最後にして最初の殺人

【 】切り裂きジャック🔪

 "切り裂きジャック"は、ベッドの中央に裸で横たわる、メアリー・ジェーン・ケリーの遺体を見下ろす。両肩は水平であったが、身体の軸はベッドの左側に傾いていた。彼女の左腕は体に密接し、直角に曲げられた前腕が腹部を横断する。右腕は体から僅かに外転して、敷布団の上で力なく拳を握っていた。左腿は胴に対して直角、右腿は恥骨に対して鈍角を成す位置で曲がり、両脚を大きく広げている。


 "切り裂きジャック"が、メアリー・ジェーン・ケリーの胸部にスッと刃を差し込んだ。乳房を円形の裂傷で囲う。慣れた手つきで解体作業を進めた。

 鋭く研ぎ澄まされた刃は、ときに、時代すら切り開く。頭部をあらゆる方向から切りつけた。鼻、頬、眉、耳が部分的に取り除かれ、歴史の断片がこそげ落ちる。

 子宮と片方の乳房を頭の上に、もう一方の乳房を右足のそばに、未来を過去に、ニューメキシコを生麦村に、時空を超えて配置する。

 血塗られた手で腎臓を鷲掴みにすると、頭の上に持っていく。腕がぶつかり、子宮が不規則に揺れ、駕籠の中の島津久光を揺さぶった。

 島津久光の舌打ちがミラーズ・コート13号室に響く。時刻は午前4時32分。22歳のオッペンハイマーが悪夢から醒める頃だ。

 "切り裂きジャック"はメアリー・ジェーン・ケリーの腹腔に両手を捻じ込み、肝臓とオッペンハイマーを摘出する。そのまま指先でオッペンハイマーをつまむと、両脚の間で崩れる肝臓を飛び越して、旧東海道生麦村にひょいと置いた。

 オッペンハイマーの眼前では、薩摩藩士4百余名が身振り手振りで何かを指示していた。危機に直面していることはわかったが、22歳のオッペンハイマーは彼らの意図を解することができない。彼らの剣幕に圧倒され、萎縮するほかなかった。

「理論上あり得ないことだが、もし過去に戻れたら」

 22歳のオッペンハイマーの耳元で声がした。振り返ると、34歳のオッペンハイマーが、そこにいた。驚愕し、水色の瞳が収縮と拡大を繰り返す。

「未来が過去に影響を与えることはある」。続いて、62歳のオッペンハイマーが肩をポンと叩く。

「新たな時代を築くために、日本への原爆投下は避けられない」。最後に、41歳のオッペンハイマーが強い口調で訴えた。自らの正当性を示すように、戦闘態勢の薩摩藩士を指差す。

 理論上不可能であっても、実験が成功することはある。ウラン分裂もそうだった。

 四対の瞳が各々の姿を映し出す。過去、未来すべての時代のオッペンハイマーが同時に映っていた。

「やってしまえ。やらねばならぬ」

 駕籠の中から、低く殺意に満ちた声が轟いた。その声には、外国人への嫌悪も、過激な攘夷思想も包摂されていなかった。自国に迫る甚大な悲劇を予見し、それを撃ち払おうとする者の強い意思だけが、ただただ純粋な使命感として表出していた。

 薩摩藩士・奈良原喜左衛門が鬼の形相で、刀を抜く。刃がゆらりと煌めいた。

 一瞬の静寂。続けて、他数人の藩士も抜刀し、4人の外国人目掛けて、一斉に斬りかかる。


 カウントダウンが始まった。


 ……4。

 第四の被害者、キャサリン・エドウズの無惨な骸が刀身に映る。


   3。

 第三の被害者、エリザベス・ストライドの悲鳴は薩摩藩士の怒声に掻き消される。


   2。

 第二の被害者、ダーク・アニーの必死の抵抗は届かない。


   1。

 第一の被害者、メアリ・アン・ニコルズが水色の瞳の中で、嬉しそうに帽子を自慢する。


   ゼロ。

 最後にして最初の殺人の幕が上がる。


 薩摩藩士の刃は、41歳のオッペンハイマーの肩に食い込むと、腹までを一直線に切り裂いた。鮮血が鳩走り、心の臓が果実の如く両断される。目はカッと開かれ、原爆投下を進言していた頃の威勢はすでに失われていた。弾き飛ばされた帽子が、ふわりと舞う。臓腑がゆっくりと顔を出し、そのままボトリと溢れ落ちた。


 "切り裂きジャック"は落ちた臓腑を拾うと、左手でそれを軽く揉みながら、右手の刃物でメアリー・ジェーン・ケリーの首を鼻唄まじりに切り裂いた。

 無軌道に刻まれた裂傷の数々は首の皮膚をあまねく貫通し、頚椎に達する。5番目と6番目の頚椎に深い刻み目が付き、咽頭下部で切られた気道では輪状軟骨が貫通していた。

 首の裂傷からは黒く濁った血がだらりと垂れ、ボタリボタリと床板を汚す。赤黒い血の雫は、重力に従って落下しながら、球体としての大きさを増し、やがて、毒入りのリンゴとなった。

 リズミカルに裂かれた傷からは無数の毒リンゴが生まれ、逃げ惑う人々の頭上から滴り落ちる。着弾し、爆発すると、毒を撒き散らした。

 イギリス艦隊の損害は大破1・中破2、死傷者は63人に及び、一方の薩摩藩も人的損害こそ少なかったものの、鹿児島城、集成館、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻などが焼失し、双方、莫大な損害を被ることとなる。

 犠牲者の中には、あのジーン・タトロックも含まれていた。毒リンゴに頭から突っ込み、自宅の浴槽で冷たくなっているのが発見される。「自殺 原因不詳」。


 ジーン・タトロックの亡骸を抱きかかえ、34歳のオッペンハイマーは慟哭した。

「間違えたのは、私か?それとも神か?」

 固くなったジーン・タトロックとともに馬へと飛び乗り、狂気と絶望の世界から一目散に逃げ去ろうとするオッペンハイマーだったが、200メートルほど戻った松原で落馬、追いかけてきた海江田信義にあえなく止めを刺された。


「わが心を打ち給え。三位一体の神よ」

 34歳のオッペンハイマーの問いに呼応するかのように、62歳のオッペンハイマーが声を張り上げる。その顔は諦念と虚無に支配されていた。彼は、傍で朽ち果てている長井雅楽の腹に刺さった刀を抜き取ると、流れるように自らの腹に突き立てた。

 三位一体の神。ヒンズー教の三大神、開祖にして創造者ブラーマ、その保存者ビシュ、そして、破壊者シヴァ。

 この世界では、誰が創造者で、誰が保存者で、誰が破壊者だったのだろう。

 

 未来の自分達の凄絶な最期を目の当たりにした、22歳のオッペンハイマーは悪夢から醒めようと、髪を乱暴に掻き回す。頬を拳で打ち、頭を地面に強く打ちつけた。

 しかし、強く痛めつければ痛めつけるほどに、血と死の臭いは実感をいや増していき、口の中では鉄の味が広がった。

 胃から込み上げるものを感じ、口を押さえる。だが、間に合わず、盛大に吐いた。吐瀉物を出し切り、口元を拭って、辺りを見回す。いつのまにか、薩摩藩士4百余名が22歳のオッペンハイマーを取り囲んでいた。

 22歳のオッペンハイマーは、振り下ろされた刃に映る自分に問いかける。

「私は一体どうすればよかったのか」


 "切り裂きジャック"は、実験の大一番に取り掛かっていた。緊張から、刃物を持つ手に力が入る。今度こそ成功する筈だ。赤子を扱うように、慎重に、慎重にメアリー・ジェーン・ケリーの胸部に刃物を滑り込ませていく。

 胸腔を切開すると、右肺の下半分は破壊され、引き裂かれた。

 目標は、無傷の左肺の奥にあった。ひと呼吸し、腕を伸ばす。

 心臓は、宝石のように絢爛とした赤を保っていた。心臓の堂々たる美しさとは対照的に、その上には胃から溢れた食物が醜く乗っていた。部分的に消化された魚やジャガイモだ。"切り裂きジャック"は、それらを払い落とすと、丁寧に真紅の心臓を取り出す。輝きに、思わず感嘆した。あゝ、綺麗だ。

 "切り裂きジャック"は、鼓動を続ける心臓を暫く宝物のように眺め、22歳のオッペンハイマーに手渡した。何処かの誰かの声がした。

「世間も新聞も、"切り裂きジャック"を神出鬼没の怪物かのように扱い、想像の力でもって、新たな神話を創造しようとしている」

「今や道ゆく誰もが"切り裂きジャック"になれる時代だ」

 オッペンハイマーの手の中で、心臓の鼓動が速度を上げる。加速し続ける心臓は、いつしか高熱を帯び、次第に、灼熱の光球へと変貌した。

 薩摩藩士が振り下ろす刃の中で、オッペンハイマーが口を開く。

「"われ世界の破壊者たる死とならん"」


 地平線がかつてない閃光で照らし出された。

 光の洪水は白色から黄色へ、次いでオレンジに変わり、空を塗り潰していく。

 爆発から1分半後、世界を破壊するような大きな爆発音が轟き、次いで、人口の雷の響きが続いた。

 そして、煉獄の劫火が世界を燃やし尽くさんとする勢いで範囲を広げ、あらゆる人も物も一瞬にして灰燼へと変えていった。

 光球は地獄のような赤へと変わりながら急激に膨張し、大爆発を引き起こした。ビッグバン。誕生した宇宙では銀の流星が高速で飛び回り、どこまで見渡しても鮮やかな紫が支配していた。

 流星に弾かれ、オッペンハイマーの帽子が数度回転して、落下する。メアリー・ジェーン・ケリーの真下に広がる、61平方センチメートルの赤黒い血の海へとゆっくりと着地した。


 "切り裂きジャック"はメアリー・ジェーン・ケリーの左腿に刃物を当てると、膝までの皮膚を筋膜や筋肉ごと丁寧に剥ぎ取り、限界まで薄く引き伸ばして、立派な羊皮紙へと仕立て上げた。

 赤い血が固くこべりついた刃先を、吐き気がするほど濃い紫の広がる宇宙にチョンチョンと浸し、インクを好みの色合いに調整していく。ようやく納得すると、刃物をやや寝かせ気味に構え、左腿製の羊皮紙の上を滑らせた。

 軽やかに滑る刃先から、夜と朝の混じり合った狭間の色の線が生まれ、文字を形成し、文章として紡がれる。書き出しは決めていた。

「地獄より(From Hell)」

 

 書き終えた"切り裂きジャック"は、手紙を一読し、刃物を置いた。角を重ねて、几帳面に手紙を折り畳み、用意していた封筒に押し込む。

 "切り裂きジャック"はメアリー・ジェーン・ケリーの陰部をスーッと切り開き、その裂傷をポスト代わりにして手紙を投函した。手紙は飲み込まれ、いつかの時代の、何処かの誰かの元へと配達されていった。

 誰が読むかはどうでもよかった。読んだ者が、新たな世界を見せてくれればいい。想像力で現実を好き放題に改変することも、世界を弄ぶことも、現実を取り込むことも、そもそも、すべてを想像から生み出すことも、何だってできる筈だ。


 全てを終えた"切り裂きジャック"が、扉を開く。純白の陽光が入り込み、地獄と化した部屋を慈悲深く包み込む。夜が明けていた。強烈な眩しさで、扉の外の世界がどうなっているのかを目視することは叶わなかった。

 "切り裂きジャック"は足を踏み出し、新たな世界へと消えていく。

 それっきり、彼がこの部屋に戻ってくることはなかった。

 

 

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三位一体の実験 真狩海斗 @nejimaga

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