ふくらはぎ
真希は呆然としていた。
救急車の中にいる自分に。
忙しなく聞こえる外の音に、声に。
やがて動き出した車内には、サイレンの音がぼんやりと響く。
その音は遠くなることはなく、自身がサイレンの元なのだと理解させた。
軽く起こされたストレッチャーから自身の足元が見える。
患部にはそっとガーゼが当てられている。
素人目にも大した傷ではなかったが、こんな大事になるとは。
真希は先程誤って滑って、カフェのガラス窓に脚を突っ込んだのだ。
スパリと、数センチの鮮血がふくらはぎに現れただけで、大きな痛みはない。
チェーン店のカフェの店員は、一応警察を呼ばないといけなくて、と青い服の屈強な男性たちが大勢やってきた。
やがて救急車一応呼びましたと声をかけられて、平謝りに真希は受け入れた。正直、急がなくても明らかに死なない自分が乗るのは罪悪感の方が勝るが、警察官に逆らえる状況ではない。
救急車が到着するまで、店の前で待つ。
じわりじわりとふくらはぎを伝う赤の液体に、言いようのない不安が呼び起こされる。
店の客は出入りするたびに、真希のふくらはぎをじっと見つめて去っていく。
やがて救急隊が到着し、肩を貸され、担架に乗り込む。もちろん歩けるのだが、なんだか足元はおぼつかない。
熱や血圧を測られる。どうやら熱があるらしい、この状況に脳もフルスロットルなのかもしれない。
こんこんとバックドアが叩かれる。
カフェの店長を名乗る男性が現れ、今警察の方と防犯カメラを確認して、故意じゃないのは確認できました、お身体大事にしてください、また連絡しますと貼り付けた笑顔で告げられる。
そりゃそうか、こんな酷暑の中ガラスを割られてる状況で笑顔を作るだけ、立派な社会人か、と真希はごちた。
最初に繋がった病院では、整形外科がないので、と次に案内された名は、母が亡くなった場所であった。
奇しくも真希の母の墓参りの帰り道であった。
ごとごとと揺られ、ぼんやりと隣のオレンジの椅子に目を移す。誰もいない席に、母と共に乗った父の姿を思った。
やがて、病院へ着くと、車椅子で移動することになる。迎える看護師の方も特に焦るわけでもなく、救急救命士の方も朗らかだ。
きっとあの日とは全然違うのだろう。
そのまま不相応な車椅子に背を丸め縮こまりながら、押されて入った部屋は、まさに1年前横たわる母と対面した場所であった。
そして、ここにどうぞと言われた処置用のベッドは母が寝ていた場所と同じである。
ああ、こんなことがあるのか、真希は母が見られなかったであろう天井の壁を見つめる。
ぼんやりとしていた思考に、ゆっくりと昨年の記憶が流れ込んでくる。
目を閉じると、涙が溢れる。
暑くないですか?と訊かれ、震える声に気づかれぬよう精一杯ハキハキと答える。
医師が到着し、あー縫おうか、縫わないとね、時代劇の特殊メイクみたいになっちゃうからと、明るく手術宣言が行われる。
真希はゆっくりと身を起こす、自分の身体が縫われる瞬間なんてなかなか見られないだろうと。
そんな真希に気づいて医師も見る?と、素敵なノリのおっちゃんだ。
麻酔をかけられたふくらはぎに黒い糸が通されていく、なんとなく感覚はあるものの痛みは一切ない。
ひと針、ふた針縫われていく。
開いた皮膚と皮膚が合わさっていく。
血が流れていく。
真希は自身が生きているのだ、と実感した。
共にぐわっと具合が悪くなるのを感じ、医師に告げて改めて横たわる。
天井が目の前に広がる。
生きてる、母の死を目の当たりにしたその場所で、自身の命があることを実感した。
見なきゃ。改めて真希は身体を起こした。
医師も少し困った声で、あんまり動いちゃ駄目だと伝えられる。
そうですよね、すみません、と言いつつ、改めて傷口を見つめる。
やがて処置が終わる。
黒い糸は私を繋ぎ止めているようだった。
母を亡くしてから、その面影ばかりを追い、日々何か鬱屈としていた自分を。
第二の心臓だと言われるふくらはぎに出来た、黒のギザギザをまじまじと見つめる。
横になってお待ちください、と声をかけられる。
改めて真希は天井を見つめる。
目を閉じた。母を思って。
ふくらはぎが、どくんと新たな血を心臓に送るのを感じた。
まるい地球にうたう短編集 初桜 光 @ruriiro01
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