シオリ 1
目覚めてから、病室を出たり入ったりして僕を落ち着かせないのは、真っ白い格好の看護師や医者だけに留まらず、どことなく見覚えのある初めて見る顔が次から次へと僕の病室を訪れた。
初めてここへやってくる白くない彼らは、皆引き戸をガラガラとやや乱暴に開けては、マッチ棒のように突っ立ったままきょろっと首だけを動かして僕の方をじっと見る。そして、合言葉のように「クサマ」という掛け声を唱え、――数人での来客は、それぞれバラバラのタイミングで「クサマ」と、こだまするみたいに言うから可笑しい――それからようやく扉の銀色のレールを踏み越えてくる。まるで、大人が誰から習ってもいないのに一様の所作で店の暖簾をくぐるようだ。
あの狼狽え天使から第一声で呼ばれた時から感づいてはいたが、「クサマ」というのは僕の名前だった。「草」の「間」と書くらしい。そのままだ。下の名前は「マサオミ」というらしい。特別難しい漢字でないことはなんとなく覚えている。来客者の中で、僕のことを「マサオミ」と呼ぶのは馴れ馴れしい男子学生に多かった。
僕の元を訪れる何人ものお客さん、その振る舞いは三者三様で、一度来たきりのもいれば、僕が顔を忘れそうになった頃に来るのもいるし、初めこそよく来ていたが次第に来なくなったのもいる。そんな中で、足繁く通い続ける常連が四人いた。
週に四、五たび現れては、ベッドのすぐ隣に腰掛け、何とかかんとかと話をしにくるのは同い年くらいの女の子で、僕の彼女を名乗った。「ユリ」という名前だった。
ユリは入室から退室までちっとも変わらない無愛想な顔つきだったが、来る度に何かお土産を持ってきた。お土産は小さな籠に並べた果物の時もあれば、ちょっとした日常の小話の時もあった。ユリは僕の傍に椅子を持ってきて、さも自分の使命かのようにあれやこれやと僕の世話を焼く。美人の彼女に世話をされるのはとてもいい気分だったが、僕は正直気味が悪かった。僕は彼女のことを知らない。そして彼女はそのことを承知で、彼女は中身の知らない男を世話している。
毎晩、日の落ちきった後にやってくる細身の中年の男女は、僕の父と母を名乗った。二人は目覚めた僕を見た時、しがみつくように優しく両手を僕に触れて、床に膝をついて号泣していた。その日から、仕事を終えると欠かさず二人で会いに来ている。母は僕を見ると必ず顔を綻ばせて「調子はどう?」と聞き、父も安心したように表情を柔らかくする。
彼らは時折、「少しずつ思い出していくよ」「私達がついてるから」なんてことを僕に向けて言ったが、僕の心に癒しを与える言葉にはならず、ただただ僕の身体を透けて通っていくだけだった。それは僕の後ろに見ているマサオミに向けたものだからだ。
きっと記憶を失くしているのだろうということは、まだ大人になりきらない僕にもはっきりわかる。でも、僕とって「思い出す」ことは何も無い。僕にとって「記憶の喪失」や「思い出す」という言葉はあまりにも荒唐無稽だった。
日の暮れ方、遠い空で紅と紺が深く混ざり合う頃に姿を表すのは、恐らく僕より年下の制服の少女だった。彼女は僕のことを「お兄ちゃん」と呼んだ。僕の妹だった。
記憶喪失の僕を初めて見た他の人達は、僕が身体を起こしてぱちぱち瞬きする様だけで頬を緩ませ、よかったとか安心したとか口を揃えて言ったが、近親者である彼女はただ、僕の前で怯えた小動物のように縮こまり、沈鬱に俯くだけで言葉を発しようとしなかった。いや、正確には何度も言葉を出そうとはしていた。しかし、いずれも喉元の何かに引っかかって、結局出かかった何かが舌に乗って僕の耳に届けられることはなかった。
彼女は自分自身を「私」と呼び、名前を口にしたことは今までに一度とないが、連日両親と話す中で、特に家族の話題で度々「シオリ」という女性の名前が出るところから、それが黄昏時に深い夜のような雰囲気をまとって現れる少女の名であることはなんとなくわかった。両親はシオリが毎日の学校終わりにここへ来ていることを承知している。ただ、シオリがどんな顔色で僕と対峙しているかまでは、本人からも聞いていない様子だった。
ふと窓の外を見やると、微かに橙色の残る空の向こうに宵の明星がぽつりと輝いていた。僕はそろそろかな、と少しずつ読み進めているユリから貰った小説を閉じ、シオリの来訪を待つ。程なくして3回のノックが部屋に響いた。今日もシオリは一人だった。
病室で目覚めて @hihihi012345
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