~桜舞う物語~「旅立ちの日に」

あき伽耶

~桜舞う物語~「旅立ちの日に」

 花冷えの朝。

 店の窓の向こうで、満開を過ぎて散り始めた桜が、それでもなお美しい姿をとどめて風に揺れていた。




 皺だらけの両手にミトンをはめて、私はオーブンを開いた。熱気の奥に並ぶパンは、今日もふっくらと焼けて美味しそうだ。若い頃は、大きな鉄板に沢山のパンを乗せて軽々と出し入れしたものだ。でも、もうそんなことはできない。広い鉄板にちんまりと乗ったパンをひとつずつ網へと移した。


 三十代にして逝った夫のパン屋を残そうと、五十余年も毎日のようにパンを焼いてきた。近くにコンビニができてお客さんはめっきり減ったし、私もすっかり齢をとって体が思うように動かなくなってしまった。だから、作るパンの種類も量もずいぶん少なくなった。


 でも今日は十年ぶりに看板商品のカレーパンに取りかかる。きっとこれなら皆が喜んでくれるし、この店の最後を飾るには相応しいだろう。やっとのことでカレーパンを揚げ終え、全身に酷い疲れを感じて椅子にどっかりと座りこんだときだった。


 また、だ。

 胸の奥の辺りが、ぐっと掴まれるような感覚。

 やはり、齢なのだ。


 私は椅子に座りこんだまま、胸の違和感と全身の疲労感が過ぎるのをやり過ごす。暫くは動けそうにない。それなのに頭の中では、陳列や洗い物といった開店準備の手順を忙しく確認している自分に気がついた。


 すこし前の私なら、自分の体が思うようにならないことが悔しかった。けれども最近は、疲れてもなおも働こうとしている、いつまでも気持ちの若い自分をフフと笑ってしまう。


 長い休憩の後、パン屋にしては遅い十一時頃に店を開けた。


 ほどなくして、いつも幼稚園帰りに立ち寄ってくれる健太君親子がやって来た。今日はパパもご一緒だ。礼服を着てちょっと照れた健太君の胸には花がついていた。


「いらっしゃい。卒園おめでとう」


 両親が揃って嬉しいのか、はしゃいだ健太君は二人の間を行き来する。その間にママが健太君の大好きな顔つきパンと食パンを「今までありがとうございました」とレジへ持ってきた。


 私はカレーパンが入った袋をママに手渡した。


「あのね、これ良かったら。私からのご挨拶。実は今日で店を閉めるの」


 困惑して返答に詰まるママと目をぱちくりする健太君に、私は笑顔で言った。


「おばあちゃんもパン屋さんを卒業するの。だから貰ってやって頂戴な」


 私がママと言葉を交わしていると、頬を赤らめた健太君がおずおずと折り畳んだ紙を私に渡してくれた。


「これ、おてがみ! あとでよんでね」


 仲良く帰る親子三人の後ろ姿が、桜の舞う中で小さくなっていく。私にはそれが羨ましい。――「いつか家族で、この綺麗な桜並木を歩きたいな」と話していた夫は、夫婦で懸命に切り盛りしたこの店がようやく軌道に乗ったころ、病で急逝してしまったのだ。


 午後になり、「開いてることは元気な証拠」と小夜さんが歩行車を押しながら来店した。小夜さんは少なくなった私の人生の戦友だ。


 カレーパンの匂いに懐かしいと顔をほころばせたあとで、小夜さんは「とうとう閉めちゃうんだね」と残念そうに溜息を吐いた。


「ええ。数日前に、なんだかね。ああ終わろう、その時だって。自然にそう思えたの」


 小夜さんは私の言葉にじっと耳を傾けて、呟いた。


「そういうもんなのかねえ」


「今まで本当によく働いたわ」


 と、私はしみじみと店を見回して言った。


「旦那さん亡くしてから、奥さんずっと頑張ってきたよ。アタシの足がこうなって、もう生きるのやんなっちゃったときも、奥さん見てたらまだやれるって思えてさ」


 小夜さんの労いが心の芯に沁みて、私の視界はじわりと滲んだ。


 小夜さんはカレーパンの袋を丁寧に鞄にしまうと、歩行車を押して一歩ずつ踏みしめて帰って行った。


 辺りが暗くなる頃、ドアが勢いよく開けられた。夫の年齢をとうに超えた、息子の勉だった。勉は息を切らせて、夫の形見のマフラーを外す。


 私が急に閉店すると伝えたものだから、驚いて駅からずっと走って来たのだろう。勉は以前から、この年齢になってまで店を続ける私を心配してくれていたのだ。


「母さん、今日で店を閉めるって……? 今まで何度言ってもやめなかったのに、どうして……」


「潮時だ、と思えたのよ」


 戸惑っていた勉の表情が、緩む。


「これからは、ゆっくりすればいいんだよ」


 ゆっくりするのは性に合わないと私は思ったが、閉店に安堵する勉には、笑顔だけを返した。


「これ、家族で食べて」


 久しぶりだとカレーパンの袋を受け取る勉に、私の後悔がこぼれた。


「昔、忙しくて弁当も作ってあげられなくて、いつも店のものばかり持たせて、ごめんね」


 勉は目を見張って、大事そうに袋を抱えると口を開いた。


「何言ってんの。僕にとってはこれこそがおふくろの味だよ」


 私の心の中でずっと引っかかっていた、母親としての負い目。

 勉の言葉は、そのわだかまりをすっと溶かしていった。

 

 誰もいなくなった店内で、私はいつも以上に重たくなっていた身体を椅子にゆだねた。じっと座っていると、一日の疲れも店への責任感からも、次第に解放されていった。


 私は、健太君の手紙を開く。精一杯の文字で「おいしいぱんありがと。おおきくなたら、ぱんやさんなりたい」と書かれていた。


 夫から託されたこのパン屋で、私はただただ必死でパンを焼いて働いてきた。食べれば消えてしまうパンだけれど、私がやってきたことは、健太君や小夜さんや勉に伝わっていたのだ。そう思うと自分の人生をちょっとだけ誇れるように思えた。


 手紙から顔を上げると、レジ台の上に勉の置き忘れたマフラーがあった。勉が丁寧に使ってくれているからだろう、長い年月が経っているわりには色褪せていないそのマフラーに、私は手を伸ばして触れた。カシミヤの柔らかく滑らかな手触りも、あの頃とあまり変わらなかった。その感触は、私に夫を強く思い起こさせ、私はまるで夫が傍にいるかのような感覚に陥って、マフラーを撫でながら話しかけた。


「ねえあなた、あなたの想いも私の想いも、誰かが受け取ってくれているのよね、きっと」


 そのとき、ドアの外に人影が見えたような気がして、背格好から勉だろうかと思って私は立ち上がった。すっかり疲れは癒えたようで、いつもとは違って体がとても軽い。


 いや違う、勉ではない。――ああ、この人は……!


 その瞬間、私には全てがわかった。

 なぜ数日前から潮時だと感じていたのかも。

 ドアの外に誰が来たのかも。


 ゆっくりとドアを開けると、そこには。――やはり思った通り。

 静かにドアの外に立っていたのは、穏やかな微笑みを浮かべた、私の夫だった。


 何十年ぶりだろう。私は夫の首に、手にしていたマフラーを捲いた。


「やっぱり、よく似合っているわ。私ね、ずっと会いたかったのよ」


 夫の差し出す手に、私は手を重ね、夫が立っている店の外へと、足を踏み出した。

 私の背中で、音もなく店のドアが閉まった。




 それが合図であるかのように吹き起こった風が、桜の花びらを一斉に空へと舞いあげた。





 (了)

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