鬼の手にも菫

宵宮祀花

鬼の嫁入り

 遠くで、追儺の声がする。

 鼓を鳴らし、町を練り歩く人たちの声が。


 町外れに一人隠れ住む娘は、大層美しかった。雪のような肌と髪、南天の実の如き深い緋色の瞳が、娘の美しさを妖しげに引き立てている。僅かな曇りもないその姿を人々は鬼の娘だと恐れたが、しかし、恐れのあまりに暴力という形で娘の身に災難が降りかからなかったことだけは幸いであった。


 ある日、町に鬼の噂が流れた。都で鬼が出て、陰陽師に追いやられた鬼が何処かの町へ逃げたのだという噂だ。そんな折り、丁度町に行者を名乗る男が現れた。男は、噂話を集めると人々にこう告げた。


「鬼は、誤って人の世に落ちた我が子を探して彷徨っている。子を返せば、町は難を逃れるであろう」


 町人の誰もが、同じ顔を思い浮かべていた。誰一人として迷わなかった。

 善は急げとばかりに屋敷を訊ね、娘が怯えるのも構わず一等美しい着物を着せると急拵えの御輿に乗せて、追儺の儀式をしながら山奥にある鬼の住処へ置き去った。

 扱いこそ丁重であったが、結局のところは体の良い生贄である。

 鬼の住処とされる山奥の屋敷は、ひどく荒れ果てていた。戸口は傾き、屋根は所々穴が空き、壁には蔦が張り付いている。とても娘が生きていける場所ではない。

 絶望し、一人泣いているうちに縁側で眠ってしまい、いつの間にか日が暮れた頃。大地を震わす嗄れた声がした。


「この声は……」


 恐れながらも玄関口から顔を覗かせれば、其処には岩山が如き大鬼がいた。灰色の肌も、頭上の角も、鋭い牙も、人にはあり得ないものだ。

 鬼は娘をぎょろりとした目で見下ろすと、地鳴りのような声で問うた。


「儂の屋敷に、何故人間の娘がいる。盗むものなど無かろうに」


 娘はすぐさま地に手をついて頭を下げ、伏したまま震える声で答える。


「盗みなど、とんでもないことで御座います。私は此処へ送られて参りました。最早町に帰る場所など御座いません。何卒貴方様のお側に置いてくださいまし」


 答える声がないまま幾許か過ぎ、娘の心が不安と恐怖で埋め尽くされようかという頃。鬼は「ふむ」と、短く漏らした。


「つまり、嫁に来るということか」


 娘は驚き、思わず顔を上げてしまった。

 だが鬼はそれを咎める様子もなく、それどころか娘の前にしゃがんで、可能な限り小柄な娘と目を合わせようとした。


「儂に嫁御が来るのは初めてだ。娘よ、名を何という」

「名は……ありません。誰も呼ばなかったものですから、知らないのです」


 あれやこれと物のように呼ばれた記憶ばかりで、名を呼ばれた覚えが娘にはない。ならばと名付け札を探したが、何処にもなかった。

 自分は親にとってさえ人の子でないのだと、絶望した記憶が蘇る。


「そうか。だが、呼ぶ名もないのは困る。……おお、そうだ。菫。菫はどうだ。その白い髪と肌は儂の屋敷に咲く菫とよく似ておる」

「え……?」


 この荒れた屋敷のいったい何処に咲く花があるものかと娘が見回せば、其処は全く別世界であった。天上に召し上げられたかと思うほど幻想的な大屋敷で、見渡す限り美しい花が咲き、立派な松や梅の木も植えられている。

 そして鬼が言っていた白い菫は、屋敷の片隅にひっそりと咲いていた。あんなにも愛らしい花の名を頂けるとは思わず、娘の胸に甘やかな熱が灯る。


「そうと決まれば、祝言を挙げよう。おまえたち、儂の元に嫁が来たぞ!」


 雷鳴かと思うほど大きな声で、鬼が叫ぶ。

 すると屋敷の奥で忙しなく何者かが動き回る音がし始めた。

 目眩がするのをどうにか堪え、鬼のあとに続いて屋敷に入ると、娘と同じくらいの身長の小鬼が駆け寄ってきた。絵巻物で見るような幼子の額に小さな角を足した姿の小鬼は、鬼に向かって丁寧に頭を下げて言った。


「お帰りなさいませ。此度は、お嫁さまをお迎えになられたとのこと。心よりお喜び申し上げまする」

「うむ」

「ふ、不束者では御座いますが、何卒宜しくお願い致します」


 鬼の傍らで、娘が淑やかに頭を下げる。

 その日は夜通し宴が行われ、娘が鬼の膝に小さな頭を乗せて眠ってしまってからもひたすら賑やかであった。


 * * *


 娘は白い指先を震わせ、いまにも泣き出しそうな顔で俯いていた。

 何故なら『外』から追儺の声が聞こえてくるためだ。鬼を追いやり、人の世を作る行事が、娘は昔から好きになれなかった。春を告げる梅の香りも、いまは何処か遠く感じられる。


「いま帰ったぞ!」


 雷鳴の如き声が、屋敷中に響き渡る。

 すぐさま駆けつけ、娘は三つ指をついて出迎えた。


「お帰りなさいませ、旦那様。お待ち申し上げておりました」

「うむ。今日はな、何故か大量の炒り豆が手に入ったのだ。皆で食おう」


 磊落な笑い声と共に差し出されたものは紛うことなく炒り豆であった。追儺の豆をよもや土産として持ち帰るとは。小鬼は困ったように笑いながらも「縁側に座布団をご用意致します」と告げて下がった。


「旦那様」


 お茶と共に炒り豆を頂きながら、娘は囁く。


「素敵な旦那様に恵まれて、わたくしは幸せ者で御座います」

「うむ」


 大きく頷いた鬼の、岩の如き灰色の肌が、仄かな春色に染まっていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼の手にも菫 宵宮祀花 @ambrosiaxxx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ