中編

 生まれてはじめて父親に殴られ、勘当されたタケシは、ジュンとアルバイトをしながらワンルームのマンションを借りた。今もそこに二人で住んでいる。

 ずっとタケシの味方をしてくれていた母親は、時々お金を送ってくれた。ありがたかったが、だが、それは一円も使わず、残してある。なぜなら、ジュンは身内からの仕送り援助を一切断っていたからだ。ジュンは完全に退路を断っていた。ジュンは覚悟を決めているのに、自分だけ親に甘えるわけにはいかない、そう思ったからだ。

 だが、そんなジュンに、タケシは時々気後れすることがあった。ジュンの本気度に驚くこともあった。お笑いの世界に誘ったのは自分の方なのに……。

 そもそも父親への反発から芸人を目指したタケシだったから、それに対して深い想いなどなかった。本当に何でもよかったのだ。とにかく、父親の敷いたレールに乗るのが嫌だっただけなのだ。

 つまり、この世界で命を懸けて生きていくという覚悟ができていなかったのだ。


 ジュンに引っ張られるように、タケシはお笑いの世界で時を過ごした。養成所で講義を受け、ネタを作り、ネタ合わせをし、ネタ見せをし、篩いにかけられる。

 毎週のように、養成所内ではコンテストのようなものがあり、残ったコンビは劇場に出るチャンスをもらえる。そして劇場でウケれば、テレビやラジオに呼ばれる。

 だが、タケシたちがチャンスを手にすることはなかった。

 タケシたちはなかなか芽が出なかった。ジュンは、粘り強く、長い目で芸人としての将来を見据えているようだったが、タケシはそうではなかった。燻り続ける自分たちの姿に嫌悪感を覚えることさえあった。

 幼い頃から、まわりの人間を笑わせたり、楽しませたりすることが好きだった。だから、自信があったのは事実だ。しかし、まったく通用しない。まったくウケない。タケシは、それでも自分の才能を疑うことはせず、笑わない奴が悪いのだと考えていた。


 そんなある日、突然舞台へ出ることになった。会社が、増え続ける若手芸人にもっとチャンスを与えようと、若手芸人中心の劇場をつくったのだ。

 タケシは張り切った。

 若手のお笑い芸人の中には、テレビやラジオで活躍する実力のある者たちや、笑いの実力はともかく、そのルックスからアイドル並の人気を誇る者もいて、それ目当ての若い客が詰め掛けるはずだ。そして、一般の劇場の客のように年齢層が高くないから、自分たちのネタは絶対にウケるはずだとタケシは思ったのだ。

 だが、結果は散々だった。

 一週間出る予定だったが、三日で降ろされた。勢い込んでネタを披露したが、客は自分たちの目当ての芸人ではないからか、最初こそタケシたちの方を見ているものの、すぐに下を向いたり、隣の人間と喋ったりした。中には席を立つ者もいた。

 タケシは次第に舞台に上がることが嫌になっていった。バカな客を相手にするのに辟易としていた。だから、これを一生の仕事にしていくんだという覚悟がまったく生まれてこなかった。

 そういった複雑な想いは、ネタ作りや舞台でのパフォーマンスにも出るのだろう、再びもらったチャンスにも、タケシたちは応えられず、燻り続けた。

 もちろん、タケシの中途半端な気持ちは、相方のジュンが真っ先に気づいていた。だから、しょっちゅうケンカになった。


「だから大学行けって言うたんや!」

「なんや、それ! おまえはそんな生半可な気持ちで芸人目指したんか!」

「うるさい! どうせオレらには無理なんや。まったくウケへんやないか!」

「アホか! ウケへんかったらウケるように稽古したらええやないか! ウケへんからって、客にキレてどないすんねん!」

「笑わへん客が悪いんや! オレらの才能に気づかん世間が悪いんや!」

「アホ! 客のせいにするな! ウケへんのはオレらのせいや。オレらの力不足や」

「ちゃうわ! ちょっとテレビに出てチヤホヤされてるコンビや、ルックスだけで売ってるチャラチャラしたコンビ目当ての、ミーハーな客にはほんまのお笑いがわからんのや!」

「ちゃう! 実力や。オレらに力がないからウケへんのや!」

「……」

「実際、オレらと同じ無名のコンビがウケて、人気出てきてるやないか! あいつら、必死で稽古してたの、タケシも知ってるやろ! おもろい奴がウケるんや!」

「……」

「それに、テレビやラジオに出ている奴らは、実力があるから出てるんや。ルックスが良くて人気がある奴らも、それだけで人気が出てるわけじゃないことに、おまえも気づいてるはずや!」

「ほな、これ以上どうせえっちゅうねん!」

「本気出せや! もっと熱くなれや!」

「うっとうしいねん! 何が『熱くなれや!』や! 暑苦しいねん! ああ、もう、やめや! 解散や! おまえ一人でやってくれ!」


 いつも同じ展開だった。だが、やめることはなかった。なぜなら、そんな展開になるたび、ジュンが必ず、「おまえがやめるならオレもやめる。おまえがいるからオレがいるんや。オレはツッコミや。ツッコミはボケがあってこそ成立する。オレはおまえのボケが好きなんや。だから、この世界に誘ってくれた時、泣きたいほど嬉しかったんや。オレ一人でやるなんてあり得ない」と言うからだ。

 ジュンはこうも言った。「おまえが本気を出したら、オレたちはこんなもんやない」と。

 ジュンに言われた直後は、タケシは本気で客を笑わせにかかる。だが、やはりウケない。苛々する。時には客に食ってかかることもあった。ネタの途中で舞台を降りたこともある。その時は、ジュンが持ち時間いっぱいまで一人で舞台に残り、ひたすら謝り続けた。

 それでもジュンはタケシの元を去らなかった。タケシはそんなジュンにも苛々した。

「本気出しても客は笑わん。やっぱり才能ないんや。オレらがウケてたのは、学校の中だけや。身内ネタや。所詮、素人の芸やったんや。やめる。おまえもやめろ!」

「おまえがやめたらやめる」

「わかった、やめたる!」

 これも、いつも同じ展開だった。

 それでもタケシはなぜかやめることができなかった。

 ジュンをこの世界に誘ったのは自分だ。そしてジュンは退路を断って芸人になった。ジュンは相方の前に親友だ。そのジュンを裏切れないという想いが強かった。

 だが、それだけではなかった。ジュンが、「本気を出せ!」と言ったように、まだ自分自身、本気を出していないような気がしていた。

 ジュンは、「熱くなれ!」とも言った。確かに熱くなってはいない。タケシに言わせれば、熱くなりようがない、となる。そして、本気になんてなれない、と。

 いや、どうやって本気を出したらいいのか、熱くなればいいのか、タケシにはわからなかった。

 それもこれも、自身の「覚悟」のなさに原因があることに、タケシは気づいていたが、どうしようもなかった。

 ただ、苛々だけが募っていった。


 舞台を途中で降りたり、客に食ってかかるなど、傍若無人な振る舞いの結果、タケシたちは、劇場での仕事がついになくなってしまった。

 まったく仕事がない日々。スケジュール帳は真っ白、いや、アルバイトの予定ばかりが並んでいた。

 タケシは道路工事のガードマン。ジュンは、居酒屋の皿洗いだった。タケシはバイト先からの強い勧めで、主任試験を受け、合格していた。アルバイトながら主任に昇格。時給も上がった。バイト先からは、アルバイトではなく、契約社員にならないかと誘いを受けるまでになっていた。

 芸人かアルバイトか、どちらが本業かわからない生活が長い間続いた。

 タケシたちクラスの若手だと、劇場や営業の仕事が飛び飛びで入ったりして、アルバイトも中途半端にしかできず、少ないギャラとバイト代ではなかなか生活できないことが常なのだが、二人の場合は本業の仕事が全くなかったため、アルバイト代だけで充分生活ができた。

 タケシは、アルバイト生活に、わりと充実感を覚えていた。バイト先での評判も良く、大切にしてもらえることから、これを本業にしてもいいかなと考えることもあった。ジュンも職場からの評判が良いようで、職場の飲み会やイベントに誘われているようだった。

 二人がネタ合わせや、今後のことについて話す機会はどんどん減っていった。アルバイトのシフトの都合で、一緒に暮らしていても顔を会わせない日が多くなっていった。

 タケシは、そろそろ別に住もうかと、ジュンに提案しようと思っていた。一緒に住んだのは、もちろんお金がなかったこともあるが、ネタを作ったり、ネタ合わせをしたり、色々と打ち合わせをするのに便利だったからだ。 

 だが、擦れ違いの日々が、その利便性をなくしていた。もはや同居に意味がないと考えていた。

 タケシは、お笑いを志し、そして散っていった先輩たちは、こんなふうに現実と夢の狭間で振り子のように揺られた結果、磁石で現実に吸い付くように引っ張られ、去っていったのだろうかと思った。

 タケシは、別々に住むという話をジュンにした。ジュンは反対した。怒り出した。

「ふざけるな! おまえ、この世界やめるつもりか!」

「なんでそうなるんや! 別々に住むだけの話やないか!」

「アホか! 一緒に住んでても、ネタ合わせのひとつもできひんのやぞ!」

「しゃあないがな。芸人としての仕事がないんやから。ネタ合わせしてもそれを披露する場がない。だからバイトせなあかん。バイトせな、家賃も払われへんがな!」

「……わかった。ほな、オレはバイトを減らす。バイト先に頼まれてシフトパンパンに入れてたけど、減らすわ。おまえも減らせ!」

「……」

「ちょっとぐらい減らしても生活できる。減らした分をネタ合わせに充てる。また絶対チャンスはまわってくる。その時のためにネタを作りあげとくんや!」

「……」

 タケシは正直減らしたくはなかった。以前と同じくらいにまで減らしても、生活費に困ることはないだろう。だが、今やタケシは、バイト先から信頼されている。アルバイトでありながら、主任という肩書きがあり、バイトの部下もいる。減らして信頼を損ねたくないという想いがあった。

「なんや、減らされへんのか? おまえは、ガードマンとして生きていく覚悟ができたっちゅうことか?」

「……覚悟」

「そや、覚悟や!」

「……」

「芸人として生きていく覚悟ができひんかったくせに……ガードマンとして生きていく覚悟ができたんか?」

「おまえ、もしかして、ガードマンをバカにしてるんか!」

 たくさんの同僚や上司の顔が浮かび、思わず怒鳴っていた。ジュンはそんな人間ではないとわかっているのに。

「アホか! してないわい! おまえが本気でガードマンになるんやったら、オレは何も言わん。いや、祝福する。人間、覚悟を持って仕事に取り組めるなんて、素晴らしいことやからな」

「……」

「せやけど、もしそうでないんやったら、オレはおまえを軽蔑する。それは、逃げてるだけのことやからな」

「……」

 わからなかった。ジュンに言われ、改めて考えてみたが、結論が出なかった。

 アルバイト先からは、期待され、信頼されている。居心地がいい。上司も同僚も信用できる人たちばかりだ。それに、何より自分が必要とされていることがよくわかる。

 ただ、覚悟があるのかと問われれば、わからないと答えるしかない。

 芸人の世界に対する覚悟も同様だ。わからない。いや、そんなことより、ジュンに覚悟の無さを見透かされていたことがショックだった。同時に、それでも自分の元を去らなかったジュンに気後れのようなものを感じていた。

 ここまでやってきて、それでも覚悟を決められないのなら、いっそ本当に辞めてしまおうかと何度も考えた。だが、それもできない。

 父親への反発と反抗からこの世界に入ったが、それでも、どこか断ちがたいものがあった。

 結局、ひとまず別居は棚上げとし、互いに時間を作ることを約束した。


 だが、相変わらず仕事は入らなかった。二人で会社へ行き、営業の人間に談判したが、まわってくる仕事はなかった。

 先が見えない中の、二人の打ち合わせはギスギスしたものとなった。

 タケシは、ネタ合わせをしていても力が入らなかった。

 そんなタケシにジュンは、

「こんな時こそ、来たるべき日のために、力を蓄えとかなあかんのや。気持ち込めてやれ!」

 と怒った。

 相方に怒られると、タケシもカチンとくる。

「うるさいわ。仕事ないのに、気持ち込められるわけないやろ! このまま一生、仕事ないかもしれへんのやぞ!」

「そんなことない。オレらが一生懸命やってたら、笑いの神様はちゃんと見てくれてて、きっとチャンスをくれるはずや!」

「へぇ、おまえ、いつから神様を信じるようになったんや。何か悪い宗教でもやってるんとちゃうか!」

「アホか! ものの例えや。努力は裏切らんという意味や」

「努力なあ……努力だけではあかんやろ。オレらの先輩や同期で一生懸命努力しているコンビがどれだけやめていった? こうしている間にも、この世界から足洗う芸人がおるんやぞ!」

「もちろん、運やタイミングとか、色々あるやろう。せやけど、まず努力がなければ何も生まれへん」

「……」

 ジュンは熱かった。のんびりした性格のジュンが、これほど熱くなることがタケシは不思議で仕方なかった。

 もちろん、笑いのセンスや突っ込みの実力を評価して、タケシはジュンをこの世界に誘った。だが、ある側面では、細かいことにこだわらないジュンのことだから、この世界で頭打ちになった時、「ほな、別のことでも始めよか」と、頭を切り替えると思ったからこそ、ジュンを誘ったのだ。だから最初、ジュンには大学へ進めと言ったのだ。

 しかし、ジュンは退路を断ち、この世界に入った。そして、時には熱く、また時には冷静にタケシを宥め、説得し、ここまでやってきた。

 タケシは、なぜこんなにジュンがお笑いに対し執着するのかわからなかった。自分が知っている学生時代のジュンなら、とっくに別の道に進んでいると思う。しかし、ジュンは熱く、まったく諦めようとしない。

 タケシは、そんなジュンに戸惑い、苛々し、反発した。

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