原因にもなっていたのだが、彼女は一聞けば十解るような頭の回転で、私の前を何時も歩いていく。……いつしか、それが当たり前になり、私は彼女にだけは本気でぶつかれた。その私のどこが気に入ってくれたのか、何時しか彼女と恋仲になり、気づけば夫婦となっていた。



――だから、はっきりとその言葉を、面と向かって言ったことはなかったんだ。


 ふと振り返って、居間のサイドチェストに置かれた仏壇を見つめる。そこに飾った彼女の写真は、はにかむような笑顔を見せてくれている。両脇には彼女の好きだった花が飾られ、焚かれた線香の香りと供に、ささやかな香りを漂わせている。視線に気づいた洋子が同じ様に振り返ると、少し抑えたトーンで話し始めた。


「……もう七回忌か。……あっという間だね」

「あぁ。……そうだね」


 娘の言葉を聞きながら、目線を下にずらす。細くなった腕やシワの多い手。膝に乗った猫もかなりいい年になっている。彼女が逝って既に六年、未だに朝の誰も居ない台所で、朝食を取るのは慣れない。昼を過ぎた頃には近所に越してきた、娘夫婦の誰かが来てくれるが、夜の寝室はやはり寒々としている。


 ……ぼちぼち、私にも迎えが来るのだろうかね。


 ――にゃあ。


 膝に乗った老猫が、私の方を見上げて一声あげる。……まるで「早い」とでも言いたげに。口にも出していないのに……。


「……ね、お父さん、この猫、飼わない?」

「……?」

「だってほら、もうほとんど家に居着いちゃってるし、私や子供達にも面倒見させるから。……それに」


 ――お父さんも一人じゃ寂しいでしょ?


 娘はそう言って、私の膝から猫を抱き上げると、母さん……沙友理さゆりの遺影の前に連れて行く。


「お母さんも、この家に猫、居てもいいよね」


 そう言って老猫の顔を、彼女の写真に近づける。途端、今の今まで動かなかった、心の奥にある一番弱い場所が震える。思わず目尻に手をやって、顔を撫で付け鼻を啜ると、それに気づいた娘は素知らぬ顔で「決まり! あんたの名前決めなきゃねぇ」と言いながら、台所へと向かっていった。


 彼女が台所に消えたのを確認してから、私は膝に手を置き、腰を上げる。まだ日は高く、心地のいい風が吹く縁側から、ゆっくりと居間のサイドチェストへ歩を進めると、彼女の笑顔が優しく迎えてくれた。



「……沙友理さん、洋子は貴女に似て、何でもさっさと決めてしまいますよ」


 小さくそう言って、意識をしていないのに口角が上がってしまう。


「……お陰で、やっぱり私は皆の後ろをついていくだけですけどね。……でも」





~*~*~*~*~*~*~*~*~




 ずっと言えない言葉がある。


 いや、……今となっては「言えなかった」か。


 私は昭和時代に産まれ、多感な時期を「硬派」が格好良いと思って生きてきた。故にバブル全盛時代に「アッシー君」「メッシー君」を蔑んだ目で見ていたし、お立ち台に登る女性たちを「毛嫌い」してきた。交際に興味が湧き、それでも自分から言うことは出来ず「臆病」だと言われるのが嫌で「興味がねぇ」と拗らせた時期もあった。


 だがそんな私にも青春時代は訪れ、人並み以下ではあるが、男女交際を経験できた。学生時代に出来た唯一の彼女とは社会に出て暫く後、破局を迎えたが、今その女性は幸せに暮らしていると風の噂で聞いた。


 まだ昭和の名残が強かった平成初期の時代に、私は社会人となった。その頃はセクハラ・パワハラなどの言葉は存在せず、根性、精神論がまかり通るのが当たり前だ。上司に逆らうなどはもっての外、媚び機嫌を取るのがだと教わった。人脈はコネとし、成績上位を蹴落とすことが、自分の生き残る手段と信じて疑わなかった。自分の選んだ上司がどんな人間かも分からず……。


 ……そう思って、思い込んで。なりふり構わず走った結果。


 同僚たちからは恨み節しか、聴こえてこない。部下や取引先の連中は、影でほくそ笑み、私は「もう終わり」だと言われていた。選んだ上司が……派閥が……、潰れてしまった。


 そこからは転落の一途だ。それまで付き合いのあった会社には、軒並みそっぽを向かれ、会社のノルマすらこなせない。遂には部下たちにも見放され、閑職へと廻された。



 私の妻となってくれた人は、まだ私が二十代後半の頃、得意先周りの途中に必ず寄っていた、喫茶店の店員だった。今のようなカフェとは違い、俗に言う「純喫茶」の店で、オフィス街の中にひっそりと建つ、昔ながらの一軒家。中は落ち着いた暗めの照明で、静かにジャズが流れている。そんな雰囲気が気に入って、時間を見つけてはそこに入り浸っていたのだが、そんな雰囲気の店にある日、やけに元気な声の彼女がバイトとして入ってきたのだ。どうやら、店のオーナーの孫らしく、大学院に通っているとの事。何故そんな事を知っているのかと言えば、私はこの店でかなりの常連だったので、カウンターでオーナーの妙に嬉しそうな顔とともに、自慢話の一つとして聞いたからだ。


 そんな彼女と交際に至った理由はやはり、喫茶店だった。


 オフィスビル街の真中に、ぽつんと建っている一軒家。年季の入ったその家は、築年数だけでも相当だ。オーナーの先代からの持ち家で、かなりガタが来ているのは分かっていた。戦時中もなんとか戦火を免れ、先代が食堂を始めたのがこの店の始まり。改修は現オーナーになってからだが、厨房なんかは昔のままだと聞いた。そんな店だから、あのなんとも言えない雰囲気の店に仕上がっていた。だが、老朽化が進み、いよいよ改修程度では無理だと、知り合いの大工に言われたとオーナーが嘆いた時、隣のビルの会社が結構な値段で土地を売って欲しいと言い出してきた。何なら、ビルの建て直し後、一階にまた喫茶店を開いてくれても構わないと言う。


 ……最初の頃は当然断っていた。店がどうのじゃない、この土地は先祖からの継承だからと言って。そんないざこざが数ヶ月過ぎた頃、オーナー自身がふとした不注意で厨房内で転んでしまい、足の骨を折る大怪我をしてしまった。毎日のように通っていた俺は、当然見舞いにもしょっちゅう通い、怪我をしてしまったせいで塞ぎ込みがちになったオーナーの話し相手になっていたが、老人の骨折というのはやはり治りが遅く、またそのせいで精神的にも弱くなってしまい、最終的には家を売る決断をしてしまっていた。


「……もう、店はしない。家を売った金で田舎に小さな一軒家でも建てるよ」


 力なく笑い、遠い目をしながらそう言う彼を、孫娘である彼女は涙ながらに励ましていたが、俺はそんな彼女に「暫くはゆっくりさせてあげよう」と言い、ビルの建て替えが始まる頃、また考えようと彼女を宥めた。


「……どうしてそんなに親身になってくれるの?」


 病院から彼女を家に送る途中、そんな事を聞かれ、俺は何故だろうと自問してみたが、はっきりとした答えは導き出せなかった。だからという訳ではないが、本音半分、下心半分で誤魔化すことにしたんだ。


「……あの店が大切だってのもあるけど、君の声に何時も「元気」を貰っていたからな」




 ……今考えると、なんとも滑稽で、言った自分自身を殴り飛ばしたい気分になる。まぁ、でもそれがきっかけで、彼女は笑ってくれたし、最後には夫婦になったけれど。


 ――それすら続けられなかった俺は、どうしようもない奴だな。


 事の始まりは、ほんの小さなすれ違い。……いや、ボタンの掛け違い……どうでもいい。悪いのは俺なのだから。


 閑職に廻されて、俺は何処にもぶつけられない感情を、こともあろうか、家族に向けてしまった。休みの日には当てもないのに出掛け、結局一人で酒を飲んで遅くに帰宅。妻の話は勿論、子供達の声にすら耳を傾けなかった。……相談すらしなかった。……いや、出来なかった。


 妻にはとうに知られていたのに……。


 そうして、帰宅した俺を出迎えたのは、色々な物が失くなったがらんとした部屋と、ダイニングテーブルの上に置かれた薄い緑色の紙切れだった。



 目の前にはオーナーの墓石。……結婚の報告をして以来か。そうして離婚した日には流石に来ることは憚られたけれど。……今日はあの日から会っていない、息子の誕生日。ちょうど二十歳になった日だ。


 もう会うことは叶わないだろうが、何故かここへ報告だけはしたいと足が向いた。


「……爺さん、恭子とは離婚してしまいました。……だから本当はここに来れる立場じゃないんだけど、智樹が二十歳になったので、その報告だけはしようと思って」


 それだけ言って、俺は持ってきた道具で墓を掃除する。歪んで建つ卒塔婆を直し、草を毟って墓石を磨く。柄杓で水をゆっくりとかけ、手ぬぐいと指を使って掘られた名前の溝を綺麗にしていくと、何故だか目の前がぼやけて見えにくい。汗が流れて思わず捲った袖で顔を擦ると、どんどん目の前が滲み、最後にはもう、ボロボロ涙を流していた。


「……今頃、今頃になって、やっと気づいた俺はホントに馬鹿な男だよ」




~*~*~*~*~*~*~*~*~



「「恭子(沙友理)、今もこれからもずっと」」


 ――愛している。







~了~

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