女騎士は落とせない

こばやしぺれこ

 メアリィ・スーにとって、男を虜にするのは造作もないことだった。

 何せ、メアリィには彼らがどんな女を望んでいるのかが手に取るようにわかるのだ。

 メアリィには記憶があった。この世界の、この国の、この学園で過ごした一年間の記憶が。ただの一年ではない。何度も繰り返し、何人もの男と迎えたいくつもの幸福な「エンディング」の記憶だ。

 メアリィはこの世界が「ゲームの中」であると知っていた。「メアリィではなかった頃の自分」が何度も遊び、夢に見た世界。

 そして今、メアリィは自分自身が「ゲームの主人公」になったのだと知っていた。

 男爵家の庶子という、貴族子女の中でも最も下の位であっても、メアリィは無敵だった。


 王国中の貴族子女が集う学園に入学して三ヶ月で、メアリィはこの国の王子を筆頭に、宰相の息子、騎士団長の息子、国一番の商会の跡取り、平民の子でありながら大魔法使いの養子になった少年、侯爵家の次男とを、次々に「攻略」していった。

 彼らは皆メアリィを一番に愛すると誓い、メアリィのために争わないと誓ってくれた。メアリィは彼らから日々愛を囁かれ、贈り物を受け取り、幸福な学園生活を過ごしていた。

 メアリィは入学して一年後にあるゲームのエンディングを迎えずに「ハーレムエンド」を成し遂げたのだ。これも「メアリィではなかった頃の自分」が複雑な攻略法を暗記するほどにゲームを繰り返し、引き継ぎ要素である「メアリィのステータス」を限界まで上げていてくれたからだ。

 メアリィは努力の結晶である美男たちからの寵愛を余すことなく享受した。


 ゲームでは可視化されていたメアリィのステータスは、今のメアリィには見ることも感じることもできない。しかしどんな授業の内容ですら一度で理解し、本来であれば扱えないはずの高等魔法を扱えるのだ。メアリィの能力が頭抜けていることは一目瞭然だった。

 それに加え、「攻略対象」ではないはずの男子生徒たちからも日々熱い視線を注がれ、時には愛を告白されるのだ。学園の誰よりもメアリィは魅力的で美しかった。

 メアリィの学園生活は順風満帆だった。時には些細な波風も立ったが、メアリィを溺愛する男たちがどんな問題も即座に片付けてくれた。

 メアリィの身に降りかかる問題のほとんどは、メアリィを敵視する女子生徒がもたらしていた。メアリィの魅力は男子生徒だけではなく女子生徒にも及んでいたが、どうしても一部からは顰蹙を買っていた。

 攻略対象である男子生徒──王家や有力貴族の跡継ぎである彼らの、婚約者たちだ。

 貴族は早くから婚約を済ませる。場合によっては生まれる前に決められるその婚姻は、家同士の損得勘定で結ばれる愛のないものだ。もちろん当人たちの相性や努力によって後から愛が芽生えることだってある。

 メアリィに心酔する男子生徒たちはメアリィに愛を誓った。彼らは自身の婚約者を形だけのものと断言し、婚約の解消を望む者すらいた。

 婚約者たちの事情は様々だ。幼い頃に定められた婚約者を真剣に愛していた者もいる。貴族家に生まれた定めとして半ば諦めに近い感情を持っていた者もいる。

 その誰しもに、プライドがある。

 下位貴族の、それも正妻ではなく愛人との間にできた子に婚約者を奪われたとあれば、怒り心頭に発するのは当然だ。

 ある者は婚約者を取り返すべくメアリィの排除を目論み、ある者は傷つけられた自身の矜持を慰めるべくメアリィを辱めようとした。

 その全ての企みは彼女の婚約者たちによって阻止され、逆に彼女たちが排除され、辱められる結果となった。

 彼女たち怒りと嫉妬は、男たちのメアリィへの思慕を強固にするだけだった。

 「女の醜い嫉妬心」を目の当たりにした男たちは、仕返しをせずただ健気に耐えるだけのメアリィへ庇護欲を募らせた。子猫のように瞳を潤ませ、自分たちへ縋るメアリィの方が、眦を吊り上げ自分やメアリィを罵る婚約者よりもよっぽど美しく見えたのだ。


 ──他人のものに手を出したメアリィと、婚約者がありながらメアリィへ鞍替えした男たちの方が悪辣であるというのに。


 メアリィの記憶の中では、王子の婚約者である侯爵令嬢ユリアンナが一番苛烈で過激であるはずだた。記憶通りであれば、ユリアンナはメアリィが王子に挨拶しただけで激怒し、実家の権力でもって女子生徒を味方につけ、メアリィを爪弾きにしていたはずだ。王子とのイベントが進むにつれ嫌がらせは過激になり、ついには暗殺者を仕向けるまでになっていた。

 今のユリアンナは全く違った。メアリィが王子へ接触しても、公然と王子の隣にあっても、まるで興味を示さなかった。かといってメアリィを無視することはなく、他の女子生徒と同じように扱った。

 では裏で何かを画策しているのかと思えばそんなこともなく。むしろメアリィに婚約者を奪われた令嬢たちを慰め、復讐を諌めることもあった。

 ユリアンナは王子のことなど眼中にない様子で勉学と社交に励んでいた。成績は優秀で素行もよく、いつも穏やかに微笑んでいる。令嬢の中の令嬢、それがユリアンナだった。

 その側には、いつも一人の女騎士が侍っていた。

 メアリィはその女騎士を「知らない」。女騎士はメアリィの知る「ゲーム」には影も形も存在していなかった。

 メアリィに心酔する男たちへそれとなく聞いてみたところ、彼女はユリアンナより二つ年上の、古くからユリアンナの侯爵家へ仕える騎士家の令嬢であるとわかった。幼い頃からユリアンナの遊び相手となり、長じてからはユリアンナに忠誠を捧げ専属の護衛騎士となったらしい。

 この国には少ないながらも女性騎士はいる。彼女らは男性の立ち入れぬ場で王妃や姫君を護衛する。ゆえに形だけの存在ではなく、厳しい訓練を科され、種々の儀礼や礼節を学んだ男性と同等の正規の騎士だ。


 ユリアンナの護衛騎士──リリヤは、学園のどの男よりも凛々しく、優雅で、強かった。

 すらりとした長身に、長い手足。短く整えられた髪は少年のようでいて、その襟足から覗く細い首は少女めいている。しかし細剣の腕前は凄まじく、同年代の男性騎士では彼女には敵わないほどだ。

 男子生徒はそんなリリヤに苦手意識を持つ者が多かったが、女子生徒は男子にはない優美な立ち居振る舞いに夢中になる者が多くいた。

 恋愛めいた感情や純粋な憧れを多く向けられる中、リリヤの視線の先にあるのはいつだって侯爵令嬢ユリアンナただ一人だった。

 ユリアンナもそれを心得ているのだろう。いつだって、どこにだって、ユリアンナはリリヤを帯同していた。本来であれば婚約者である王子がエスコートせねばならない夜会にすら、ユリアンナはリリヤのエスコートで現れたこともある。──王子がその夜会を突然欠席したのは、メアリィが王子との秘密の逢瀬をねだったからであるのは余談だ。


 メアリィはユリアンナが羨ましくてたまらなかった。

 王国ではまだまだ少ない女騎士を、それもとびきり強く美しい彼女を、見せびらかすかのように連れ歩けるなんて。王妃や直系の姫ですらできるかもわからない特権だ。

 それに麗しの女騎士からは忠誠を捧げられているのだ。騎士が忠誠を誓うのは仕える家の当主──侯爵家であれば現当主の侯爵に対してが慣例だ。当主でも跡継ぎでもない、ただの令嬢に対して捧げられる忠誠なんて、物語でしか見たことがない。

 ──だからこそ、学園の女子生徒たちはユリアンナとリリヤの関係を神聖視するのだ。まるで物語のような令嬢と女騎士。二人の並んだ姿が絵画のように美しいのも物語性に一役買っている。

 ユリアンナとリリヤの絆には、男女の肉欲も、家同士の利益も絡まない。確かにリリヤの生家はユリアンナの家に仕える騎士ではあるが、リリヤは女だ。他家に嫁ぐなり奉公に出るなり道はあった。その全てを選ばず、リリヤはただ「ユリアンナを護るため」に、自ら騎士の道を選んだのだ。

 ユリアンナとリリヤの絆は、誰もが認める『本物』だった。


 リリヤのことを知った途端、メアリィにはメアリィの周りに侍る男たちがくすんで見えてしまった。どんな贈り物もつまらないものに思え、愛の言葉の全てが薄っぺらく思えてしまった。

 メアリィはユリアンナのように専属の護衛騎士を欲した。それもただの騎士ではない。メアリィに心からの忠誠を捧げ、どの女よりも美しく、どの男よりも強いとびきり特別な女騎士だ。


 メアリィはユリアンナの護衛騎士、リリヤを「攻略」することにした。

 とはいえリリヤはメアリィの知るゲームには存在しない。もちろん、攻略方法など存在しない。

 だがメアリィには自信があった。何せ、メアリィは「主人公」だ。それも、全てのステータスを限界まで上げ、ハーレムエンドまで成し遂げた完全無欠のヒロインだ。今までの知識と経験でどうにでもなると楽観していた。

 まずは劇的な出会いを演出した。ユリアンナの用事でリリヤが一人になるところを見計らい、彼女の目に入る位置で街路樹に登った。風で飛ばされ、枝に引っかかった大切なリボンを回収するためにだ。もちろん、そのリボンはメアリィがわざと飛ばした。

 目論み通り、リリヤはメアリィを助けてくれた。

「御令嬢がすることではない」と嗜めながらも、メアリィが木から降りるのを介助し、亡き母からの贈り物であるリボンの来歴を微笑みながら聞いてくれた。

 メアリィを助けたリリヤの手は騎士らしく所々が固く、しかし指は細く長く繊細で、肌は絹のように滑らかだった。


 それ以来、メアリィは「お礼」と称し、度々リリアに接触した。もちろんユリアンナの目が無い場面で、だ。

 ユリアンナとリリアは年齢が違い、学園ではそれぞれに授業がある。リリアには騎士としての鍛錬の時間があり、ユリアンナには侯爵令嬢として、また婚約は成されたままであるため王子の妃としての教育を受ける時間があった。

 メアリィは他の騎士たちからリリアの休憩時間を聞き出し、偶然を装って軽食や飲み物を差し入れた。他の女子生徒たちに紛れ、リリアの鍛錬を見学し誰よりも大きな声援を送った。小動物が好きらしいと小耳に挟んでは、魔法や薬を使い小動物を手懐けリリヤに披露した。

 メアリィがリリヤに夢中になるのを、王子や他の男たちは嗜めた。メアリィがリリヤに夢中になればなるほど、彼らへ割かれる時間が減るのだ。当然のことだろう。もちろんメアリィは言い訳を準備していた。

「年の近い、同性のお友達ができたのが嬉しくて、つい……でも本当に大好きで結婚したいのはあなただけ」

 そう囁いて口付けのひとつでもしてやれば、全員が納得した。


 メアリィは順調にリリヤとの絆を育んでいた、つもりだった。


 十分にリリヤとの関係は深まったとメアリィは確信していた。ゲームであればイベントスチルであろう場面が幾度もあったし、リリヤがこちらへ向ける視線は柔らかく慈しみに溢れているように見えた。

 だからメアリィはリリヤに尋ねた。

「もし私が王子の正式な婚約者になったら、私の護衛騎士になってくれない?」と。

 王子が婚約者であるユリアンナではなくメアリィに夢中であるのは公然のことであったし、婚約の解消と新たな婚約も目前ではないかとの噂も広まり尽くしていた。

 確かにメアリィは男爵家の庶子という王家へ嫁ぐのには適さない身分だ。しかしメアリィ自身の能力は高く、どこか高位の貴族家が養子に取れば、王家も首を横に振らないだろうと言われている。

 だからこの問いはけして夢物語ではないはずであった。

「それはできない」

 とリリヤはメアリィの願いを一蹴した。

「私が剣を捧げるのはユリアンナ様ただ一人。忠誠を誓う相手をおいそれと変えるのは、騎士の風上にもおけぬ振る舞いだ」

 その時メアリィは悟った。リリヤがメアリィに優しかったのは、リリヤが騎士であったからであり、メアリィを特別視していたのではなかったのだ。リリヤがメアリィに向ける優しく慈しみに溢れた瞳は、「騎士が護るべき市民」に向けたもので、けしてメアリィ個人に向けられたものではなかった。

 思えば、メアリィがリリヤに会いに行くばかりで、リリヤ個人がメアリィを訪ねたり、手紙や贈り物をくれたことは一度たりともなかった。メアリィが話しかければ相槌はあるが、メアリィの質問に答える以外、リリヤが積極的に話しかけてくれたことなどなかったのだ。

 ようやくメアリィは自分の思い違いに気付けた。


 冬の終わりが近付き、ゲームのエンディングイベントである「新年の夜会」が目前に迫る頃だった。


 メアリィは諦められなかった。

 一年の締めくくりと新たな一年の始まりを祝う夜会は学園で行われる。春に学園を去る卒業生へのお祝いとお別れ会を兼ねた学園の行事だ。ゲームではこの夜会に最も好感度の高いキャラと参加することになる。

 王子はその夜会でユリアンナとの婚約の解消、そしてメアリィとの新たな婚約を発表すると約束していた。これは他の男たちも納得の上での婚約であり、意義の申し立てや邪魔は入らないはずだ。

 メアリィにとってはハッピーエンドであるが、それではメアリィは満足できなかった。

 このままでは、リリヤがユリアンナの護衛騎士のまま終わってしまう。仮に王子との婚約を失ったユリアンナが侯爵家を出されても、ユリアンナに忠誠を誓ったリリヤはユリアンナと運命を共にすることを選ぶだろう。

 だからメアリィは王子へこう吹き込んだ。

「リリヤのような優秀な女騎士は、いずれ王妃となる私の護衛騎士にふさわしい」と。

 同時に、

「実は今まで受けていた数々の嫌がらせはユリアンナが影で令嬢たちを唆して行わせていた」

「真の黒幕はユリアンナで、令嬢たちはメアリィと同じ被害者だ」

 とも告げた。

 もちろん真っ赤な嘘だ。元婚約者に未練が多そうな者、またどんな手を使ってでも社交界に返り咲きたい者を慎重に選び、メアリィが唆して嘘の手紙を書かせた。

 メアリィの告発は王子だけではなく他の男たちも色めき立たせた。彼らは彼らなりに、元婚約者へ罪悪感を抱えていたのだ。彼らがメアリィへ心変わりしたせいで、元婚約者たちは嫉妬に狂い罪を犯した。彼女たちが社交界や実家から追放されたのは、元を辿れば男たちのせいなのだ。

 それが実は「ユリアンナに唆されたのが原因だった」となれば、全ての罪はユリアンナがかぶるべきなのだと転化できる。

 有力貴族の息子たちである彼らにも後押しされ、王子は夜会でユリアンナを告発するとメアリィに約束した。

「罪を犯したのはユリアンナさまだけです。どうかリリヤさまは……」

 もちろんわかっている、と王子は頷いた。


 夜会の日。常日頃は似通った制服に身を包む生徒たちが、この日だけは煌びやかな装束に身を包む。

 メアリィは王子から送られたドレスを纏い、王子のエスコートを受け会場に入った。

 ユリアンナはリリヤのエスコートだ。

 小さな社交界である学園では、ほとんどの事柄が学生の自主性に委ねられている。夜会の主催も学園の生徒会だ。

 夜会は生徒会長である王子の挨拶から幕を開ける。

「今日は皆に聞いてもらいたいことがある」

 卒業の挨拶や集まった生徒たちへの感謝や労いもそこそこに、王子はユリアンナとの婚約の解消、メアリィとの新たな婚約を声高に宣言した。

 生徒たちの視線が一点に集まる。そこには今まさに婚約を解消された侯爵令嬢ユリアンナの姿がある。

 ユリアンナは静々と歩み出る。生徒たちが自然と場所を譲り、神話の一場面を再現するかのように道が作られる。

 優雅な一礼。ユリアンナの傍らには、鋭い視線のリリヤが寄り添っている。

「王家からは何の知らせもございませんでしたが……お望みとあらば、謹んで承りますわ」

「貴様は社交界の、いや王国の隅にすら置けぬ極悪人だ。すぐにでも王家から沙汰が下るだろう」

 続けて語られる「侯爵令嬢ユリアンナの企み」は、生徒たちに少なからぬ衝撃を与えた。貴族師弟で構成される学園の生徒たちは、メアリィの魅力に当てられながらも「婚約者のある男子生徒に近付く女子生徒」に良い感情を抱いていなかった。それが王子ともなれば尚更、「気品ある振る舞い」を求められる。どんなに魅力的な相手であろうと、家同士の契約である婚約を蔑ろにしても良い理由にはならない。

 それが、ユリアンナに瑕疵があったとなると、途端に「性悪な婚約者に辟易としていたかわいそうな王子様」に見えてしまう。

 たとえ婚約という契約が感情を抜きにした厳格なものであっても。

 王子の告発を受けながら、ユリアンナは形の良い唇に浮かべた笑みを崩さない。証拠らしい証拠が手紙一枚であるという余裕の現れにも見える微笑みだ。むしろいつでも剣を抜ける位置に控えるリリヤの方が、王子に対し嫌悪を露わにしているくらいだ。

 そんなリリヤに王子の視線が向けられる。

「その女との婚約解消に伴い、リリヤ! 君には我が婚約者の栄誉ある護衛騎士の任を与える!」

 王子から突然に話を振られ、リリヤは表情を消した。

 ユリアンナの護衛騎士であるリリヤは発言の許可をユリアンナへ伺い、ユリアンナは鷹揚に頷いた。視線だけで会話するような二人をメアリィは苦々しく見つめている。

 許可を得てようやくリリヤはユリアンナに並び、少々大仰な礼を取った。常とは違う、慇懃無礼を絵に描いたような態度だ。

「失礼ながら、私はユリアンナ様の護衛騎士であります」

「そんな女の護衛など不要だ」

「私の家は代々ユリアンナ様の家に仕える騎士。王家にはもっとふさわしい騎士がおりましょう」

「リリヤさん、その人は悪い人なの!」

 不躾にメアリィがユリアンナを指差した。貴族同士でも無礼であり、宣戦布告とも取れる振る舞いだ。ほぼ平民と言えるメアリィの行いであれば、即刻指を切り落とされても文句は言えない。

 柔らかな笑みを崩さぬユリアンナの傍らで、リリヤは努めて表情を消している。

「このままだと、あなたまで罰を受けてしまうわ」

「私の主人が罰を受けるのであれば、騎士である私が運命を共にするのもまた定め。私は喜んでユリアンナ様と罰を受けましょう」

「そんな」

 悲痛な声を上げ、メアリィは眉を寄せる。大きな瞳は今にも大粒の涙を落とさんばかりに潤んでいる。

 王子が気忙しげにメアリィを見やり、肩を抱く。強い視線はリリヤとユリアンナとを睨むが、二人は動じない。

 沈黙に焦れてか、王子は胸を張り、声を上げた。

「であればこれは命令だ! 貴様はこれより我が婚約者メアリィの護衛騎士となれ!」

 振るわれた強権に騒動を見守る生徒たちが息を呑む。

「……それは、王家直々の命令であると受けてよろしいのですね?」

「そうだ。私の言葉は王家の言葉。背くのであれば貴様の家諸共処断する」

「承知いたしました」

 リリヤは静かに歩み出た。誰もが彼女は膝を折り、王子──王家へ恭順を示すものだと思い込んでいた。

 果たしてリリヤは腰に下げていた細剣を抜いた。儀礼用のものではない、丁寧に研がれ、手入れされた真剣だ。

 突如晒された白刃に、周囲から押し殺した悲鳴が上がる。

 凶器はひたりと細首に当てられた。誰でもない、リリヤ本人の首に。

「私は王命に背きます。我が剣はユリアンナ様ただお一人に捧げる剣。たとえ殿下とその婚約者と言えども他の者に捧げるわけには行きません」

 豪奢なシャンデリアの灯りに照らされ、白銀の刃は鋭く煌めく。

「王命に背くこと、この命を持って償わせていただきます」

 新雪のごとき白い肌に、刃がぶつりと食い込んだ。

 溢れる鮮血は何よりも赤く、白い肌を流れるその色は最上の宝石にも劣らぬ鮮やかな色をしていた。

 リリヤの細剣はリリヤの生家に代々伝わる業物で、刃の上に乗せた紙が自らの重みで真っ二つに切り裂かれるほど鋭いと言われている。

 騎士とはいえ、女の細首を断ち切るなど容易い。そのはずだった。

 リリヤの刃は、彼女の皮膚を薄く切っただけに止まっていた。細剣の動きを止めたのは、たおやかな指。


「ユリアンナ様!」


 その手の持ち主を認めたリリヤは、この時初めて感情を見せた。

 純粋な恐怖。それは己が命に代えても守ると誓った者へ、今まさに危機が迫る時の感情だ。

「ダメよリリア。私がいいと言うまで死んではいけないと言ったじゃない」

「ユリアンナ様、手が!」

 ユリアンナはリリヤの首に当てられた刃を握り込んでいた。夜会のドレスに合わせた絹の手袋では手指を守ることなどできず、鮮やかな血が淡い色の絹を緩やかに汚していく。

 苦痛からは縁遠い貴族の令嬢が、どうして手指を切り裂かれながら表情を崩さずにいられるのだろうか。ユリアンナは花のような微笑みを寸分も崩していない。

「手を、どうかお離しください!」

「ではリリヤ、あなたもこの剣を首から離してちょうだい」

 リリヤの震える手が細剣の握りから離れた。それをしかと見届け、ユリアンナは白刃から手を離した。

 鋭い音を立て落ちる細剣。

 家宝である剣に一瞥もくれず、リリヤは泡を食ってユリアンナの手を取った。滴る血に顔色を失くし、躊躇なく自らの礼服を割いて傷口に当てる。

「誰か! 治療術師を!」

「平気よ、ちょっと切っただけ」

 リリヤに傷口を押さえられた時、ようやくユリアンナは顔を顰めた。

「いいえ、いけません! すぐに手当てをしなければ」

「それよりリリア、首を」

「私は平気です! こんなもの、放っておけばいいんです」

「だめ、見せて」

 リリヤの首筋についた一条の傷は未だ血を流しているが、深くはない。それを確認し、ユリアンナはふと表情を緩める。

 流血の惨事となった会場はもはや収集がつかない騒ぎとなっている。参加者の誰かが呼んだのであろう、教師陣と学園の警備兵が続々と会場へ傾れ込む。

 血を流すほどの怪我を負ったユリアンナとリリヤは、治療のためひとまず警備兵に付き添われ退場した。

 夜会の主催であり、この場の責任者である王子へ、学園長が事情を問う。顔面蒼白となった王子がしどろもどろになる中、メアリィは人垣を掻き分け走っている。

「リリヤさん、──リリヤ! どうして私を選ばないの? おねがい、行かないで!」

 メアリィの叫びは生徒たちのざわめきに埋もれ、誰にも届かない。





 学園の夜会で起きた事件は学園内で処理しきれるはずもなく、少なくない貴族家と王家を巻き込む形となった。

 ユリアンナの父親である侯爵は、不確かな情報によるユリアンナへの糾弾と勝手な婚約の解消を正式に王家へ抗議した。王家は首謀者であるメアリィと王子、そして協力者となった貴族家の子息たちを処罰することで侯爵家への詫びとした。

 王子とユリアンナの婚約は、侯爵家の側から改めて破談する運びとなった。

 意外にも、王家は王子とメアリィの婚約を正式なものとした。とは言え、学園卒業を待って行われるはずであった立太子は行われず、王子は「病気療養」を理由とし、学園を退学となったメアリィと共に離宮へ押し込められることになった。

 王家は王太子の選定を一からやり直すこととなり、身分の低い第二妃の子や神童と噂される王弟の第一子がその候補となっている、らしい。


「あの王子と取り巻き連中の処罰が軽すぎると思うのです」

「そう?」

 穏やかな日差しが差し込む、侯爵家の庭にて。ユリアンナは咲き始めた薔薇に目を細めながら、午後のお茶を楽しんでいた。

 護衛騎士であるリリヤは、本来であればユリアンナの背後に控えるのが役目であるが、今日はユリアンナの願いによりその対面に腰を下ろしている。

 と、言うよりも、この侯爵家の敷地内に限っては、リリヤはユリアンナの背後ではなく隣や正面に位置することの方が多い。ユリアンナが、リリヤとの関係を主人と騎士としてではなく、対等で親しいものとして望んでいるのだ。

 この世界に生まれ落ち、物心がつき、リリヤを知ってからずっと。

「どうせなら国外にでも追放してしまえばよかったのです。それができないのであれば、最北端の山奥にでも領地を与えて、放っておけば」

「一応は王子さまよ。王家の血を他国に放り出すなんてもっての外だし、それに『もしも』があるじゃない?」

「……まだ『アレ』が国王になる可能性があるのですか?」

「『アレ』だなんて言ってはいけないわ。正当な王家の男子なんですから」

 諌めつつも、ユリアンナは鈴を転がすような声を上げ笑っている。

「流行り病はいつ起こるかわからないし、それにあの人が改心しないとは言い切れないじゃない?」

「でも『勘違い令嬢』が正妃ですよ?」

「もう、口が悪いわリリヤ」

 ユリアンナは片手で口元を押さえる。

「すみません」とリリヤは言うが、表情は涼しげだ。

「メアリィさんも『学園では』優秀な方だったじゃない? 離宮で鍛えてもらえれば、妃としてそれなりに見られるようにはなるかもしれないし、そうでなくとも『使える』人になってくれれば王国の益になるわ」

「そうは言っても……ユリアンナさまは、それでいいのですか?」

「そうね」

 ユリアンナは薔薇の蕾が綻ぶように、ふわりと微笑んだ。

「私は、あなたがいればいいわ」

 そう言って行儀悪くテーブルの上を横切った手は、リリヤの指先に指を絡めた。

 リリヤの剣を握るための手を包む白魚の指先。その肌は絹のように柔らかく、春の日差しのように温かい。

 頬へわずかに朱を乗せ、リリヤは視線をユリアンナの手に落とした。

「本当に良かったのですか?」

 同じ問いを繰り返したかのような質問の意味を、ユリアンナは正確に悟っている。

「いいの。リリヤと同じ傷だもの」

 ユリアンナの細めた瞳はリリヤの首に向けられている。邸宅内ということもあり、今は簡素だが質の良いシャツ一枚の首元。そこにはよく見なければそうとわからない、うっすらとした傷痕が残されている。

 ユリアンナの手のひらに残る傷と同じ、細剣によりできた傷だ。

 魔法であれば跡形もなく消せる傷の治療をユリアンナは拒んだ。侯爵家であれば治療費などいくらでも払えたし、王家に請求することだってできたのに、だ。

 ユリアンナが治療を拒んだのだ。当然リリヤも傷をそのままにした。

 鋭利な刃物でできた傷の治りは早かったが、どうしても痕は残る。ユリアンナとリリヤには、同じ時にできた同じ傷が残った。

 そのことはユリアンナの潔白と共に社交界へ密やかに伝わり、ユリアンナとリリヤの親密さと高潔な主従関係はより強固なものとして認知された。


 王族の失態により二つの意味で傷ができたユリアンナへ、王家は幾つかの良縁を紹介した。とはいえ、ユリアンナの年頃に近い男子はほとんどがすでに縁付いており、『残りもの』の縁がどの程度侯爵家の益になるかは未知数だ。侯爵は慎重に相手を見定めているようで、ユリアンナの下に釣り書きはまだ届いていない。

「後のことは、お父様にお任せしておけば大丈夫」

「大丈夫……ですかね」

 リリヤは王子との件を未だ引きずっており、王家への不信感が拭いきれないでいる。娘をきちんと愛してくれている侯爵であれば、下手な縁談を組みはしないと思えども。不安は捨てきれない。

 嫁ぐ当人よりもよほど不安げな表情を見せるリリヤの手を、ユリアンナは猫の喉を撫でるように擽ぐる。

「残りもの同士、案外気が合うかもしれないわ」

「ユリアンナさまは残りものなどでは」

「選ばれなかったのだから残りものよ」

 眉を寄せ、リリヤはユリアンナを正面から見据える。自分が傷つけられたかのような悲痛な表情を、ユリアンナはどこか満足げに見返す。

「残りものだけど、あなたは私を選んでくれた。それだけで私は十分」

 きゅ、とユリアンナは指先に力を込める。その手を剣士の握力が力強く握り返す。

 痛いわ、とユリアンナは抗議するが、その手が離されることはない。ユリアンナも振り払うことはせず、ただその手に委ねている。

「結婚なんて家同士の益になるかよ。私の好みなんて関係ないわ。もちろん相手の好みだって。

 どんな人が相手でも、リリヤが一緒にいてくれるなら私は平気よ」

「私は、どこまでもユリアンナさまとご一緒します」

「私が地獄へ嫁ぐとしても?」

「ええ。どこまでも」

 冗談めかしたユリアンナの言葉へ、リリヤは至極真面目な表情で返す。

 ユリアンナは自分の冗談が冗談では済まなかった事例を知っている。自分にその地獄が降りかかるやもしれないことも自覚している。

 だからユリアンナはリリヤを選んだ。──肉欲で己を裏切る男たちの誰でもなく、同性のリリヤを。

 もしリリヤがユリアンナの護衛騎士ではなく、単なる友人の令嬢となってもユリアンナは構わなかった。侍女であっても構わなかったし、何処かへ嫁いでも構わなかった。

 離れてもお互いを一番に思い合うと信じられる間柄であれば。

 母の懇願を振り切って未婚を誓い、常に傍にある護衛騎士としての誓いを立ててくれたのは、ユリアンナには嬉しい誤算であった。

 ユリアンナはリリヤの愛情へ、生涯をかけて応えると決めている。

 つと、ユリアンナは空を見る。学園一の才女であり、奔放な気質を愛されながら、たった一人を求めたがために『バッドエンド』を引いてしまった『ヒロイン』を思う。

「愛は与えてこそ満たされるもの。──際限なく求めてばかりだから、欲に呑まれてしまったのかしらね」

 唐突なユリアンナの呟きは、リリヤには何を指しているのかわからなかったのだろう。首を傾げたリリヤの手を取ったまま、ユリアンナは立ち上がる。

「おさんぽしましょ。庭師の納屋で猫が赤ちゃんを産んだの、知ってる?」

「初耳です! ぜひ見に行きましょう」

「そっとよ、驚かせないように」

 手を取り合ったまま、ユリアンナとリリヤは少女のように駆け出す。庭の隅に控えていた侍女たちの誰も、道すがらで頭を下げる使用人たちの誰も、それを咎めない。


 二人の美しい主従は、今後誰にも引き裂かれることはない。

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