第6話
毎日ハンドボールの技術を磨き、ピアノを弾き、勉強をした。毎日りんの笑顔を思い出し、また勉強をした。モノクロの日々は果てしなく続いた。
再びりんの噂を聞いたのは、二年近く後だった。東京の大学に進んだ耕太は、同じく東京の別の大学の進んだ淳也から、りんの話を聞いた。淳也の大学の学生劇団が近々公演を行う。その宣伝の看板に載っている俳優の写真がりんにそっくりだと言うのだ。俳優の名前はもちろん本名ではないから、りんかどうかは不確定だが。7月。耕太はその劇団の公演を調べ、見に行った。ロミオとジュリエットを下敷きにした現代劇。耕太は大学の小ホールの前に出ていた看板を見た。淳也が言う通り、その俳優はりんにそっくりだった。彼女はジュリエット役で主演らしかった。席に座ると前の男子学生たちが騒いでいる。
「今日もジュリ姫の歌でしびれようぜ」
「おおよ。バックナンバーの歌な」
りんらしき俳優のファンなのだろう。バックナンバーの歌を歌うのか。ドキドキしながら耕太は開演を待った。会場の明かりが落とされ、ようやく劇が始まった。壮大な音楽をバックに、ついにジュリエットが登場した。見間違えようがない。りん本人だった。白いワンピース。久しぶりに見るりんはますます美しくなっていた。りんが登場したとたん、会場から拍手が上がる。舞台の上のりんが手の届かない存在に思えた。
りんは会場を見まわし、ふと動きを止めた。二秒、三秒…。不自然な間。会場全体が戸惑う。時間が止まったかのような世界は、りんの始めの台詞でようやく動き出した。耕太はそっと息を吐く。こういう演出なのだろうか。相変わらず透き通る声。舞台では手足はますます長く、顔はますます小さく見えた。
…劇の最後、ジュリエットが毒薬を飲む前に、歌いだした。アカペラで。
一口食べたスイカを私に渡して「食べる?」と言った君がまぶしい……
この曲は、ウォーターガールの「スイカの歌」! バックナンバーじゃなかったのか? 前の学生が互いの顔を見合わせ、何かを耳打ちし合う。この曲はやっぱりいつもと違うのだ。……劇は無事に終わり、カーテンコールの時間になった。次々に役者が登場し、盛大な拍手を受ける。最後にりんが登場したとき、拍手は割れんばかりになった。全員が舞台に揃ったあと、座長らしき男性がマイクで言う。
「みなさん今日はありがとうございました。それにしても最後、びっくりしましたね。ジュリエットの歌がいつもと違うんだもの。どしたの? ジュリエット」
座長がりんにマイクを向ける。
「えー。今日はなんだか懐かしい歌を歌いたくなっちゃって」
「でも、あの曲も世界観にぴったりだったね。あの曲でもいいかも」
座長が笑う。
「それはよかったです。でも今日だけです。ありがとうございました」
りんは深々と頭を下げた。また拍手が起こる。何度かのカーテンコールのあと、ようやく拍手が納まり、会場の明かりがついた。耕太は席を立った。
「よし。ジュリ姫と握手しに行こぜ」
さっきの男子学生がそういいながら、足早に出口に向かった。耕太はその方角に目を向ける。出口の外では、役者たちがズラリと並んで、出てくる観客と握手をしていた。一番遠いところに、白いワンピースのりんがいた。観客と次々に握手している。
耕太はまっすぐりんの方に向かった。人をかき分け、前に進む。さっきの男子学生たちがりんと話し込み、なかなかりんの前が空かない。その間も人込みが外に向かい、耕太は押し流されそうになる。ようやくりんの前が空いた。耕太は前に飛び込んだ。バチッと目が合った。
「ありがとうございました!」
しかしりんは笑顔を崩さず礼をした。耕太はさっと体が冷える気がした。自分のことを覚えていない?
「あ、あの」
耕太が口を開きかけると、りんが言った。
「握手はいかがですか?」
「え、は、はい」
耕太はそっとりんの右手を握った。ふと手に違和感を感じた。離した手の中に、メモが残っていた。
「一時間後、大学の中央芝生」
メモにはそう書いてあった。クラス委員時代に何度も目にした、美しい文字だった。
一時間後、耕太は大学の芝生で三角座りをするりんを見つけた。こちらに背中を向けている。耕太はゆっくりと近づき、りんの横にあるかばんを見た。金魚のキーホルダーがついていた。
「りん」
耕太はそうハッキリと呼んだ。金魚がキラリと光っていた。
スイカの歌 九畳ひろ @kujohiro
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