「っ待て、クロード!」


 言って手を伸ばした先。砂城のようにサラサラと崩れていく魔法壁の向こうに、呆然とした顔で立ち尽くすシルティの姿があった。


 震える華奢な肩を守るように抱くエドガーの表情から、クロードとの会話が筒抜けであったことが伺い知れた。


(……あの嘘つき野郎……)


 爆弾を落とすだけ落とし、後処理もせずに雲隠れしたクロードに、心の中で舌打ちした。


 仮に先ほどまでの、貴公子らしくないセドリックの姿を見られていたのだとしても、シルティの瞳にうつる姿は完璧でありたかった。


 セドリックは、シルティが愛する天使の様な表情をつくり出し、両手を胸の前で握りしめた。


「シルねぇさま。これは、」


 シルティに向かって一歩踏み出したところで邪魔が入る。セドリックの前を遮ったのは、いままで一言も喋らなかったノナリアだった。


「ノナリア……!」


 シルティの悲痛な叫びがセドリックを動揺させた。その隙を見逃さず、ノナリアは体術を繰り出した。


 しかし剣術、棒術、銃術、体術、暗殺術――これはクロードから教わった――を極めつつあるセドリックは、ノナリアの一撃一撃を確実にいなしていき、目にも留まらぬ速さで暗器を振り投げ、壁にノナリアを張り付けにした。


 ノナリアの想像以上に動けたセドリックに瞠目したのち、憤怒の形相で彼を睨みつけた。


(……シルティによく仕えていたから見逃してたけど、こんなに厄介な相手なら、今ここで消してしまおう……)


 黙ったまま真顔で暗器を投げた。とそのとき、


「だめえーーっっっ!」


 割り込んできたシルティの腹の中心に、暗器ナイフが柄までずぶりと刺さった。その衝撃で背にかばったノナリアの腕の中に倒れ、均衡を崩した2人は床に崩れ落ちた。


 シルティの腹から鮮やかな血がどんどん溢れ出し、ドレスをぐっしょりと濡らしていく。


 そして「ぐ……っ、」と喉を詰まらせたようなうめき声がしたあと、シルティは大量の血を吐き出した。おそらく、大事な内臓器官を損傷したのだろう。


 内傷によってせり上がってくる血液が、食道を通る度にごぼごぼと空気を含んだ嫌な音をさせる。


 シルティは息苦しそうに2度3度と血を吐き出した。


「シル……!」


「シルティ様……!」


 顔色を無くし、沈痛に強張った表情のエドガーがシルティに駆け寄り、涕泣ていきゅうし主の名を繰り返し呼ぶノナリアの姿を、遠くから俯瞰ふかんするように呆然と見つめる。


 シルティが呼吸するたびに聞こえる異音と、美しい肢体から流れ失われていく血液のむせ返るような鉄のにおいに、セドリックは自分の精神が崩壊していく音を聞いた。


「うわぁあああぁああ」


 シルティの命が失われていく様子を見ていられず、両目を覆い隠して絶叫する。


 キーンと耳鳴りがして、自分の叫び声も、掴みかかってきたエドガーの怒声も、音と形容される全てのものが遮断されていく。そんな中、


「……せ、でぃ……」


 喘鳴ぜいめいの中、シルティが絞り出すように呼んだ己の名前だけが、この世でただひとつののように鮮明に聞こえた。


「シルティ……!」


 胸ぐらをつかみ上げるエドガーを力いっぱい押し退けて、今にも閉じてしまいそうな瞳で必死に見つめてくるシルティのもとへ転がるように駆けつける。


「シル……! シルねぇさま……っ」


「……ド、……セ、ィ……」


 セドリックを探すように彷徨い伸ばされた震える手を、あらん限りの力で包みこんだ。


「僕はここにいる! ここにいるよ、ねぇさま!」


 言って握りしめた華奢な手は、生暖かい血で濡れて居るにもかかわらず、氷のように冷え切っていた。


 「ねぇさま……ねぇさま……っ」と言って、血で汚れることも厭わず、シルティの手にほほを擦り寄せ、手のひらに口づけた。


 それをシルティは目を細めて笑って見た。


 場所も状況も全く違うのに、あの湖畔の東屋で花冠を褒めてくれたシルティの姿が重なって見えた。


『凄いわ! セディは天才ね!』


 そう言って笑ったシルティと同じ笑顔。


(……どうしてこうなってしまったんだろう。どこから間違えていたのだろう。それとも初めから……シルティに恋をしたことから間違っていたのだろうか?)


 なにかを伝えようと、はくはくと唇を動かすシルティからは、血が逆流し喘鳴する呼気意外ななにも聞き取ることができなかった。


(僕が殺す……シルティを、愛するシルねぇさまを僕が殺してしまう)


 嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ……!


 シルティが愛した空色の瞳から、とめどなく涙がこぼれ落ちていく。


「……ねぇさま、ごめんなさい。ごめんなさい、シルねぇさま……っ」


 嗚咽を漏らしながら、その二言だけを繰り返し口にする。するとシルティは、力なく首を横に振り、上手く動かせなくなった手で、セドリックの指をくいっと引き寄せた。


 いざなわれるまま、セドリックはシルティの口もとに顔を寄せた。そうして、セドリックの唇に生暖かいものが触れて、離れていった。それがシルティの血に塗れた唇だと気づくのに数秒の時間がかかった。


 驚き目を見開いたセドリックの顔を、シルティが羽を滑らせるようになでる。


「……セ、ディ……。あ……を、あいし……る」


「……え?」

 

 満足そうに微笑んだ榛色の瞳には、セドリック、ただひとりの姿しかうつっていなかった。


 言葉を失うセドリックの左胸が、炎で灼かれるように熱くなり、眩い光を放ったのちに痛みが消えた。もしや、


 そう思ってシャツを開くと、半分だけ残っていた契約印が消えていた。


「なんで……? だってねぇさまは、」


 僕を愛していない。


 そう思ったとき、シルティの喘鳴がピタリと収まり、苦しげだった顔に柔らかな笑みが浮かんでいた。


「セドリック。私のかわいいセディ。あなたを愛しているわ……」


 言ってセドリックの血で汚れた唇を親指で拭うと、まどろむようにゆっくりとまばたきをして、「いい子ね……わたしの、てんし……」そうして力を失った腕は、床にすとんと滑り落ちたのだった。



*****



 息を引き取る直前のわずかな時間、シルティを苦しめていた痛みと熱と息苦しさが、スッと楽になった。


 酷く眠くて、ふとすれば閉じてしまいそうな目蓋を必死で押し上げていたのに、突然軽くなったそれを数度瞬くと、眼前に見慣れた湖畔の景色が広がっていた。


 いったいどういうことだろう、と疑問に思い首を傾げながら上体を起こすと、そこは東屋に設置された長椅子の上だった。


「なぜ……」


 呟くと同時に初夏の香りを纏った風が強く吹いた。


 とても目を開けていられず、風が吹き抜けていくのを閉じた目蓋の暗闇の中で待つ。


 強風にさらわれたアンバーの髪がふわりと中に浮き上がり、やがてゆるやかな動きで背に流れる頃。湖に冷やされた、生ぬるくも清涼な風にのって、ラベンダーの香りが鼻腔をくすぐった。


 スッキリと爽やかな香りの中に、ほのかな土の匂いを含んだラベンダーの香りは、ある初夏の日の昼下がりを思い出させた。


 懐かしい香りとともに目蓋の裏に蘇ったもの。それは、幼い少年と少女が仲睦まじく花冠を作って遊ぶ、懐かしくて眩しい、今は失われてしまった温かく愛おしい光景だった。


 シルティの口元には自然と笑みが浮かび、大好きな匂いを胸いっぱいに吸い込んで、そっと瞳を開けたその先、


「シルねぇさま」


 在りし日の幼い姿のセドリックが、ラベンダーとヒメジョオンで編まれた歪な首飾りを手にして立っていた。


「……セディ?」


 思わず確かめるように囁くと、まろい頬にえくぼを作ったセドリックが、自らの首に花の首飾りをかけた。


 そして、言葉をかけられるのを待っている様子に、


「セディ、気に入った?」


 と、春の日差しを感じさせる温かな笑顔で問いかけたシルティ。


 少女と見紛みまがうほどの愛らしい笑顔ではにかんだセドリックは、


「うん、とっても気に入ったよ! ありがとう、シルねぇさま」


 と笑いながら体をくるりと回転させた。


 今日は日差しが強く、西に傾きつつある陽光を反射した湖面がキラキラと輝いている。


 湖を背にして笑うセドリックの姿が眩しくて、シルティの眼尻まなじりから一筋の涙がこぼれた。


 ああ、私が愛していたのはきっと――


「……愛しているわ、セドリック」


 稲穂を彷彿ほうふつとさせる黄金に輝く金髪と、夏の晴天のように美しい碧眼へきがんを持った幼い少年は、天使のように微笑んだ――



【完】


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