ピアノソナタ

グレード・モルヴェリッチ

ピアノソナタ


   1


 日没後、表通りの脇に停車させた自家用車の中で一人、大学三年の冬に消えたはずの旧友と、本当に会おうとする気が自分にはないことを、佐々木昇は自覚し始めていた。取り引き先からの帰り、このまま高校まで行ってみるつもりだったものの、まだ十九時台であることをスマートフォンで確認しつつ、昇は映画研究会時代の友達を呼び出し、近くの、大衆用のイタリアンレストランに落ち着くことを自分に許す。

「やあ。待った?」

 まだ垢抜けしていない頃の彼女を彷彿とさせる、薄手のコート姿の緑川遥香は、奥のテーブル席に座り、ドリンクバーのカルピスを先に飲んでいた昇を目敏く見つけ、店内の通路を小走りに、手を軽く振りながら近づいてきた。

「まあね。でも、急に呼び出したのはこっちだから」緩めたネクタイを締め直すことはもうせず、カルピス入りのグラスを手から離して彼はそう言う。

「いつものことじゃん。座っていい?」

「訊くまでもないよ。仕事は終わったの?」

 向かいのソファー席に腰を下ろした緑川遥香の、簡単に整えてきた、そんな様子だと昇には見える、艶のあるショートカットの黒い髪を眺めながら、彼は遥香が以前のように、何も持ってきていないことを確かめた。彼女は大学を卒業してから、ネット上でフリーライターのような仕事をもう一年以上は続けているとのことだが、昇がその文章を目にしたことは、幸か不幸か一度もない。「それこそ訊くまでもないよ。ふふ、昇くん、今日はどうしてまた? 何か面白い映画の、リヴァイヴァル上映でもやってたっけ?」

「やってないよ、多分」気怠そうに答えながら、七総薫のことを話すべきかどうか、昇は考えあぐねていた。緑川遥香は学生だった頃から、ある一定以上の評価が定まったと思われる映画を中心に観ることにしており、しかしどちらかと言えば、テレビ画面やパソコンでよりも劇場の大画面で楽しみたい派で、そうなると必然的に、リヴァイヴァル上映を頼りにすることになるのだった。そして、今さら大抵の映画館のリヴァイヴァルで、彼女が観ていないようなものもほとんどないのだから、それをわざわざこの場で持ち出すというのは、どうしても昇の口から先に話してほしいことがあるという考えを、暗示しているように思わせる。

 俺にはそれを、もう話す気力はない。昇はそう思った。そして七総のことを話す気も失せてしまったとすれば、一体何のために今ここで、彼女と夕食を共にしようとしているのか、彼には分からなかった。

『帰りにいつも高校の前を通るもんだからさ、いつも校舎の方を見つめてしまうことがあるんだけど、三階か、もしかしたら四階だったかな、そのガラス窓の向こうに、ナナの顔が見えたんだよ。多分、見間違いだとは思うけど。第一あの距離で、生徒達の顔がぼんやりとでも、分かるわけがないんだよな』

 昇や薫と同じ高校、同じクラスだったが、二人とは別の、都内の私立大学に進み、現在は昇と同じ地元で、学習塾の教室長として働いている水野直紀が、そのメッセージを送ってきたのはまだ前日のことだ。「そういえば昨日の夜ようやく、緑川さんが言ってた松山善三監督の、『名もなく貧しく美しく』観たよ」緑川遥香の機嫌を窺うように、昇は言った。昨日本当に観たのはヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』だったが、それを言うと、薫のことに触れなければいけないような気がしていた。「いいじゃん、ありがとう。感動した?」「感動したけど、疲れた。というか、とても悲しくなったよ」「松山善三なら、監督じゃないけど、『乱れる』はどう? あれも高峰秀子と、加山雄三と、あとラストがいいんだよね」「それはまだだったなあ。いつか観てみるよ」元々、俺は映画なんて特に好きでもなかったんだ、そんな思いが口調に滲み出ていることを感じつつ、彼は再び、薫について考えた。

 大学三年の三月初め、それまで互いの一人暮らしの部屋を行き来していたのが、突然音信不通になり、昇や同じ映画研究会のメンバーが電話しても、家を訪問しても一切反応が無くなり、しかし研究室の、オンライン上での卒論報告会には出ていたとの証言もありどうやら生きてはいるようで、友人や後輩達の間では、あの人のことはもう忘れよう、自分達に追求し続ける責任など、少しもないのだから。昇以外の全員がそう思っているようだった七総薫の現在の居場所、それを昇が確かめるためには、もう少し、薫が一方的に思いを寄せていたらしい相手の緑川遥香に話すというだけでも、期間が必要なようだった。

「何頼んでもいい? 私、今日お昼何にも食べてなくて、死ぬぐらいお腹空いてるんだよね」

「どうぞ、お好きに」

 ほとんど投げやりな気持ちで、昇はそう言っていた。


   2


 H姫の恋は阻止しなければいけない。七総薫は自らの恋愛嫌いを自覚すると共に、はっきりそう決意した。

 薫が小学校に入学する年、父の兄が離婚し、以来十年間、伯父とその娘達が住む家に父と行くたび、元妻に関する愚痴を聞かされ続けた。母の姉は大学卒業後、派遣社員を辞めてから、ドイツを中心とするヨーロッパに留学していたのだが、そこで知り合ったドイツ系の年上の男と結婚。子供も生まれた。だが、結婚は名目上のものだけであったらしく、伯母は留学を終えてハーフの息子と共に帰国、夫はコソヴォ紛争に伴う諸事で、ほとんど来日できる機会がなく、薫の祖父母の家で暮らしている伯母はそれにより、ストレスを少しずつ溜め込んでいるようだった。そのように薫は聞いている。

 父方の祖母が入院し始めた約五年前辺りから、母のいる時によく家を訪れていた祖父は、祖母と伯母からこの頃邪険にされつつあると言い、趣味のバドミントンや友達との囲碁を、満足にすることができなくなっていると自分の次女に訴えていた。「小人がね、ベッドの下を、通っていくところを見たんだ」その後、前立腺癌が原因で入院した祖父は、見舞いに行くと時々そんなことを言い、薫が高一になった年の初冬に死んだ。父方の祖母は、そのちょうど一年前に死んでいた。

 しかしそれら以前に、そして何よりも重要な出来事と言えるのは、六歳の頃、幼稚園のお遊戯会で『親指姫』をやることになり、以前から可愛いと思っていたはずの、白井麻友が親指姫役をやると知って、生来目立ちたがり屋の薫は、王子役を希望してそれが叶った後、給食の時間、目の前の席にいた彼女に、自分のことを「何番目に好き?」と、好きなのを前提に押し付けがましくも訊ね、その結果、困惑したらしい彼女の、「うーんと、三番目くらいかな。一番好きなのは、森本くん」という返答を得たことだったのかもしれない。つまり、これらやその他の全てが動かしがたい要因となって、薫は恋愛嫌いになったのだ。

 この世界に住む、物心のついた人間の中に、純粋な者など一人もおらず、人生のあらゆる局面で例外なしに、絶え間なくそれぞれの策略を巡らせている。小学生時代に虐められたこと、中学生時の勉強・部活面での友人達からの嫉妬、そして高校生、クラスメートで委員長だった増野祐一が退学した、間接的な原因であるはずの栗林日奈がおそらくは直接のきっかけとなり、薫のその固定観念は決定的となった。


「ナナフサは、もう志望大学は決まってたりするのかな」

「東大です」

 一年時の初め、放課後の進路相談の際、担任で世界史担当、そして野球部顧問の小堀徹夫に問われ、薫はそのように即答した。その時の薫の頭の中では、恋愛に関して見事「禁欲」した自分が、多くの人々に囲まれ、また、その内たった一人だけの恋人と、朝も夜も一緒に学生生活を楽しんでいる単純な想像が渦巻いていた。恋愛嫌いと言っても所詮、大学入学と共に無効になることが、運命づけられているものに過ぎなかったということか。

「なので、勉強頑張らないといけないから、クラブには入らないでおこうと思います」

「まあそれならそれでもいいけど、忙しい部活だけじゃなくて、文化部なら、それなりに時間の取れるものもあると思うから、もう少し、考えてみてもいいんじゃないかな?」

 この進路相談は職員室前の廊下の窓の下に置かれた、机を挟んで行われるまだほんの軽いものだったが、その時、栗林日奈が傍を通っていったのは、ただの偶然に過ぎなかっただろう。しかし、委員長になった増野祐一が、別のクラスの彼女と仲良くしているということは薫も知っていたので、ヘアバンドで後ろに留めた、その黒髪と紺色のブレザー姿が何となく目についたのだ。

「文化部、ですか」

「例えばね。まあ、そんなに難しく考えなくても、いいと思うよ」

 難しく考えるのは、薫の得意とすることだ。二年生になった現在、校舎の本館や新館とは、広いグラウンドや裏庭で隔てられた、部室棟の三階の端にある文藝部室で薫は今、十人ほどは取り囲むことのできる横長の、表面に傷跡の目立つ茶色のテーブルを間に、同学年の日下李枝と二人きり、お互いあまり会話もせず、それぞれの読書を続けている。

 薫が中頃まで読み進めていたのは、ヘンリー・ジェイムズの『金色の盃』を青木次生が訳した、講談社文芸文庫の下巻で、これこそ、現在の自分が採る方策の指針になりうるのではないかと考え、正面で本のページに目を落としている日下李枝の、眼鏡を掛けて洒落っ気のないその色白の顔に注目した。

 二人の通うこの私立高校は中高一貫校だったが、薫は公立中学から受験して入学し、日下李枝の方は中学の時からいたので、高校入学組と中高一貫生の校舎が分けられているこの高校内で、互いが交わる機会は部活動か、あるいは放課後に行われる、入試のための特訓講座ぐらいでしかない。そして、薫と日下李枝は同じ文藝部員であるばかりでなく、難関国公立の世界史論述問題を対策する講座でも、顔を合わせることになっていた。

 今、他の部員達は皆、二人とは別の講座を受けているか図書室等で自習しているかで、誰も入ってくる気配がない。そもそも、文藝部に残っているのはもう八人だけだったし、年に四回の部誌を出す以外にはほとんど実質的な活動もないので、部室に人が来ることすら少ないのだ。

 薫は、日下李枝が佐々木昇と同じ講座を取っていることを知っていた。そして栗林日奈は、登下校にブレザー姿の生徒達が目に立つようになった一ヶ月ほど前から、昇が講座を終えるのを待ち、一緒に帰るようにしているようだ。

 もちろん、既に二人が付き合い始めているということは、十分考えられる事態ではある。けれども、この前の昼休み中、昇が薫や水野直紀達に、毎朝の電車で見かける女の子のことを、憧れるような口調で話していたことを思い起こせば、彼女ができたにもかかわらず、そのような憧れを臆面もなく口に出す性質を彼が持っているとは考え難く、そうするとH姫と昇の関係は、主に一方的な女の恋の上に成り立っていることになる。

 二年生から彼らと同じ、難関国公立文系クラスの一員となった栗林日奈は、英文法の最初の授業で、生徒達にあだ名をつけるのが趣味らしい、中年教師の前川信宏に当てられた際、こんなことを言われた。

「えーと、栗林日奈か。栗、林……日奈、日奈、日奈。じゃあ、名前のイニシャルを取って、エイチ姫だな。うん、H姫にしよう」

 クラス内の多くの者が、一年時の彼女にまつわるいくつかの噂を知っていたので、何となく気まずい沈黙だけが残った。栗林日奈がクラス委員長だった増野祐一と、彼氏彼女として付き合っていたのはおそらく一ヶ月ほどのもので、その後、増野は難関国公立理系クラスの方に移っていたが、彼が自主退学することになるのは二学期に入る前のことだ。H姫と言っているのは前川ぐらいのもので、クラスメートの誰も、そのあだ名を口にすることはなかったが、薫はそれを、いいじゃん。と思い、自分の中で彼女を指す場合にのみ用いていた。

 昇がまだ、登校中目にする名も知らない女子に、本気で気を惹かれるほどの「ウブ」な状態ならば、同じくウブであるらしい日下李枝と共に、そこから脱皮させてやることも不可能ではないはずだ。二人が受けている講座を薫は取っていないが、普段の授業とは異なり、放課後の特訓講座では、事前に申し込みをしていなくても、教室に余裕があれば飛び入りで参加することもできる。もちろん講座の前後には友達と話す時間もあるのだから、まだ顔見知りでしかないはずの二人を薫が引き合わせ、三人仲良くなった後に一人だけそっと抜ければいい。それについて鍵となるのは、そもそも引き合わせることができるほどに、自分は日下李枝と気心の知れている仲なのかということだが、今このように二人だけでそれぞれの本を読んでいて、出て行きたがる素振りもないところを見ると、二年生では二人だけの文藝部員としての、ある種自然に作られるしかなかった親密さのようなものは、保たれていると言ってもいいのではないだろうか。そして日下李枝と昇が講座後も話しこみ、優柔不断な昇が約束を忘れた振りをしそのまま一緒に帰ろうとする様子を、扉の外でずっと待っていたH姫が確認すれば、増野祐一に対してあらゆる意味で荒れ狂ったという彼女も、諦めざるをえないだろう。けれどもそれは楽観的に過ぎる。薫はそう結論付けたが、ある程度楽観的に思考することこそ、恋愛問題を上手く乗り切る数少ない方策なのだと、この頃の読書経験から考えてもいた。

 日下李枝は昇を上手く誘惑するだろう。そしてH姫が諦めた後、手に入れさせてやった機会を利用するか捨て去るかは、彼女の自由だ。たとえ捨て去らなかったとしてもおそらく、日下李枝はいずれ昇に飽き足りなくなるに違いないが、それはむしろ、薫の望むところなのかもしれない。もちろん、それで『金色の盃』に出てきたような関係の釣り合いが取れたとは全く言えず、H姫はその後もずっと、女友達とだけ仲良くしているということはないだろう。しかしその時は薫自ら、H姫の前に出ていき、これまで一度もまともに話したことのない彼女に対して、言ってやればいい。

「ナナって、映画も好きなんだったよね?」

 不意に話しかけられたので、驚いた。その驚きを口元の強張りにだけ表し、本に栞を挟んだ薫は、目を落としたままの日下李枝にこう答える。

「好きって言っても、偏ったものしか観てないよ。SFとか、韓国映画とか」これを聞いて、ようやく彼女は顔を上げた。

「SFかー。今『ガープの世界』読んでてさ、結構激しいし、全編死の臭いが漂ってるんだけど、でもとても面白くて。最近ちょっと距離感じてきてた、夏目漱石なんかとは別種の小説って感じがするんだ。で、これの映画って、どうなのかなって思って」

「ジョン・アーヴィングの映画化作品は、『サイダーハウス・ルール』しか観てないなあ」

「観てるじゃん。どうだった?」

「『スパイダーマン』のトビー・マグワイアが主演してるから観ただけで、内容は全然覚えてないよ」

「そう」


   3


 もう二十三時になろうという頃電話してきて、薫が行ってみると、部屋着の赤いTシャツを着た佐々木昇は、ベッドの端に腰かけ片手にチューハイの缶を持っていて、丸顔の目元をほんのり赤らませているようだった。

「お酒、飲みすぎなんじゃないの?」

「泣いてたんだ」諦めたような笑顔で、昇はそう言った。

 共に一浪し、地元からは離れた、地方の同じ国立大学に通っている薫と昇は、一人暮らしをしている学生マンションも大学からごく近くで、互いの部屋に行き酒を飲んだりすることがしょっちゅうあった。二人だけの時もあれば、映画研究会の他の友達や、後輩を誘う場合もある。

「ナナ、聞いてくれる? 俺、昨日藤野さんに振られたんだよ。あはは、まだ三ヶ月しか経ってなかったのになあ」

「付き合ってたんだ」

 薫はすぐに、入学してからの昇の女性関係を思い起こしていた。誘い合って映画研究会に入った二人は、そこではもう映画を撮ることはほとんどしておらず、好きな作品を皆で観ることが大部分だという活動内容を知って、特に昇は、何となく期待外れだったものの、むしろ安心したのか、同じく新入生の尾崎菜緒子に六月頃告白し、付き合い始める。しかし昇によると、「尾崎さん、ディープキス許してくれないんだよ。もちろんそれ以上の関係なんて、まだ全然先って感じ。愛してるんだけどなあ」とのことで、欲求不満をよく酒に紛らしていたものだった。そして八月になったばかりの夜、次のようにですます調で理由を挙げられ、振られることになる。

「妹も誘って一緒にデパート行った時、ドア押さえてあげてませんでしたよね。そういうところ、もっと気を遣ってほしかったです」「あの子が遅れてるの、気づきませんでした? 歩く時は、全方位に気を配ってください」「押さえてたって言っても、中に入ってしまうまで、ちゃんと見てなかったでしょう。形だけの親切なら、しない方がましですから」「二人でいる時、愚痴を言わないでください」「佐々木くんは私のことは考えてくれても、私の妹のことは考えない、そういう人間なんです」

 一年の三月には映画研究会会長で、一学年先輩の樋口麻衣に、昇は告白された。彼女と昇は普段から、研究会の部室で悪口を言い合ったり、昇の家で薫も含め、映画を観たりして仲良くしていたので、薫や他のメンバーも、二人は既に先輩後輩の間柄ではないのだと思っていた。だが昇は断り、後に薫に、「あいつとは本当に仲が悪いつもりだったのに、あんなことを言われるなんて思ってもなかった。いや、いい友達ではあるんだけどさ」と、子供のようなことを言ってみていた。

 藤野佑香は四月に映研に入ってきた一年生で、これまで昇と関係のあった女性同様、薫がどことなく苦手とするタイプだった。そして確かに、考えてみれば去年の十二月辺り、映研の飲み会の前に待ち合わせの駅構内で、背の高い昇のマフラーを巻いてやっている彼女の顔つきには、ただならないものがあったのだ。

「キスどころか、手をつなぐことすら許してくれなくてさ。デートは結構したけど。一週間前、ナナも一緒に、三人でパフェ食べに行ったじゃん? 本当はあの日に振る予定らしかったんだけど、ナナが来るとは思ってなかったらしくて、それで昨日になったんだな。ああ、俺って、全然長続きしない。誰とでも、何でも」

「でもいいじゃん。一応、付き合ってはいたんならさ」

「たとえ付き合ってても、何もできないっていうのも、辛いんだって」

「付き合えてるだけ、ましだよ」

「それよりさあ」

 隣に座る薫のグラスに、新しい酒を注いでやりながら、昇は気分を変えるように言った。

「緑川さんのこと、もう誘った?」

「いや、まだ」薫は気のない様子を示し、そう答える。コーラ割りのウイスキーを飲む。

「こうなったらさ、俺はもう、応援するだけだから、頑張ってみろよ。ナナがずっと一人なの見てると、なんか惨めな気分になるんだよな」

「ありがとう」

 三年生になってから、その緑川遥香を自分の家に誘い、薫も呼んでくれたのは昇だった。緑川遥香は一年生から映研のメンバーではあったが、頻繁に参加し始めたのはつい最近で、その頃にはもう、たまに見たことのある一年時の面影はなく、既に二人の男と付き合って別れたらしい。

 洋画より断然邦画が好きだという彼女は、「あいつら、洋画の方が大体において優れているって言うけど、そういうのに限って全然、洋画も邦画も韓国映画もインド映画も観てないんだよね」、と、「あいつら」が誰を指すのか特にはっきりさせることもなく言い、「私、『恋愛』五部作が好きなんだ」、宅飲みが始まり二時間ほど経つ頃、宣言するようにそう言った。「そんな五部作、あったっけ?」と薫が訊くと、「ああ違う違う。私が勝手に名付けてるだけだよ。自分の好きな、題名に愛とか恋とかが入ってる映画をまとめてそう言ってるんだけど、そんな映画なんて、タイトルだけならいくらでもあるよね」

「俺は全然詳しくないんだけどさ、何て映画?」と、昇が割って入る。

「『愛のむきだし』、『愛を語れば変態ですか』、『恋の渦』、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』、そして『今度は愛妻家』、だね」彼女は滔々とそれらを並べ立てた。

「『愛のコリーダ』は?」誘うような気持ちで薫が言ってみると、「いやあ、観てるけど、ちょっときつかったな」と返ってきた。「俺は先月、『愛がなんだ』っていうの観に行ったんだけど、結構面白かったよ」ベッドに寝転がった昇のその言葉に対しては、「私、新しめの映画って、あんまり観ないんだよね。まあ、『今度は愛妻家』も『愛を語れば変態ですか』も、というか他のものも全部、割と最近なんだけど。でも、観てみるかも!」と、明るく答えていた。

 薫はその一ヶ月後の六月、緑川遥香と二人きりで一度は水族館、一度はカラオケに行った。本当は映画館にも行こうとしたのだが、「新しいのも古いのも、今、良さそうなのはやってないなあ」と断られていた。そして三度目のデートに誘い、これが成功すれば最後には告白しないといけないと、追い詰められたような気持ちになっていたところ、『ごめんなさい、もう行けません。他の人達も一緒ならいいけど』というメッセージが返ってきたのだった。


   4


 二年生の北尾佐紀に勧められ、人生で初めての煙草を吸ってみた昇は、浜辺にいた他の六人が半ば予想したように、少し吸って激しく咳きこみ、「駄目だ、俺には」、と、顔をしかめてそう言ってから、遅れて笑う。

 いつも自転車で、上の道を走り抜ける時何度も目にしていたから、二十一時過ぎに始まった散歩の果て行き着いたこの夜の海も、薫にはそれほど、目新しいものがあるわけではなかった。「佐々木先輩、あはは、初心者が思いきり吸ったら、そりゃそうなるって」これ以上おかしいことはないとでもいうように笑い、白い煙を口から吹き上げながら、茶髪の前髪をかきあげつつ、北尾佐紀は振り向いて言う。「ナナフサ先輩も吸ってみません?」「いやあ、やめとく。昇とおんなじことになると思うからね」

 知り合って五ヶ月ほどしか経っていないというのに、最近執着しすぎなんじゃないかと自分でも反省しながら、映画研究会の新入生達と、同級生のように仲良くしてみせている。その流れで、今日は大学から歩いて三十分ほどの、上の歩道から照らし出す街灯以外には、もう真っ暗な浜辺に来てみたら、昇が参加している学内のカフェサークルでの後輩である北尾佐紀も来ていて、薫はまた、いいなあ、と思い続けているのだった。

「いいなあ海、何度も来たい。僕、何度来ても飽きない自信があります」

 近い内に必ず飽きるはずだよ、君も。冗談に紛らせつつそう言おうかと、もう口を開きかけるところだったが、そんなこと、どうせみんな分かって言ってるんだろうし、もしかしたらもう既に、飽きているのかもしれないと思い直し、深夜のこの散歩を薫が言い出すより前に提案してくれた、山口昌彦の眼鏡を掛けた横顔をぼんやり眺め、この子が敵になることはないだろう、そういう自信が一体どこから出てくるのか、もう既に、恋愛に対する自分の無能力は証明されたようなものなのに、と、いつもと似たような考えでまた、体の動きが止まってしまうのをそのまま放っておく。

 坊主頭で、一見高校か中学の野球部のようにも見えるが、幼い頃からスポーツ全般が大嫌いだという出海修太、山口昌彦と同じく眼鏡を掛け、彼の、慎重なようでありながら明け透けな物言いを、もう構うことはないだろうとあからさまに攻撃している江田梨沙子、その二人のやりとりを楽しそうに茶化しながら、出海修太の頭を片手で撫でまわしている綾瀬真央、山口昌彦、そして薫の五人は、正面に凪いだ海を見渡せる、石の階段に座っていた。いつまでここにいるんだろうと薫は思いながら、五人とは離れ、浜の端の方まで歩いていく北尾佐紀と昇の、並んだ後ろ姿を見つめ、この前彼が、飲み会からの帰りの夜道、二人きりの時に言っていたことを思い出す。

「緑川さんのこと、遥香って呼びたいって言ったらさ、恥ずかしそうに昇くん、なんて言うんだ。あれがもう、本当に可愛くて」「緑川さんとの、めっちゃ気持ちよかった」「まあ最後まではできなかったんだけどね。俺はちゃんと用意してたんだけど、まだごめんって言われてさ。手でもいいからしてもらおうと思ったんだけど、それも駄目だった、悶えるしかなかったなあ」「緑川さん、いや、もう遥香だな、今は遥香のことしか考えてない。ナナも、綾瀬さんと、早く上手くいけばいいと思うよ」大学卒業後、緑川遥香は昇についていくようにして、彼の就職先の地元にちょうど住んでいた、叔母の家に移り住むことになる。

 もちろん、薫自身も早く何とかしたいと思ってはいるけれど、昇の言葉に従い綾瀬真央だけを誘うには、それ以外の、周りの人達をどうにかする必要があった。薫や彼女と同じく文学部で、まともな恋愛をしたことがなく、高校の頃にはある女の子の「キープくん」だったという山口昌彦は、薫と二人で大学近くの、深夜の黒い林を傍らに控えるコンクリートの歩道を散歩しながら、熱心な顔つきで、こう言った。「先輩、僕、綾瀬さんに告白してもいいと思いますか? あの人、いつも森本さんと仲良くしてるじゃないですか。僕がそういうことしちゃったら、森本さんに怒られるか、それとも二人の仲を裂いてしまうか、そういうことになるんじゃないかと思って」今日の浜辺には来ておらず、散歩にも参加することの少ない森本佐奈は、薫が初め目をつけていた、背の低い女の子だ。「僕は、あの二人が、どんな時も並んで話しているところを見るのも好きなんです。だから、悩ましいところではあるんですよねえ」黙れ。そう言いたかったが、薫はこう言っていた。

「いいんじゃないかな、別に。確かにもう親友同士って感じだけど、森本さんも分かってくれると思うよ、子供じゃないんだし。それだけ好きならね」

 山口昌彦がそうなら、出海修太も最近やや色気を示し始めている様子であり、さらに江田梨沙子は、薫には森本佐奈以上に、綾瀬真央が男と二人でどこかへ行くなどということは、決して許さないところがあるように見えた。みんながみんなを、あらゆる角度から意識している。そう思えた。

 それらの雑音を無視し、薫は綾瀬真央を三度誘うことに成功したのだが、四度目には緑川遥香の時と同様、もう二人きりでは会えないと言われ、断られていた。そして今、九月初め、彼女を含めた一年生達と、騒ぎ立つ兆しの見られない、静かな海を眺めている。北尾佐紀と昇はまだ、五人とは離れた岸の傍で、もう長年の友人だというような話し方をしており、あれはおそらく北尾佐紀が持ってきたのだろう、缶入りのビールを飲んでいた。綾瀬真央はその二ヶ月ほど後、同じく映研の一年生である岩井雄太と付き合うことになり、さらに翌年の三月から、親を含めたほとんど全ての人間と、薫は一切の連絡を絶つことになる。


   5


 緑川遥香は、この後別の待ち合わせがあるからと、イタリアンレストランの前で別れようとする佐々木昇に、「本当はあなたを殺して私も死ぬとか、陳腐な台詞を言ってみたかったんだけどな」、と笑って帰り、帰宅後、就活サイトで仕事を探し始めた。一緒に暮らしている彼女の叔母は、左の奥歯に痛みを感じ、洗面所で血を垂らしていた。ちょうど同じ頃、佐々木昇は自室のベッドから、近くに住む母親に電話を掛け、休日に帰ることを約束した。

 塾の教室長である水野直紀は、教室内にまだ残って勉強している、女子中学生の胸元を眺めていた。栗林日奈は大学の同窓会を開くため、スマホで送るメッセージの文面を考えていた。ベージュのコートを羽織った日下李枝は玄関の外の手すりに凭れ、廊下の白い明かりを頼りに、檀一雄の『リツ子 その愛・その死』を読んでいた。

 佐々木昇と一時期付き合っていた尾崎菜緒子は、修士論文の続きを書いていた。彼女の妹は、ベランダに出て星を眺めていた。尾崎菜緒子の次に佐々木昇と付き合った藤野佑香は、ユーチューブでプロコフィエフのピアノソナタ第六番を聴いていた。北尾佐紀は会社の飲み会からの帰り、酔った同僚の吐く息の臭いを、嗅がないようにしようと必死だった。ラーメン屋を出た江田梨沙子は、道の向こうの浅い川を眺めていた。出海修太は河野多恵子の、もう三度目になる『不意の声』を読んでいた。綾瀬真央は傍観者として禁酒会に参加した帰り、昔被ったことのあるような被害を、この世界から根絶することを固く胸に誓っていた。

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