手紙
弥彦は穂波の手を引いて走り続けた。
穂波は見るからに速く走れなさそうな男で、靴だって田舎に行くというのに革靴を選ぶような都会っ子だ。
なかなか思うように前に進まない。
パキパキ
パキパキ
音は、真後ろ、左右から聞こえる。
距離は遠からず、近からず。
一定の距離を保っているようだ。
吊り橋に着いた。
もはや夜になっている。
「穂波君!! 吊り橋を渡るよ!!」
弥彦は穂波の肩を揺すって言った。
「あ、ああ……」
あの聡明な穂波が曖昧な返事をするなんて、よっぽどあの木が怖かったんだろうか、と弥彦は思った。
弥彦は、穂波の体を押しながら先を行かせた。
橋が揺れるのは仕方ない。
化け物も怖いが、板を踏み外したらそれこそ終わりだ。
「穂波君!! しっかりして!! あともう少しだよ!!」
「……あ、うん……」
穂波は一歩一歩、子どもがもったいぶって歩くように進んだ。
弥彦はやきもきしたが、焦って足を滑らすよりはましだと思い、後ろの様子を見つつ、なんとか村側の端にたどり着いた。
弥彦は後ろを振り返った。
何かが追ってくる様子はない。
少し安心して、穂波を見た。
穂波は、ぼうっとして、そこに立ち尽くしている。
「……穂波君……大丈夫か……? ごめんよ、怖い思いをさせて……」
穂波に手を伸ばした。
その時、ガラガラと、吊り橋が壊れる音がした。
吊り橋の綱が切れ、こちら側の崖に橋が叩きつけられたのだ。
弥彦は慄きながらそれを見ていた。
そして、向こう側に二人の人間の姿があることに気づいた。
一人は妹のマイ、もう一人はマイと同い年くらいの若い男。
二人は簡単な着物を着ているように見えた。
手を繋いで、笑いながらこちらに手を振っている。
「マイ……!」
弥彦は、何がどうなっているのかはわからなかったが、マイたちが橋を切って助けてくれたような気がした。
男は、一緒にいなくなったあの墓の男かもしれない。
もしかして、恋人同士だったのだろうか……。
二人は手を繋いだまま、振り返り、森の向こうに消えて行った。
♢♢♢
翌日、弥彦と穂波は街へ帰ることにした。
あれから、穂波は「ああ」とか「うん」しか言わない。
弥彦は申し訳なさでいっぱいだった。
穂波がおかしくなってしまった。
あんなものを自分の目で見てしまったら、もう迷信どころではなく、事実だと認めるしかない。
今まで聞かされてきた、村の言い伝えや神話が全部本当のことなのかもしれないのだ。
早く村を離れれば穂波が良くなるかもしれないと思ったが、穂波は無表情のまま列車から窓の外を見ていた。
♢♢♢
あれから一ヶ月が経った。
穂波は一度も店に来ていない。
電話をしても出ない。
人づてに聞いて、家も訪問したがいなかった。
ある日、穂波から手紙が来た。
胸が締め付けられ、封を切る手が震えた。
読む前から泣きそうだった。
――親愛なる野田弥彦へ――
突然、連絡を絶ってすまない。
つまらない僕の話にしばし付き合ってくれ。
僕は四境村から帰宅した後、父があの村を研究していたことを思い出した。僕は実家に行って、父の資料をひっくり返してみた。
そこでわかった、君の故郷である四境村について、君に伝えておく。
まずは、僕の父の話からだが……父は、民俗学者だった。
父は、”土地”に根付いた暮らしや営みがある”田舎”の、脈々と受け継がれる不思議な話や儀式を調べていた。
そこの住人の精神性を理解し、ひいては日本人のルーツを解き明かそうとしていたのだ。
父は、たくさんある地域の中で、四境村に”ハマって”いって、頻繁に村へ行くようになっていた。
四境とは、「男と女」「大人と子ども」「生と死」「人と人外」の境目のことで、父は最初、村の”言い伝えや昔話の分類”としてこの四境があると考えていた。
だが、調査の末、この村の中に具体的な場所として四境があるとわかったんだ。
その一つがシャバザカイだよ。
生死を分ける谷。
他の場所についても、見当がついていたらしい。
――――
ここまでが、一枚目の内容だった。
万年筆を使い、美しい文字でしたためてあった。
四境村のことは、正直どうでもよくなっていた。
穂波が無事で良かったと思った。
二枚目を見た。
――――
父は、四境村からなかなか帰って来なくなった。
僕が小学生の時だ。
家族らしい生活ができないどころか、父がそんなことばかりしているから家は貧しくて、母は苦労した。
母は、家庭を顧みない父にとうとう愛想を尽かして、離婚した。
最後まで、彼は母と僕に会おうとはせず、四境村に引きこもっていたよ。
今となっては、それ自体はもうどうでもよいことだが、母は、貧しい暮らしに耐えかねて、大して好きでもない男と再婚をした。
おかげで僕は大学に行けたし、君にも出会えた。
それは良かったんだけど、あまりいい義父ではなくてね、母の苦労を思うと、胸が痛むんだ。
そんな思いがあった中での、先だっての四境村の訪問だったのだ。
――――
これが二枚目だ。
穂波の家庭事情については、聞いたことがなかった。
あんなに話していたのに、穂波のことをあまり知らなかったことに気づいた。
よく店に来てくれていて、それが日常になっていたから、俺は油断していたのだろう。
三枚目をめくった。
――――
僕は、あの日の四境村で彼を見つけた。
君の妹の隣の木だったよ。
何が、学者だ。
家庭一つも守れないで。
母は、義父に強姦まがいの性行為をさせられて、奴隷のような扱いをされデダンダ。
でも、僕を育てるために、母は我慢するしかネガッダ。
あいつがヨォ、四境村サ惹ガれダのは、あいつの祖先が四境村の人間で、その血を引いてダからナノス。
ダバ、オラにも当ダり前に四境村の悍ましい血が流れデラノス。
四境村は、男女の境目を無グして乱交し、大人と子の境目を無グして子を食い物にし、生死の境目を無グして化ゲ物を作っデ、人ド人外の境目を無グして禁忌を犯してる穢れの村ナノス。
ダガラ、***(判別不能)の怒りに触れデ、災が起ゴッデラノダ。
オメもオラドおんなじ穢れの子孫ダ。
オメも罪ナノヨ。
オメも四境村サコ。
オラは四境村で待ッデラスケ、オメもハヤグ四境村サコ。
マッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾマッデラゾ
――――
三枚目は殴り書きだった。
弥彦は、震えた手で手紙を握りしめ、おいおいと泣いた。
普通の人なら、気味の悪い手紙だと思ってすぐに捨てるだろう。
だが、弥彦は穂波の言っていることがよくわかった。
弥彦の父は、精神薄弱な村の男に火をつけられて死んだ。
弥彦の母は、弥彦の子を身ごもり、出産時に子どもと共に死んだ。
マイは小学生の間、山神との結婚という儀式の名目で村の長老らの相手をさせられた。
そんな、穢れた行為が、迷信を根拠にいまだ残っている。
穂波に、会いたい。
たとえもう狂ってたとしても、会いたい。
狂人の穂波でも、俺は愛せるだろう。
それが、四境村の血なのだ。
(完)
四境村の怪 千織 @katokaikou
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