まるい地球にうたう短編集

初桜 光

ことり

空を見上げると、ちいさなことりが飛んでいた。


茹だるような暑さに、じっとりと張りついたタンクトップが気持ち悪い。


菅野宏太かんのこうたは、ことりが見えなくなるまで空を見ていた。

こんな暑い日でも、ことりはかろやかに飛んでいた。羨ましさを覚えた。

菅野は体格がいい方で代謝も良かったので、最近の暑くなる気候にダイレクトに影響を受けていた。


「あっつ。」


そう呟いて、汗が同時に噴き出るのを感じる。

ことりのいなくなった空は、太陽の一人芝居となって、菅野は目を細めながら、タオルハンカチで汗を拭う。


「あ。」


手に取ったハンカチは先月亡くなった父が使っていたものではないか。

実家で暮らす菅野は、朝の支度の間に鞄をソファの上に置いておく。

そうすると、母が鞄の中にハンカチやらちょっとしたお菓子やらを入れといてくれるというわけだ。菅野としては決して甘えたいわけではない。世話をしたい母の気持ちに応えてやってるのだ。


母はただ間違えてこのタオルハンカチを入れたのだろうか、それとも、もうこのハンカチは俺のものになるのだろうか。


当たり前のように自身が使ったそれをぼんやりと眺める。


紺のパイル地の片隅に小さな刺繍が入っている。

定番のよくありそうな白い小さなことり。

きっと鳥が好きな父に、母が気を利かせて買ったものだろう。

その昔、反抗期の菅野は、母に刺繍が入ったハンカチなんて使えないとキレ散らかしたことがある。それから、母が揃える菅野のハンカチに刺繍が入るものはなかった。

だから、刺繍が入ったこれは間違いなく、父のものだ。


父は無類の鳥好きであった。

休日にはバードウォッチングに出掛ける。

撮り鉄ならぬ撮り鳥、もしていた。


菅野には鳥の何がそこまで良いのか分からなかったので、子どもの頃はついていくこともあったが、中学生の頃には一緒に行くことはなくなっていた。


父は週末のたび、山へ出掛けては鳥を見て帰ってくる。そんな父を良いことに、母はよく銀座辺りに足を伸ばしているようであった。


父と母は決しておしどり夫婦だとかそういった感じではないけれども、だからといって晩年離婚をするような感じでもなかった。


だから、父が定年も迎えずに、早く亡くなるなんて思いもしなかった。


菅野は悲しいだとかそういうことを思うより、なんだか悔しかった。

いわゆる親孝行だとかそういったものをする前に、すっと父はいなくなった。

日常からぱたりと父の存在だけがなくなってしまった。


父の人生はそれでよかったのか、そんなことを悶々と思うと、やはり悔しいに行き着くのであった。


いつの間にか暑さを忘れ、ただじっとそのハンカチを見つめていた。

社用携帯が震えて、菅野はようやく動き出した。


帰りの電車、座席に身を預けて、ふっと菅野は思った。

この西武池袋線は父の訃報が届いた時に乗っていた。

そんな電車に毎日乗っている自分が、当たり前のことなのになんだか不思議だと。

なんだか思考が下向きに傾く感覚は、父の死から何度か味わった。またこのターンか、と心の中で呟き、菅野はゆっくり目を閉じた。


やがて最寄りに着いた、駐輪場から自転車を取り出して、鞄をカゴに乗せる。

夏の暑さの中でも夜の風は少し気持ちいい。

とはいえ、少し漕いだらまた汗が噴き出てそうも言えなくなるのだが。


「おかえり。」


菅野の自転車の音を聞いたら、玄関に向かって鍵を開ける、菅野が小学生の頃から母の習慣である。


「暑かった?」

「まあ。」

「なんか最近ずっと暑くていやねぇ。」


パタパタとスリッパの音を鳴らして、母は廊下を戻っていく。

その背中に声をかける。


「母さん。」


振り返る母は少し不思議そうな面持ちをしていた。


「これ入ってた。」

「あ、ごめん、パパのじゃない。間違えちゃった。」

「いや別にいいけど。」

「えぇ、でも、刺繍入ってたでしょ〜?」

「そんなんもう気にしないし。」

「そぉ?」


ハンカチを見てから、母は妙に楽しげだった。


「これね、パパのお気に入りだったの。」


菅野の手から、母はハンカチを受け取る。


「パパは、普段あんまりこだわりとかなかったじゃない、それってあんまり面白くないなって思ってたけど、パパはこのハンカチの日だけね、ちゃんと折りたたんで洗濯カゴの目立つところに入れてたの。」


「鳥だけで、そんなに変わる?って思って、でもちょっと面白いなって。」


「あー、このひと、本当に鳥好きなんだなぁって。」


「本当は棺に入れて燃やしてあげようかとも思ったけどさ、やっぱり鳥を燃やしたら、焼き鳥じゃない、それってパパ嫌がるかもって。」


「あと、まぁ私もね、パパのもの、少しは残しておくかって。」


そうだ、母は父の死の後、恐ろしい勢いで父の物を片付けた。棺にいくつか入れた鳥鑑賞用グッズ以外は、父の仲間に貰ってもらって、みんなもう手元にない。


「私ね、パパ、鳥になってると思うの。」


母の素っ頓狂な発言に思わず吹き出し、むせそうになる。


「思わない?まだ若かったし、わりとまだ飛べるんじゃないかなって。」


まだ若いったって半世紀は生きたぞと言い返しそうになったが、母のその妙に澄んだ瞳に菅野宏太は弱かった。


「飛んでるのよ、あんだけ鳥ばっか見てたんだから、飛び方だって分かるでしょう。」


「だから、毎日ちょっとだけ空を見るの、鳥の鳴き声がしたら、少し探すの。」


「私も飛べるように。あー、でも私おばあちゃんになるつもりなのよね、いくつまで飛べるかしら。」


ハンカチをポイっと洗濯カゴに投げる母。

踵を返して、パタパタと音を立ててリビングへ去っていった。


「鳥か。」


母の投げたハンカチをそっと拾う。

四つ折りにして、表に鳥が見えるようにして、洗濯カゴの角に立てかけた。

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まるい地球にうたう短編集 初桜 光 @ruriiro01

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