婚道覚悟

オジョンボンX/八潮久道

婚道覚悟

 樋口瑞枝は天せいろを前に、いかがしようかと逡巡した。いつもならそばは、ずっ、ずっと勢いよく啜って食う。だが今は婚活のプレ交際の相手を前にしている。大きな音を立てて食うのは憚られるだろうか。


 高坂修太朗は既に自分の鴨せいろを美味そうに啜っている。

 瑞枝は恨めしく思った。

 修太朗と会うのは二度目だ。前回は結婚相談所の紹介での見合いだった。まだお互いを知る段階だ。

 音のするもの、衣服に汚れや臭いの付くもの、大口を開けたりかぶりついたり食べづらいものを避ける。知り合ったばかりの相手であれば当然の配慮ではないのか。店を選んだ修太朗を恨んだ。


 修太朗が顔を上げた。手の進まぬ瑞枝を気遣う言葉が出るかと期待した。だが出てきたのは意外な言葉だった。

「えび一本もらっていい?」

 修太朗は瑞枝の天ぷら盛り合わせを、箸で品なく指しながら言う。

「天ぷらが好きなら、別に単品で頼む?」

「ううん、大丈夫。貰うね」

 瑞枝が返事する間もなく、修太朗はえび天を箸で攫っていった。瑞枝の手元にある天つゆにつけ、つゆをぽたぽたとこぼしながら、自分の口に運んだ。

 修太朗が、代わりに鴨肉の一切れでも勧めてくるかと待ったが、それもない。

 瑞枝は婉曲に断ったつもりだ。欲しければ自分で頼め、私のを渡すつもりはない、そう言っている。それが分からぬ人間と付き合うなど無理な話だろう。


 瑞枝は箸を置いた。

「じゃあ、私も、一本もらうね」

「えっ?」

 修太朗は強い衝撃を左半身に感じた。それから、巨大な焼きごてでも当てられたかのような熱を感じた。

 修太朗の左腕一本を、瑞枝がもぎ取っていた。瑞枝は席に着いたままに見えた。その一瞬の動きは誰にも見えなかった。

 血があふれ出す。何か狼が森を隔てた奥で遠吠えするような音を、修太朗は漏らした。

「お客様、他のお客様のご迷惑となりますので、お静かにお願いいたします」

 修太朗の背後に高校生のバイトが立っていた。

「婚活とお見受けしますが、この程度で喚くようでは、婚道不覚悟と申し上げるほかありますまい」

 高校生バイトは重ねた布で修太朗の傷口を強く圧迫した。手早く見事な止血だった。修太朗は耐え難い痛みに耐えようと、食いしばった奥歯が割れた。


 瑞枝は修太朗の左腕をテーブルの上に放り捨て、(もうよい)と投げやりな心持ちになった。箸を取ってずっ、ずっと激しく音を立ててそばを啜った。美味い。なす天も噛み締めればじゅわりと汁が口中にあふれて美味い。

 このプレ交際も終わりだ。虚しさに脱力しながら、しかし瑞枝はこれで良かったのかもしれぬと思い直した。付き合いが深くなる前に素性が知られて良かった。ただ、これでまた新たな相手を探し見合いをするのも、気が重い。

「えび天一本と、腕の一本じゃ、釣り合いが、取れないよ」

 修太朗が抗議とも質問ともつかぬことを、喘ぎながら呟いた。

 瑞枝はまじまじと修太朗を見た。口をきけるとは思わなかった。顔には脂汗を浮かべている。痛みは相当なものだろう。なかなか根性がある。だが瑞枝はあくまで冷ややかだった。

「確かに、えび天一本と腕一本は釣り合いが取れないかも。でも……『私のえび天一本』と、だから」

 それだけ言うと、瑞枝は再び箸を進めた。ずっ、ずっ、ずぞぉーっと盛大な音を立て、先だけわずかにつゆにつけたそばを、ほとんど噛まずに飲み下す。見事な食べっぷりだった。

 止血を続ける高校生バイトが、修太朗の耳もとへ顔を寄せて

「このお方は本物の婚活猛者でございます。お覚悟召されよ」

 と囁いた。


 修太朗は右手で鞄の中を漁ると、濃紺の小箱を取り出した。観音開きのリングケースを開くと、HARRYとWINSTONの文字の間で、ラウンドブリリアントカットのダイヤモンドが店内の多数の間接照明の光を集めて眩くきらめいた。プロングの側面がHとWの文字をかたどったハリー・ウィンストンのアイコニックなHWリングだ。最低サイズの0.5カラットだが、160万円はする。世界五大ジュエラーに数えられ、とりわけダイヤモンドにこだわりを持つハリー・ウィンストンは、婚活の世界においても憧れの的ではあった。

「結婚、して下さい」

 己の腕をもぎり取った女にプロポーズとは、恐れ入る。

 会って二度目の、プレ交際の相手に突然、衆目に晒される中で、まるで非常識だ。

 瑞枝はHWリングをつまみ、美麗なつくりを認めた。テーブルに捨て置かれた修太朗の左腕の小指にリングをはめた。

「サイズぴったり。とってもきれい」

 修太朗の目の前にリングが来るように腕を差し伸べた。

 瑞枝は化粧品も衣服も装飾品も、ハイブランドへの強い憬れはなかった。品質やデザイン性、それから所有への満足感を否定もしなかった。だが果てしなく追い求めるのは分不相応だと考えていた。

 相手の価値観を理解せず、高価なものを押し付けるのは、独善的だ。

 けれど、そんなやり方しかできないこの男の愚かさを、瑞枝は哀れんだ。

 哀れむ? 私にそんな資格があるのか? えび天一本で相手の腕一本もぎり取っちゃって、急に差し出された婚約指輪をもぎ取った手にはめて突き返しちゃって。感情の抑えがきかなくって。愚かで哀れなのはどっち。

 これじゃ婚道じゃなくて、覇道だよ~。トホホ~。


 瑞枝は目を伏せ、今度は丁寧に左腕をテーブルへ置いた。

 高校生バイトは他の店員を呼び、氷を詰めた発泡スチロールの箱に、左腕をビニールに包んで入れさせた。指輪はリングケースへしまわれて修太朗の鞄へ戻された。

「修太朗さんって、兄弟多かったって言ってたよね」

「うん。兄と妹と弟の四人兄弟」

「そうなんだ。実家では大皿で料理が出てた?」

「そうそう。唐揚げとか、煮物とか、お母さんがめいっぱい作って、何日か同じだったなあ。兄弟でどんどん食べるから」

 まるで月並みな婚活の会話だ。

「『食い尽くし系夫』って知ってる?」

「……? お母さん結構料理が上手くてね、瑞枝さんにも今度食べてほしいな」


 修太朗は箸を取り、再び瑞枝の天ぷら盛り合わせを指した。

「えびもう一本もらっていい?」

 瑞枝は耳を疑った。瑞枝ばかりではない。高校生バイトも、周囲の客も、驚愕した。

 えび天を取れば、残り一本の腕も取られるのだ。修太朗がそれを分かって言っているのか疑わしかった。

「天ぷらが好きなら、別に単品で頼む?」

「ううん、大丈夫。貰うね」

 震える声で瑞枝は提案したが、修太朗はあっけらかんと断った。箸先がえび天に向かって伸びる。

 緊張が走る。そのえび天を取ってしまえば、腕をもぎ取らねばならぬ。

 高校生バイトはすでに清潔な布を新たに用意して備えている。

 隣の客は、再び瑞枝の人並み外れた技を拝める――実際には目に映らぬ速さで視認することはできないが――と期待して箸先の行方を見つめている。

 店内はしんと静まり返った。永遠のような時間が流れる。

 修太朗の箸先はもう、えび天に触れようとしている。


 瑞枝の目にも映らぬ早業が閃いた。

 しかし今回は、消えたのは修太朗の腕ではなく、手元のえび天の方だった。既に瑞枝の口に運ばれ、しゃくしゃくと音を立てて食われていく。いつの間にか天つゆもしっかりついている。

 修太朗は傷付いたような顔をした。

「あーん。食べたかったのに」

 瑞枝はしっぽまでバリバリと喰らい尽くした。

「『あーん』じゃないんだよ!」

 と一喝した。

「単品で頼むかって聞いてるじゃん。欲しかったら自分で別に頼んでね、私のはあげたくないよって意味だよ。私、食べていいって一言も言ってないでしょ。勝手に食べるな!」

「そういう意味だったんだ。ごめん」

「あと、食事にそばはもうちょっと仲良くなってからだと助かる。すする音も恥ずかしいし」

「あー、そっか」

「それから急に婚約指輪はやっぱりおかしいよ。まだ真剣交際にも進んでないからね。順番がめちゃくちゃだよ」

「うぅん……友達なんかにも、お前おかしいって時々言われる。常識がないとか、自分勝手だとか言われるんだけど、自分でも何が悪いのか分からなくて……はっきり言ってもらえた方が、うれしいよ」

 にわかに痛みがぶり返したのか、修太朗は顔を歪ませた。あるいは身勝手さを瑞枝に指摘され痛感した苦しみかもしれなかった。瑞枝は黙って残りの天ぷらとそばをかき込んだ。

「あとそもそも! 一番おかしいのは!! プレ交際の相手の腕をもぎ取る私だから!! 相済まぬ」

 瑞枝は伝票をかっさらうように手に取り席を立った。

 高校生バイトが

「腕の立つ外科医を知っております。お任せ下さい」

 とその背に声をかけた。


 瑞枝がSNSに、婚活の相手がえび天を勝手に食べた話を投稿すると、五万超の「いいね」がついて少々話題となった。「万バズ」である。腕をもぎ取った話は書いていない。相手を非難する声に溢れた。不公平だっただろうか。だが、婚道に悖る振る舞いではない。

 修太朗を結婚相手と見るなら多難であることは明らかだろう。その点、既に結論は出ている。次の相手を探すべきだ。

 だが、面白い男だ。プレ交際では互いの多少の欠点には目を瞑るのが良いとも言う。


 婚活って奥が深いんだから。

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