第5話

 思い出に浸ってそのはがきの毛虫を眺めていると、背筋を正す厳しい北風が僕を現実世界に引き戻した。

 まだ僕とさおりとの交際は続いているが、さおりが同窓会の幹事をしているなんて、知らなかった。同窓会で雄太とさおりと3人揃ったら、このラブレターの毛虫の話をしよう、と僕は一人頬を緩めた。

 はがきをカバンにしまってから、僕は一度自分の部屋――アパートの203号室でパーカーからスーツに着替え、再び外に出ると、車に乗って、ネットで調べた有名なジュエリーショップに向かった。少し鼓動が早いのが自分でも分かる。今から緊張してどうするんだ、と苦笑した。給料の3か月分。それが婚約指輪を買う際の鉄の掟だ。とすると、手取りでいくらだから、と運転しながら暗算でざっくりそろばんを弾いた。


 コインパーキングに車を止めて、スマホで地図を確認しながら、歩みを進める。

 例のジュエリーショップの前に辿り着いて、一度通り過ぎた。分かっている。僕は場違いだ。本来は僕如きが訪れて良い場所ではない。その自覚があったから通り過ぎた。だが、そうも言っていられないのも分かっている。虎穴に入らずんば虎子を得ず。僕は再びジュエリーショップに戻って来て、後ろから絞殺を企む殺人犯のように、ゆっくりと忍び足で近づいた。そして、また通り過ぎた。

 僕が入店できたのはそれから5分ほど後であった。


 焦りと羞恥に身を焦がされる思いで店内を徘徊していたところを、女性の店員に捕まった。「婚約指輪をお探しですか」

「ええ、まぁ」と曖昧で冴えない返答をする僕に、「でしたら、こちらの――」と店員が説明を開始する。なんだかテレビのシーエムみたいだな、とぼんやり考えていると、店員の商品説明よりも、隣で別の店員に苦情を叩きつける女性の声の方が鮮明に耳に入ってきた。

「お手数をおかけしますが、こちらにサインを書き直していただいて――」と店員が女性にペコペコ頭を下げて何かを懇願していた。女性はというと、怒髪冠を衝く。物凄い剣幕で憤慨している。目は吊り上がり、眼光鋭く店員を睨みつけていた。

「嫌よ。なんで私が」と少し顎を上げて店員を見下すように見据えている。

「申し訳ございません。何卒、ご協力をお願い致します」

「だから嫌だって言ってんの。何でなんにも間違えていない私が、書き直さなきゃならないわけ?」

 女性がそう言った時、僕の頭の中で何か小さな光が弾ける感覚があった。それは瞬く間に大きくなり、やがて一つの形を成した。そして、その瞬間血の気が引いた。


 そんな、まさか。

 もはや店員の説明も、隣の苦情も、僕の耳には入ってこなかった。

もう一度僕は頭の中で、組み上げた仮説を整理する。


 何故、毛虫で名前を隠していたのか。

 何故、最後の手紙は毛虫がいなかったのか。

 何故、封筒の色が薄黄色に変わったのか。

 何故、最後の手紙を読んで違和感を感じたのか。


 間違えていないのなら、直す必要はない。その通りだ。つまり2通目までは間違っていたのだ。

 僕は、何が、と自問し、名前が、と自答する。彼女にとって3通目こそが本物であって2通目まではそうじゃなかったんだ。だから名前を毛虫で塗り潰した。そして3通目を使って、それまでの2通を自分の物にした。もともと差出人は2人いて、3通のラブレターは2通と1通だったのだ。


「お客様?」と店員に声を掛けられ、はっと顔を上げた。

「これはいかがですか1カラットの大ぶりのダイヤがとっても素敵ですよね」


 僕はいつの間にか並べられていた候補の指輪の内の1つを震える手で指さして「これで良いです」とかろうじて告げた。

 確証はない。問いただしても意味がないのはよく分かっていた。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それで良い。真実を確定させなければ、僕はまだかろうじてさおりと幸せな家庭を築ける気がした。

 同窓会は欠席しよう。僕は二度とあの毛虫の手紙については考えないし、話題にもあげないと決めた。


 その8か月後、僕はさおりと結婚した。

 さおりは僕に尽くしてくれて、とても良い嫁さんだ。それは紛れもなく「幸せな家庭」と言えた。

 だけど、それはあるいは訂正すべき紛い物——偽りの幸せなのかもしれない。

 今も僕の机の引き出しには、3通のラブレターと、さおりへの疑念とがひとまとめになり、ひっそりと蠢いている。



おわり

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恋着の蟲 途上の土 @87268726

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