後編

 そんなある日、突然、本当に唐突に仕事が入った。

 会社から電話が入り、行き先をただ告げられ、とにかく行って舞台をこなせとだけ言われた。

 老人ホームへの慰問だった。

 二人は戸惑った。

 そういう仕事は、名前の売れているベテランの仕事だというのが定番となっているからだ。

 とはいえ、せっかく久しぶりに入った仕事だ、二人は喜び勇んで仕事場へ向かった。

 劇場では若い客ばかりを相手にしているため、目の前にお年寄りが並んで座っている様はある意味壮観だった。

 それに、老人ホームだから、当然舞台や客席などない。食堂が劇場であり舞台だった。それも、食事を摂りながらだ。

 老人ホームなので、一人で食事を摂れない人もいる。介護ヘルパーが付き添い、スプーンを口に運んでいたり、粗相をした人の介助をしていたり、奇声を発する人を職員が宥める中の漫才だった。

 劇場に金を払って笑いに来ている客とは違い、老人たちは誰もタケシたちの漫才をまともに見ていなかった。食事に夢中だ。中には居眠りをしたり、さっさと食べ終え、自分の部屋へ帰ってしまう者もいた。そんな中、いつものネタを披露したが、ウケるわけもなかった。逃げるように食堂を出、控え室に戻った。

 タケシは荒れた。

「ふざけんなよ、なんやねん、この仕事。笑う気ない人間を笑わせられるかい!」

「……でもな、タケシ。そういう人をこっちに向かせて笑ってもらえるのが本物の芸人とちゃうか?」

「……無理や。オレらは、笑う準備をしてきている劇場の客ですら笑わすことができひんねん。それやのに……会社はオレらにやめてほしいんやろか……」

 不意に涙が溢れてきた。涙を流すなんていつ以来だろう。少なくとも、芸人になってからははじめてだ。ジュンが驚いている。

 本当は、ネタをやっている最中に泣きそうになっていた。でも、なんとか耐えた。芸人は舞台の上では泣いてはいけないと思ったからだ。

 控え室のドアがノックされ、施設長といわれる人が入ってきた。

「今日はありがとうございました。当施設では、イベントの時間が別にあるのですが、あいにく先々まで埋まっておりまして、ですからお食事の時間に漫才を披露していただきました。本当に申し訳ありません」

 と言い、封筒を渡してきた。施設長は頭を下げ、控え室を出ていく。

 封筒の中身を確認すると、千円札が一枚だけ入っていた。本日のギャラだ。一人五百円。交通費にもならない。

「これがオレらの今の実力や」

 ジュンが言う。

「くそっ!」

 タケシは悪態をつくことしかできなかった。


 老人ホームの次は刑務所だった。

 タケシは行きたくなかった。老人ホームの一件がトラウマになっていたからだ。だが、老人ホームとは異なり、刑務所は娯楽の時間があるはずで、それに合わせてネタをさせてもらえるはずだ。それに、笑いなどの娯楽に飢えているはずだと思い、何とか気持ちを奮いたたせ、現場に向かった。

 だが、やはりウケなかった。それどころか、週に一度の貴重な娯楽の時間を、駆け出しの無名の漫才師に奪われたと思ったのか、二人を睨みつけ、野次を飛ばさないかわりにクスリともしなかった。

「やっぱり、老人ホームとか刑務所の慰問は、人気のあるベテラン芸人やないとあかんやろ」

 開き直ったように言うタケシに、ジュンは何も言葉を返してこなかった。


 その次は養護施設だった。十五歳までの、身寄りがまったくない子供たちが暮らす施設。 

 ずっと若者を相手にしてきたが、ここまで若い世代にネタを披露したことなどない。

 もちろん、彼ら向けのネタも持ち合わせていないため、いつものネタを適当にアレンジして披露したが、まったくウケなかった。

「誰、この人たち!」、「○○が観たい!」など、売れっ子芸人の名前を叫ばれたりした。「おもしろくなーい!」、「お外で遊びたい!」という声も上がった。

 子供は正直だ。それだけに残酷だ。それに加え、この子たちは、身内がいないという深い傷を心に負っている。皆が皆ではないが、笑いを忘れた子もいる。そういう子たちを笑わせるのは至難の業だとタケシは自身を慰めた。そうすることでしか、精神のバランスを保つことができなかったのだ。

 

 タケシは打ちのめされていた。

 金を払い、劇場に笑う準備をしてやって来る客を笑わせられないのに、笑う気などない人間を笑わせられるわけなどないと、自分を慰めた。

 ジュンは何も言わない。ただ、「今のオレらのほんまの実力がよくわかった」と言うだけだった。

 そんなジュンの態度と言動に、タケシは苛立ったが、一方で、もし売れっ子の、いや、売れっ子でなくても、実力がある芸人であれば、どんな相手でも笑顔にできるはずだ、舞台の方を向かせることもできるはずだと考えていた。 

 たとえば、老人ホームで食事中の老人たちが相手でも、彼らが食事を摂ることを忘れるくらいのネタを披露するだろう。

 身銭を切って、笑いを求めてやって来る客は笑いにシビアだ。笑う準備をしてきているとはいえ、金を払っているのだから、きっちり笑わせろと迫ってくる。つまり、面白くなければ笑わない。

 そして、元々笑う気がない相手は、心をこちらに向けさせないと、笑う行為すら思い出さない。

 どちらも厄介だ。でも、どちらも面白ければ笑うはずだ。力があれば、自分たちに目を向けさせ、笑わせることができるはずだ。

 思えば、学生時代がそうだった。タケシは、ユーモアのかけらもない堅苦しい教師の授業中や、何か問題が起きて深く沈むクラス、あるいは、しんと静まり返った自習の時間、そんな教室の雰囲気が大嫌いだった。だから、そんな時は、いきなり立ち上がり、またある時は突然教室の前へ行き、バカをやったり、ジュンと漫才を始めたりして、クラス全体を笑わせたものだ。

 さすがに、ユーモアのかけらもない堅苦しい教師には大目玉を食らったが、しかし、怒られているその場面もまた、結局は笑いに繋がった。

 緊張と緩和。お笑いの基本だ。もちろん、その頃はそんなことは知らなかったし、無意識のうちにやっていたことだが、クラスのみんなを自分の方へ向かせるために色々と策を練ったものだ。

 もちろん、学校でクラスメートを笑わせることと、客を笑わせることは全く次元が違う。そんな当たり前のことに、今更だがタケシは気づいていた。

 こうしている間にも、学生時代に面白いと持ち上げられた人間が、その気になってこの世界に入ってくる。そして、現実を知り、やめていく。そんな人間を、嫌と言うほど見てきた。

 だが、確かに次元が違うかもしれないが、クラスメートを笑わせることも、劇場で客を笑わせることも、老人ホームでお年寄りを振り向かせることも、そのためにこちらがすることは同じだと思っていた。

 学生時代は、がむしゃらだった。笑いのレベルは確かに低かっただろうが、とにかく、何とか笑わせたい、雰囲気を変えたい、リラックスさせたいという想いでやっていた。その想いだと思う。その想い、あるいは情熱、本気、それらがなければ、人は笑わない。タケシはそう感じていた。

 老人ホームのお年寄りも、刑務所の受刑者たちも、養護施設の子供たちも、もし自分にもっと情熱があれば、彼らを振り向かせ、笑いを届けることができたはずだ。そして、少しおこがましいかもしれないが、何かをもたらすことができたはずだ。それが勇気なのか、希望なのか、夢なのかはわからないが。

 もちろん劇場に足を運んでくれる人たちも同様だ。

 養護施設を出る際の、ある少女の一言が今も耳に残っていた。少女は言った。「あのお兄ちゃんたち、わたしたちの方を向いていなかったね」と。

 そうだ、自分たち、少なくとも自分は、今までずっと客の方を向いてこなかった。父の方を向いて漫才をしていた。意地だけで。客の方を向いていないのに、客が自分の方を見てくれるはずがない。

 情熱がない、本気さが見えない人間に、何かを感じるわけなどない。

「笑い取りたいなあ」

 思わず口にしていた。心からの想いだった。

 ジュンが反応する。

「そうやな。笑わせたいな」

 思えば、高校時代以降、二人で笑いを取ったことがない。

 今まで色々なことがあって、ジュンとも毎日のようにぶつかり、ケンカした。それでもやめなかったのは、父親に対する意地や、ジュンをこの世界に誘ったのは自分だという気持ちがあったからだ。だが、ようやくタケシは気づいた。

 今までやめなかったのは、人を笑わせる快感が忘れられなかったからだ。自分の言葉に他人が笑い、その笑いが波のように押し寄せてくる。時には、笑いの塊となってぶつかってくる。そしてタケシはまた言葉を放つ。そしてまた笑いの塊が……。

 それは快感以外の何物でもなかった。客とまさに一体となって、尚且つ勝負をしている感覚。真剣勝負。

「オレら、メチャクチャ難しいけど、でも、メチャクチャええ仕事に就いてると思わへんか?」

「思う。メチャクチャ努力も必要やけどな」

「そやな。人を泣かせるのは簡単や。せやけど、笑わせるのは難しい。誰かが言うてたぞ、お笑い芸人は、この世で一番難しい仕事やって。でも……だからこそ、一丁やるか!」

「おう!」

 久しぶりに、本当に久しぶりに、二人の気持ちがひとつになった瞬間だった。


 それからのタケシは変わった。

 それまでは、上から目線で、笑わない客が悪い、自分たちの笑いが理解できない客に問題あるのだと、客をバカにしていた。客の方を向いていなかった。

 だが、そうではないことに気づいたタケシは貪欲になった。基本からやり直した。

 以前は、こんなもん関係ない、何の役にも立たんと言って憚らなかった新聞に目を通し、ニュースを見て、日本語の勉強まで始めた。まるで外国人のように文法の勉強もし直した。言葉を売りにする芸人たるもの、正しい言葉と正しい表現法を知らなければ恥だと思ったのだ。そして客に失礼だと。

 芸人の先輩の話を謙虚に聞き、老人ホームなどに通い、人生の先輩の話を聞いた。先輩の舞台を見、また、すでに鬼籍に入っている大先輩の芸をビデオで見直し、何かを盗もうとした。

 ネタも作り直した。それまでの、学生時代のネタに少し肉付けしたものをすべて捨て、新たなネタを二人で作った。

 ただ、かつての同級生が休み時間に立ち話をしているようなスタイルだけは変えなかった。それは、学生時代からの親友コンビのルーツであり、こだわりだった。それを変えないことは、二人のささやかなプライドだったのだ。

 二人は会社に頭を下げ、何とか仕事をもらった。デパートの屋上やパチンコ店などのイベントの司会や、スーパーの安売りコーナーでの口上、バンジージャンプやスカイダイビングなど体を張ったロケ……。なかなか漫才の仕事はもらえなかった。だが、二人は腐ることはなかった。どんな場面でも、たとえばバンジージャンプの最中でも、ただ悲鳴を上げるだけでなく、言葉を発した。スカイダイビングをしながら、ジュンと漫才をした。

 ただただ歩くというロケもやった。徒歩で西日本を縦断しながら、各地の名所や名産を紹介していくというものだ。

 この仕事は、結果的に二人にとってのターニングポイントとなった。こういう仕事は、通常は、「しんどいなあ」、「目的地はまだかいな」と愚痴を言いながら、地元の人たちとの出会いや別れを演出する、感動的な番組になるのだが、二人は歩いている最中、まったく愚痴をこぼさず、しんどい素振りも見せず、ひたすらネタをやりまくった。漫才をしながら歩いたのだ。

 地元の人たちの触れ合いはもちろんした。彼らを相手に漫才を披露するというものだった。彼らは、こんな田舎に漫才師が来てくれたと大歓迎してくれ、見も知らぬ二人の漫才に心から笑ってくれた。そしてその夜は大宴会。翌朝は旅立つ二人を惜しんで涙を流してくれる人もいた。

 最初は二人のやり方にダメ出しをしていたディレクターも、違った角度からの感動番組になったことに気を良くし、やがて何ひとつ指示をすることがなくなった。

 結局、この番組は視聴率を取り、話題となりシリーズ化することになった。

 タケシたちは、この番組がきっかけで、舞台に復帰することになった。


 だが、すぐにはウケなかった。でも、コツコツとネタを作り、修正し、汗をかいてもがき続けた。

 ウケなくても、すべっても、客のせいにすることなく、何かにあたることなく、絶望することなく、前だけを見ることができた。

 タケシは充実していた。この先、売れるかどうかはわからなかったが、今、自分は本気になっているという事実、情熱を持ってやれているという想いが、充実感につながっていた。

 やがて、少しずつウケるようになっていった。演者の本気は客に伝わるものだ。約二年前の二人とは大違いで、客席は大いに沸いた。当時の二人を知る客も、「まるで別のコンビみたいや」と驚きの声を上げた。

 タケシは、ネタは変えたが、面白さという点では、以前とさほど変化はないと思っていた。飛躍的に自分が面白くなったという意識もないし、そんな事実もないだろう。

 やはり、気持ちの問題が大きいのだ。客と一体になり、客と一緒に寄席をつくっていくという想いが、今のタケシにはあった。もちろんジュンにも。

 今度、かつて訪問した老人ホームや養護施設を再び訪れたいとも考えていた。思えばあれは自分が変われるきっかけとなった。原点だ。そう考えると、あの時のギャラの五百円は、今思うと、もらいすぎだ。今度はノーギャラで恩返しに行きたいと思っていた。

 実力のついた二人は、当然の流れで新人グランプリにノミネートされた。デビューして五年までのコンビに権利があるから、ギリギリで滑り込んだことになる。

 ノミネートが決まった日、タケシはジュンに感謝の意を表した。

「ありがとう。おまえのおかげや。おまえのおかげでここまで来ることができた」

 ジュンは即座に否定した。

「いや、それはちゃうぞ。おまえは頑張った。オレは知ってる。タケシは一生懸命努力してたやないか。本気になったやないか。もちろん、オレも頑張ったけどな」

 笑顔のジュンに、タケシはそれでも礼を言い、そして尋ねていた。

「ジュン、おまえは、笑いに関しては、ほんまに熱いなあ。高校時代までのおまえは何に対してもテキトーで、のんびりした奴やったやないか」

「タケシ、おまえだけには、テキトーとか言われたくないわ」

「いや、さすがのオレも、おまえにだけは負ける。高校の時、検便の検査があって、おまえウンコが出んからって、そのへんの野良犬のウンコ入れて提出したことがあったがな!」

「あったなあ」

「あれ、大問題になったやろ。あり得へんほどの大腸菌やばい菌が見つかって、保健所が騒ぎ出して、政府が動きそうになったがな!」

「そうやったな」

「で、呼び出されたおまえは先生に何て言うた?」

「……覚えてへん」

「自分より健康そうな犬やったから、大丈夫やと思いましたって。アホか、おまえ! 自分より健康そうな犬って! おまえ、どれだけテキトーやねん!」

「うるさいわ!」

 しばらく二人で笑った後、ジュンが真面目な顔になり言った。

「オレはお笑いに対して熱いというよりも、おまえとコンビを組んで漫才してると、何ていうかこうアドレナリンが出て、自然と熱くなってくるんや」

「……」

「まあ、しゃあない。オレはおまえのファンやからな」

「ええっ? そうなんか?」

「そうや、何や、今頃気づいたんか」

「お、おう」

 冗談だと思ったが、ジュンの真面目な顔を見て、本気だと悟った。相方にファンだと言われ、嬉しさより照れが勝った。

「中学の時、あれは学級会やったかな、何か問題が起きて、クラスが何とも言えん暗い雰囲気になったことがあって、オレは気分が悪くなって吐きそうになってたんや。誰か助けてくれって思ってた。そしたら、おまえが突然立ち上がって、『先生、ずっと座りっぱなしなので、持病のイボ痔が出てきて痛いです! ちょっとトイレへ行って肛門の中に押し込んできていいですか!』って言いやがった」

「……そやったかな」

「オレは、おまえがヒーローに見えた」

「大袈裟やな、おまえは」

 確かにタケシの言葉で教室中が爆笑した。教師も笑っていた。そのおかげかどうかはわからないが、起きていた問題も解決した。

「いや、あの時、おまえは天才やと思った。でも、まさか……」

 ジュンが含み笑いをする。

「何や? ん? おまえ、もしかして、オレがほんまにイボ痔やと疑ってるわけやないやろな?」

「いや、別に……」

「あれはネタやぞ。『先生、トイレ!』だけでは何のひねりもないし、面白ないから、イボ痔を持ち出したんや」

「わかった、わかった。でも、あれからやなぁ、オレがおまえに突っ込むようになったのは」

 ジュンが懐かしそうに振り返る。

「そうやな」

 確かに懐かしい思い出だ。

「高二の時の文化祭、オレ休んだやろ? インフルエンザにかかって」

「うん」

「あん時、おまえ、仕方ないとはいえ、別の人間と即席コンビ組んだやろ? それ聞いて、オレは気が狂いそうになった。おまえのボケにまともに突っ込めるのはオレだけやと自信持ってたし、オレはおまえのアドリブの発想が好きで、そのアドリブに的確に突っ込めるのはオレしかおらんと思ってたからな。だから、文化祭で他の奴と組んだと聞いてオレは嫉妬に狂った」

「嫉妬って」

「でも、全くウケへんかったって聞いて、ちょっとは楽になった。で、おまえが最後までオレ以外の人間と組んでまで、漫才をやりたくないとゴネてたって聞いて、ホッとしたんや」

「そうか」

「前にも言うたけど、オレはおまえに、一緒にお笑いやろうって言われた時、心の底から嬉しかったんや。あの時からオレは本気なんや。おまえと一緒に生きていきたいって思ったんや。あ、念のため言うとくけど、オレは男好きとちゃうぞ!」

「……そうか、良かった。今、ちょっと不安になった」

「アホ」

 軽口を叩きながらも、タケシはジュンに申し訳ないという想いが湧き上がってきた。

「……なあ、ジュン」

「ん?」

「おまえに謝らなあかんことがある」

「何や?」

「おまえをこの世界に誘った時、オレは……」

「ええよ、皆まで言うな! わかってる」

「……ジュン」

「過去のことはどうでもええ。今、おまえは本気でやってる。本気でてっぺん目指してる。そして、オレはその隣におる。それだけで充分や」

「……」

「偉い人が言うてたがな。『過去より今が大切』って。ええ言葉や。感動する」

「……誰が言うたんやった? 信長? 秀吉?」

「アホか! オレや。オレやがな、ジュン様や!」

「アホ!」

 珍しくタケシの方がジュンに突っ込んだ。頭をはたく。

「そんな大した言葉とちゃうし。言い古された言葉やんけ!」

「うるさいわ!」

 しばらく二人で笑った。やはり、ジュンが相方でよかったとタケシは思った。

「でもな、ジュン」

「ん?」

「オレの相方はおまえしかおらん。おまえ以外には考えられへん。だから、この世界に誘ったんや」

「わかってるって。もうええがな」

「……うん」

「おまえ、男好きとちゃうやろな?」

「どうかな?」

「ええっ!」

 ジュンが逃げ出した。


 タケシは、実家にグランプリのチケットを送った。愛想も何もない茶封筒にチケットを入れただけのもの。両親への手紙も添えようかと思ったが、照れくさいのでやめた。それに、一応自分は勘当されている身だ。

 ただ、チケットは二枚送ったので、両親揃って来てほしいというタケシの想いは伝わったはずだ。

 だが、両親から連絡が来ることはなかった。アルバイトだけで生計を立てている時期に、タケシは仕送りを断ったため、母親からの定期便はなくなっていたが、それでも時々連絡はくれていた。だが、その母親からも、電話や手紙は来なかった。

 もしかしたら、父親が先に封筒を見つけ、破り捨てたのかもしれない。そんなことを考えながらも、まさかそこまでしないだろうとも思った。

 とはいえ、もう五年も父親と会っていないし、電話で話したこともない。完全な断絶状態だ。だから、今現在、父親がタケシに対し、どんな感情を抱いているのかわからない。

 ただ、タケシの方は、少し意識に変化が生まれていた。

 父親に反発し、この世界に入った。最初は、父親への意地だけで芸人をやっていた。うまくいかない時には、父親を憎んだり、恨んだりしたこともあった。逆恨みだ。だが、今ではそんな気持ちはまったくなかった。

 まだ、入口に立ったばかりだ。だから、今後売れるかどうかはわからない。ただ、なかなか芽が出なかったとしても、誰かを恨むことはないし、憎むこともない。誰かのせいにすることもない。売れなくても、売れるまでしつこく食らいついていくという覚悟ができていた。そう、覚悟だ。

 父親に対しては、この世界に入るきっかけを作ってくれたと、今では感謝している。父親とタケシとの板ばさみになりながらも、陰ながら応援してくれた母親にも感謝している。だからタケシは、チケットを二枚送ったのだ。

 だが、連絡がない。

 タケシは、二人には晴れの舞台を観てほしかった。だから、グランプリ当日の今朝、迷った末、実家に電話をかけた。実家にかけるなんて、勘当されてからはじめてのことだ。いつも母親の携帯だった。実家にかけて、父親が出たらと思うと、かけられなかった。

 だが、父親が出ても構わない、はっきりと用件を言おうと思い、かけた。だが、誰も電話に出ない。長いコールの末、留守番電話に繋がった。

 もしかしたら、まだ少し早いが、グランプリの会場に向け出発したのかと思い、母親の携帯にかけてみる。長いコール。出ない。何となくだが嫌な予感がした。不安になった。

 やがて、ようやく母が出た。ホッとする。だが、やけにヒソヒソ声だった。また、不安になる。それを振り払うように、敢えて陽気な声を出した。

「おかん、今日のグランプリ、観に来てくれるんか? チケット届いてるやろ?」

「……ごめん、無理やわ」

 やけに沈んだ声で答える。

「……そうか。親父、まだ怒ってるんか……」

 単純にそう思った。

「いや、それがな……あんた、今、喋っててもええんか?」

「大丈夫や。今、まだアパートや」

「そうか……あのな、お父さん……危篤なんや」

 思ってもみない母親の言葉に戸惑う。

「……危篤て……なんでや?」

「うん。去年、胃癌が見つかってな……手術したけど、あちこち転移して……呼吸器にもな……その関係で肺炎起こして、今朝方意識失って……」

 知らなかった。何も知らなかった。去年から病気と闘っていたなんて……。

「なんで、言うてくれへんかったんや!」

 さすがに気が動転していた。声が尖ってしまう。

「……お父さんが言うなって……絶対言うなって……もし、自分がどんな状態になっても絶対言うなって……死んだら言うたらええって……だから、ほんまは今もこんな話、したらあかんねん。お母さん、芸人の親失格やな。これから大事な舞台やのに……」

「……いや」

 芸人の親でもあるが、二十三歳の若者の親でもある。父親が危篤なのだ。息子に教えて当然だと思う。

「それで、親父はヤバイんか?」

「お医者さんは、まだ心臓が動いていることが奇跡やって……」

「……そうか」

 親父は闘っている。親父は、生きているうちは芸人になることを認めないと言った。だが、死んだら認められるというものでもないだろう。それなら、生きているうちに認めさせたい。そのためにも、親父が闘っているように、オレも舞台で闘ってやる。

「舞台終わったら、すぐに帰る。今すぐそっちへ行きたいけど、オレ、芸人やから。芸人やから、たとえ親が死んでも舞台に……」

「わかってる。頑張ってな!」

「うん、おおきに……親父にも……」

「えっ?」

「頑張れって言うといて。頑固親父が簡単にくたばるなって」

「わかった」

 母が涙声になる。タケシは電話を切った。


 ジュンには何も告げず、グランプリ会場へ向かい、そして予選の舞台へ立った。

 だが、アドリブで父親のことに少し触れてしまった。当然、ジュンはいつもと違うタケシに気づいた。

 タケシは、ジュンに父親のことを打ち明けた。ジュンはすぐに病院へ行けと言ったが、断った。いつの間にか、ジュンの熱さをタケシが凌いでいた。タケシは本物の芸人になっていた。

 と、そこへ決勝へ残ったとADが告げにきた。この後、決勝戦が行われる。

「よっしゃ!」

 ハイタッチを交わす。予選を通過する自信はあったが、それでも嬉しかった。ホッとしていた。

 何が起きるかわからないからだ。漫才は、スポーツのように、勝ち負けの定義がハッキリしているわけではない。審査員の匙加減ひとつだ。好みもある。ただ、そういうことも含め、二人は自信を持っていた。

「ちょっと電話してくるわ」

 ジュンに断り、控え室を出る。ジュンの両親と兄たちは今日も客席にいる。いち早く、決勝に残ったことを知ったはずだ。

 母の携帯にかける。すぐにつながった。

「おかん、決勝に残ったぞ!」

 声が弾んでいるのが自分でもわかった。

「おめでとう。病室で観てた」

 母も声が弾んでいる。

「そうか……親父は?」

「うん……それがな」

「え? 何や!」

 嫌な予感がした。だが、違った。

「お父さん、あんたらのネタ中、『ウン、ウン』って唸りだして……それまでピクリともせんかったのに」

「……」

「びっくりして、先生呼びに行こうかと思ったら……お父さん……笑ってた」

 母が泣き声になる。

「……親父、許してくれたんかな」

「もう、とっくに許してるわ!」

 母がきっぱりとした口調で言う。

「えっ?」

「最初は本気で反対してた。勘当も本気やった。何でかわかるか?」

「……」

「それは、あんたが本気やないってわかってたからや。覚悟がないことにも気づいてた」

「……」

「小さい頃から、ただ反抗したくて、野球とかバスケとか、柔道とかやりたいって言うたのと同じで、今度はお笑いかって、最初は呆れてた」

 確かにそのとおりだ。何でもよかったのだ。父の呪縛から逃れるためなら。

「急に、老人ホームとか、刑務所とかの慰問の仕事入ったやろ?」

「え? ああ、入った、入った。何で知ってるんや?」

「あれ、お父さんが会社に頼んだんや。それも、自分で慰問先見つけてきて、息子たちをここへ行かしてやってくれって、頭下げに行ったんや」

「……な、なんで……」

 確かに不自然だった。単発で三本だけ入った。

「お父さんは、別に何でもよかったんや。あんたが本気で取り組むもんやったら」

「……本気」

「よう思い出してみ。お父さん、一回もあんたに官僚になれって命令したことないやろ?」

 確かにそうだ。言われたことはない。勉強しろと厳しく言われたが、そう言えば、一度も官僚になれと具体的に言われたことはない。

「勉強しろって厳しく言うてたのは、やって損はせんからや。お父さんも大阪人やから、損することはせんし、させへん」

 母が笑う。確かにそうだ。あの頃、勉強したことは無駄にはなっていない。芸人を「本気」で志すために色々な勉強をした。日本語の勉強もし直した。その際、昔覚えたことわざや、日本語独特の言い回しが甦ってきて、役に立った。英単語も同様だ。ことわざや英単語のネタも作ることができた。

 確かに損はしていない。

「お父さん言うてた。『自分は官僚になって、この国の人たちを幸せにすることばかりを考えてたけど、でも、お笑いも人を幸せにすることができるんやな。そういう方法もあるんやな。ええ仕事やな』って」

「……」

 不意に涙が溢れそうになった。だが、こらえた。舞台の前に泣くわけにはいかない。泣いた後の顔で舞台に立てば、客が引く。

「慰問先を自分で見つけてきて、会社に頭を下げに行ったのは、あんたが芸人を続けてたからや。それまでみたいに、三日坊主と違ったからや」

「……」

 何度もやめようと思った。ジュンともケンカした。でも、やめられなかった。やめずによかったと思う。

 思えば、あの老人ホームや刑務所、養護施設への慰問があったからこそ、今の二人がある。タケシは、親のありがたみを強く感じていた。

 ADが走って呼びにきた。いよいよ決勝の舞台だ。

「おかん、今から決勝や。ちょっくら行ってくるわ!」

「うん、お父さんと観てるからな」

「おう!」

 舞台袖まで走ると、ジュンがしびれを切らして待っていた。だがジュンは何も言わず、ただ、右拳を突き出してくる。タケシも右手を握りしめ、ジュンの拳にタッチする。

 舞台へ踊り出た。


 ADがカンペに残り時間を表示する。あと一分。精一杯やった。力を出し切った。笑いもとった。悔いはない。

 いや、グランプリを獲れなければ悔いは残るかもしれない。でも、父もどうやら許してくれたようだし、そういう意味では悔いはない。

 と、その時だった。どこからか、父の笑い声が聞こえた気がした。

「!」

 久しぶりに聞く父の笑い声。空耳だと思った。だが、ハッキリと耳に入ってきた。

 その瞬間、父は逝った……そう思った。

 一瞬間ができる。

 しかし、それは相方のジュンにだけわかる間であり、客は気づいていない。客は笑い続けている。

 思わず涙が出そうになる。だが、タケシはこらえた。芸人が舞台で泣いてどうする! 客を引かせてどうする! 身内が死んだくらいで泣いてどうする! 芸人は身内が死んでも客を笑わせなければならない! その死を笑いにしてでも。それが仕事だ!

 ジュンがタケシのボケに突っ込み、終わろうとする。だが、タケシは続けた。

「ぼくの父親はね、イボ痔なんですよ。イボ痔……いや、脱肛というんですか。出てくるやつですわ。もう何年も前になりますけど、風呂あがりに脱衣所でモジモジしてるんですよね。いつも厳しくて、威厳たっぷりの親父が。あ、親父は見かけによらず、意外と怖がりで、手術をするのが嫌やったんですわ。ぼくは気づかないフリしてじっと見てました。親父は出てきた痔を一生懸命押し込んでいました。かなり痛かったと思います。顔が引きつってましたから。で、ぼくが音を立てて近づいていったんですね、そしたら親父、『うーん、何かこのフンドシ、しっくりこんなあ』って、フンドシを広げて眺めだしたんです。バレバレやって。ていうか、今時フンドシって!」

 最後に下品なネタだと思ったが、父に贈った。父のことを舞台で言いたかった。何でもよかったのだが、父の秘密を暴露してやった。死んだばかりの身内の恥部をもネタにする。それが芸人だ。

 客は、漫才の筋と離れた突然の話題に戸惑っている。ADは持ち時間終了と書いたカンペを激しく振っていた。時間オーバーは減点の対象になる。それが原因でグランプリを逃したらジュンに申し訳ない。

 タケシは、そのまま舞台を降りようとした。だが、ジュンが、突然のタケシのアドリブに食いついてきた。

「いやあ、やっぱり血は争えませんわ」

「……ん? 何がやねん」

 タケシが一瞬戸惑う。ジュンの突っ込みにドキッとする。嫌な予感……。

 戸惑うタケシの尻をジュンが突然蹴った。

「痛っ!」

 飛び上がりそうな痛みに、タケシは本当に飛び上がっていた。

「ね、お客さん、こいつも脱肛なんですわ」

 客席に今日一番の笑いが広がる。

「お、おまえ……なんで?」

「オレは相方やぞ。高校の時、授業中に手を挙げて、『先生、持病のイボ痔が出てきたので、トイレへ行って押し込んできていいですか!』って宣言したやないか」

「いや、あれは、クラスの雰囲気が沈んでたから、ちょっとしたギャグのつもりで……」

「嘘つけ! オレはこっそりおまえについていったんや。そしたらおまえ、よっぽど痛かったんか、トイレの個室のドアを開けたまま、必死で押し込んでたやんけ!」

「お、おまえ、見てたんか!」

「見てた、見てた!」

「や、やられた!」

 客席は大爆笑だった。

「やっぱり親子や。脱肛親子やけど、最高の親子や! みなさん、最高の親子ですよ!」

 ジュンが最後を締めた。

 タケシはジュンを相方にしてよかったとつくづく思った。それにしても、高校時代の一件を今まで何も言わず、こんな舞台で出すなんて……やっぱりジュンは最高の相方だった。

 そして思った。この道を選んで本当によかったと。 

 舞台を降りると、耳元で声がした。

「下品や。何も最期の最期に、全国ネットで秘密暴露することないやろ、アホ!」

 芸人になることを許してくれた、父のやさしい声だった。


                                   (了)

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できそこない芸人 登美丘 丈 @tommyjoe

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