第3話   –・–

 随分と見違えてしまった形のアパルトメントは、深夜の廃墟然としてかろうじてその身を立てている。

 肩で息したアンダーソンは、呼吸を落ち着けるように静かに歩んだ。礼儀に倣って、エントランスから。

 瓦礫の山と化したメインホールを過ぎ、小庭に辿り着く。ひび割れた土地にありながら、どうやら無傷で茎を伸ばす苗木は、些か不自然で、どこか不気味だった。

 ライターの火が欲しいところだったが、そんな迂闊な真似はできない。

 すぐ傍まで近づいて、その場に屈む。

「実?」

 ただの草だと思っていたが、その苗木は黒い実をつけていた。形はチェリーのようだが、房の生り方はオリーブに似ている。大きさはそれらより少し大きいくらいだ。

 見覚えの無い果実であった。

「ハァーイ」

 アンダーソンの遥か上から声が降ってきた。

「あなたのハートは何色?」

「お前が魔女か」

「好きに呼べばいい」

 冷酷で奔放。そんな言葉尻だ。声の主の正体を、アンダーソンはすぐに推測できた。

 無闇に見渡したところで、辺りに光はない。アンダーソンに理解できるのは、声の主が自分よりも上空にいるらしいということだけだった。

 徐ろに立ち上がり、気取られぬよう、そっと懐に手を入れる。拳銃のグリップに人差し指が触れた。

「何故、ここに?」

「見て分かるでしょ、それよ。そ、れ」

「これを?」

 足元を見下ろした。

 魔女のフルーツ。

「野菜だけどね」

 アンダーソンは気まずくなって目を伏せた。声に出してしまっていたようだ。

「食べてみれば?」

「えっ」

 アンダーソンの身がぎくりと固まる。喉笛にいやに冷たい感触があった。黒い実を凝視して、彼はたじろいだ。

 暗い視界から得られる情報だけでは、この植物が食用なのかそうでないのか、判断がつかなかった。

「念の為、聞かせてもらおう」

 視線を上に向けるか迷って、やっぱりその実から目が離せない。

「お前は聯合の人間か?」

「Hmm.」

 その吐息は、真っ黒なこの果実から聴こえたように思えた。

「消すならもっと巧く殺す。魔女だもの」

 それもそうかと、誰に対してでもなく頷いた。

 もう一度膝を地面につかせ、グリップから手を離し、その実をもぎる。参ったことに、アンダーソンの目にはこれがオリーブにしか映らなかった。

 手で表面を拭うと、砂埃の下から、仄かな艶がのぞいた。

 アンダーソンはじっと、手中の実を見つめた。時間にして、数分程だった。そしてとうとう意を決し、勢いよくそれを口に入れた。

 歯が硬い皮を破る感触。芯を食べているような食感と、鼻を抜ける青物臭さ。瓜みたいな風味と酸味を微かに感じた。

 なんというか、そう、微妙であった。

「旨くない」

「そりゃそうよ、周り見た?」

 嘲るように魔女は言った。

「こんな貧相な糧じゃあ、よくて薄味か大味。マズくて当然」

「お前が育てていたんだろう?」

「いいえ?」

「では、踏み荒らされないよう守っていたのは?」

「生を全うしたいじゃない」

 話が読めなかった。

 アンダーソンは細い茎を指で摘んでみた。触感はざりとして毛皮に近い。

「噂では、お前は」

 神妙な面持ちで首を傾げる。

「夜な夜なここにやって来る兵士の心臓を刈り取っては、魔女の果実にその血を注いでいる、と」

「……は?」

 心底驚いたのだろう、魔女の声が上擦った。

「トマトが血で育つわけないでしょ」

 嘲りも侮蔑もない、愕然といった息遣い。そうか、これはトマトというのか。

「塩害もいいとこじゃない、萎れるだけよそんなの」

 魔女はなおも、信じられないといった風に呟いていた。

「生きていれば草花のことなんて自然と分かるものでしょうに」

「兵士は植物には明るくない。し、それを魔女に言われたくはない」

「まあ、立派だこと。どれも火種にしか見えないんだものね、軍人さんには」

「水臭いな。アンダーソン伍長どのと呼んでくれないのか。さっきみたいに」

「……」

 魔女が息を呑むのが、瓦礫の囲いに反響した。

 アンダーソンは腰を上げ、膝についた土を払った。

「やっぱりそうか。我が軍にあんな人間はいない」

 顎髭をたっぷりとたくわえた少尉の姿を想像していた。

「それに、あの体型の人間なら、野菜より肉を好みそうだからな」

 違和感の正体に行き着いたアンダーソンは少し勝ち誇っていた。

「我々に何をした。幻惑の術でもかけたのか?」

 アンダーソンの右手は再び、彼の胸ポケットの拳銃へと延びていた。

「何故我が軍に忍び込んだ。何が狙いだ」

 遠くでサイレンが鳴っていた。空襲警報だ。

 息を吸う音。アンダーソンのものではない。彼は静かに、魔女が口を割るのを待った。

「戦火にぽつり、ラブアップル」

 アンダーソンが眉間に皺を寄せる。

「魔女の果実、ね。案外遠からずっていうか、言い得て妙っていうか」

「何を言ってる?」

「宮廷じゃあ恋の毒薬として人気があったのよ。金の林檎。惚れ薬ってやつ。分からない?」

 アンダーソンは拳銃を握り締めた。

「媚薬よ、媚薬」

 反響を元に魔女の居場所の見当をつけたアンダーソンが、銃口をそちらに向ける。アンダーソンの斜め左上空。アパルトメントの屋上付近だ。

「何の話だ」

「自分が何を口にしたかくらい知りたいでしょ、アンダーソン伍長どの?」

 全身に稲妻が走ったかのような感覚に襲われる。

 アンダーソンは目を見開き、咄嗟に口を押さえた。

「毒はあるけど平気、死にゃしないわ。屈強な軍人さんなら余計にね。媚薬ってのも迷信、聞き流して頂戴」

 魔女の慰労はアンダーソンの耳には届いていなかった。彼は喉に手を突っ込んで、必死に吐き戻そうとしている。

「それに伍長どの、別にあたしの好みじゃないし」

 一方の魔女も、苦しげにえずくアンダーソンの様子など気にも留めていなかった。

「文明人が放棄したカラの街、荒れて痩せ細った涸れ畑。戦線にあって硝煙に燻され、鉄と油の灰を寝床としながら、それでも太陽に向かって伸びている。焦げた風に吹かれ、誰にも知られず実を結ぶ。よりにもよって、愛の実を」

 魔女は愉快そうにくつくつ喉を鳴らした。

「それも、全然美味しくないやつ。この皮肉ったら!」

 ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返し喘ぐ。上手く吐き出せなかった。

 四つん這いになったアンダーソンの視界が、突如として明るく照らされた。

程なくして、けたたましい警報と、プロペラとモーターが忙しなく回っている音も聴こえてくる。

 空襲だ。

 理解するよりも早く、アンダーソンはほぼ反射的に、空を見上げた。

 機体の腹に聯合のシンボル。

 間違いない、敵機である。それも爆撃機だ。それは夜空に隠れるようにして、今まさに、爆弾を投下しようとしているところだった。

 息を落ち着ける暇もなく、だが訓練された彼の体は、自然と防御体勢をとっていた。

 アンダーソンは死を覚悟した。

 あの規模の爆弾を落とされては、もはや彼に逃げ場はない。殺されるくらいならいっそ。そう思った彼は、手中にある、年季の入った拳銃を見つめた。

「あたし嫌いなのよね、戦争」

 魔女の愚痴はサイレンの合間をすり抜けて、ひび割れたコンクリートに染み込んでいく。その場の全てを凍てつかせるかのごとき、無感情な憎悪。

「土を穢(よご)す物」

 言い終わるや否や、彼女から不思議な音が発された。破裂に似たそれは、果たして骨を鳴らしたのか、あるいはフィンガースナップか。アンダーソンには、彼女が舌を下顎に打ちつけたものに聞こえたが。

 奇妙な音色に、アンダーソンは眉を顰めた。

 すると、である。

 その音がしたかと思った途端、上空を覆う程に巨大だった爆撃機がその機体をぐらつかせたのだ。アンダーソンの目はそれを追った。

 遅くはあるが着実に、それは高度を落としていく。推進力を止めることはできなかったらしく、そのまま傾れるようにして墜ちて行った。

 それだけではなかった。

 爆撃機に伴って編隊を組んでいた戦闘機も、次々に墜落していっている。

「…………」

 アンダーソンはその一部始終を、体を丸め、驚きに満ちた表情で、ただただ傍観していた。

 あちこちで炎と死の気配が勃発していた。静寂に冠された廃墟にまで届く程に。

 地平が燃えているのだ。

 うずくまっていたアンダーソンが顔を上げる。彼は焦ってはいたが、冷静さを欠いてはいなかった。

「赤い」

 視線は明明と燃える天地から、灼けつく雲に照らされた苗木に集中していった。彼が食したその実は黒ずんで……否、違った、それは赤だった。なんとトマトは赤かった。

「赤だ」

「何言ってんの、トマトは赤か黄金でしょ。そうじゃなきゃ毒林檎なんて呼ばれない」

 また勝手に口ずさんでいたアンダーソンの独り言に、魔女は応えた。

「恋が叶う魔法の果実。白雪姫が齧ったのは、もしかしたらトマトだったのかも、なーんて」

 魔女が微笑んだような気がした。アンダーソンは声のする方を見た。

 燃え盛る空気が、魔女の姿をじりじりと露わにしていた。

 緋色の髪をした、涼しい表情の彼女は四肢に包帯を巻き、のぞかせる肌にはまだ真新しい傷痕も見える。

 髪と同じ色彩の瞳が、唖然とするアンダーソンを捉えた。

 アンダーソンの声にならない声が、地響きにかき消されていく。口が渇いているのが分かった。

 煤けた熱風にゆらめく裾は透かしのレース。ジュエリーにハイヒール。ミモレ丈のドレスに身を包む、まるで場違いなその風貌。

 彼女にかかれば旅行鞄は玉座に、警鐘は祝福に。

 驚愕のさなか、口を開閉させることしかできなかったアンダーソンは、やっとのことで喉を震わせた。

「あ、あ……」

 しかしそれは言葉にならず、ただ唇を通り過ぎるだけの靄と化す。

 アンダーソンは魔女に釘付けだった。それは畏怖から来る魅了であり、受け入れがたい事実との対面であった。

「ごきげんよう」

 魔女は不敵な笑みを浮かべ、トマト色の瞳を片方、瞑ってみせた。

 がくりと、アンダーソンは膝をついた。全身の力が抜けていく。魂が徐々に奪われていくみたいだ。意識が乖離する錯覚に陥った。

 意図に反してひざまずく形になった彼を見据えた魔女は、流麗に足を組み替えた。衣擦れの音もなく。

「存外、悪くない気分」

 早まる鼓動を抑える為に、拳銃にあった手を胸に添える。

 トマトの苗木がカサカサと葉を揺らした。半数以上は焼けて、枯れていた。

「伍長どの、首尾は如何」

 焦げついた臭いがより強くなる。魔女は指先を遊ばせた。

 アンダーソンの顎が小さく動いた。肺いっぱいに吸い込んだはずなのに、火の粉と共に畑へ漏れ出ていく。彼は奥歯を噛み締めた。

 手をきつく握り締め、精神を落ち着かせる。咽せ返るような光化学だ。風に乗って、いずれ大地へ降り積もり、土を汚すのだろう、彼女の言うように。

 瞬きを忘れていた眼に、血が集まっていくのを感じた。

 どこかでまた、爆発音がどよめいた。

 アンダーソンは手を延ばし、口にした。

 カクテルドレスの魔女に重なるその面影を。

 咀嚼して、嚥下して、反芻できずに吐き出したそれは。

「ジキル」


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トラトラトラ 山城渉 @yamagiwa_taru

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