第10話『第三段階:アベレイジ・オア・アバブ倍増化計画:以千代の場合①』
安部家で、思考力テストで最も高いスコアを出し続けている以千代。夫零士との結婚以来、ずっと専業主婦をやってきたが、ビロウ・アベレイジ
試験の当日、以千代は、特に不安もなく会場に着いた。試験は全てペーパーテスト。理解力、言語能力、科学・文化リテラシーが中心に問われる。ひたすらに高度な内容の高速処理が求められるこの試験には、ほとんどの受験者にとって時間管理のための時計が必須である。そのくせ、会場に時計はない。以千代は、自分の席を見つけて座ると、机上に筆記具を広げる。が、右隣の受験者の腕に巻かれた時計が目に入り、うっかり、自分が時計を持ってくるのを忘れてしまったことに気づく。
「あっ、時計……やだ、どうしようかしら」
と、つい声を漏らす以千代。
すると、以千代に失念を気づかせた腕時計の持ち主……スラリとしていてやけに小綺麗で家柄の良さそうな中年男性が、以千代の窮地に気づき、話しかける。
「どうかしましたか?」
非常に落ち着いた声。
その一言だけで、男が、経済的にも精神的にも余裕のある人間だとわかる。
「あ、はい。お恥ずかしながら、時計を忘れてしまったみたいで……」
以千代は、決まりが悪そうに、目も合わさずにそう答える。
「良ければ僕の時計、お貸ししますよ」
男は躊躇なく、その高価そうな、銀色の一本を外して、手渡そうとする。
「何ともありがたいお申出ですが……お気になさらないでください。こんな初歩的なミスも、私の実力のうちと思うことにしますので」
以千代は、謙虚さを出しつつ、丁寧に断ろうと、男の手を遠ざけようとするが、
男は以千代の制止をかわし、以千代の目の前の机上に広がる道具類の中に、その腕時計を追加してしまった。
そしてこう続ける。
「いやいや、これを受け取らないのはもったいないですよ。なんて言ったって、僕には……自分でも驚いていますが、なぜか鞄の中に、偶然腕時計がもう一本入っていまして、ほら」
男は、鞄の中から、腕に巻いていたものよりは幾らか簡素な腕時計を取り出して、見せつける。
「まぁ。ここに時計を一つも持っていない人間がいるというのに、二本も持っている人がいるなんて。確かに驚きですね」
以千代は、珍獣でも見るかのように、新たに出された時計と、男の顔とを交互に見る。
男は優しく微笑んで、
「ええ。まぁ本音を言いますと、時計というのは、こういう大事な時に限って不具合が起こりますから、予備を持っていたまでです」
と、種明かしする。
「なんだ、偶然じゃなかったのね」
以千代の驚き顔驚きから、今度は笑みが
「偶然を装った方が、面白いかと思いまして」
「あらそう、変わった人だこと」
「変わった、というのは、褒め言葉と受け取っておきます」
「うふふ。何ですかそれ。初対面の人間に褒められた、と思うことこそ変わってるわ」
「そんな変人に話かけられて、まともに受け答えして最終的に時計を掴まされるあなたも、相当な変わり者です」
「そうかしら、ならあなた流に、褒め言葉と受け取っておく——」
そこで試験監督の声が挟まる。
「開始五分前となりましたので、みなさん、ご着席いただけますでしょうか。間も無く用紙を配布します」
「もうすぐですね。ではお互い、頑張りま……いや、頑張るなんてのはあまり意味をなさない言葉です、
男は確かに、『持ち合わせた実力』という言葉を強調した。
「最後まで変なこと言うのね。もちろん私は合格するつもりよ。じゃあこの時計は、ありがたく使わせてもらうわね」
***
__試験終了後__
以千代は、答案が回収されるや否や、
「これ、ありがとうございました」
と、男に借りた腕時計を返そうとするが、
「あ、やっぱり……」
と、すぐに手を引っ込める。
「えっと、またまたどうかされましたか?」
男はからかい気味に尋ねる。
以千代は、男の目をまっすぐに見つめ、
「お名前をお伺いしても?」
と尋ねる。
「はぁ、名前。別に名乗っても減る物でもありませんが、名前を知ってもらうほどの人間でもありませんよ、僕は」
男はそう言って、以千代にはもはや興味がない、と言わんばかりに、目を逸らして帰り支度をし始める。
が、依然、男をまっすぐな眼差しを向ける以千代。
「えっと、実は、今日の試験、結構時間がギリギリだったんです。あなたから借りたこの時計がなかったら、うまく時間管理できていなかったと思います。そんな窮地を救ってくれたあなただから、せめてお名前だけでもお伺いしたいなぁ、と思いまして」
男は帰り支度の手を止め、以千代にしっかり向き合って、
「そう言うことなら……わかりました。僕は
と、名乗る。
以千代もすかさず、
「安一さんね、私は以千代。安部以千代」
と返す。
「以千代さん、ですね。では、時計の方を——」
安一の声に以千代の声が被る。
「いや、まだよ。それともうひ一つ……お礼をさせてもらえないかしら?」
「そんな、悪いですよ。結局時計が壊れるんじゃないかという懸念も杞憂に終わりましたし、使わない物をお貸しただけです。どうってことは——」
「じゃあ、こう言おうかしら。あなたがちょっと強引に腕時計を貸してくださったのと同じように、私お方も、無理矢理にお礼をさせてもらえないかしら?」
以千代は食い気味にそうお願いした。
「なんと、そうこられてしまっては、断るわけにもいきませんね。ならお茶でもいかがでしょう? 近くにいいカフェがあるのを知ってるんです——」
「それは嫌。私に決めさせてくれるかしら?」
「あはは、思ったよりも頑固な方だ。わかりました、いいでしょう」
と、安一は以千代の押しに折れ、承諾した。
以千代は、人質にしていた腕時計を、安一にようやく返す。
時計を返す手、その手は左手だが、薬指に光るものがある。
安一の左腕には、数時間ぶりに、金属の帯が巻かれる。
二人は、同じ歩幅で試験会場を出て行った。
***
__数時間後__
以千代と安一は、居酒屋のカウンター席で、飲みながら、会話を楽しんでいた。
「以千代さん、そろそろ二十一時ですが……その指輪、ご家族が待っているのでは?」
安一は、左隣に座る以千代に、便宜的に、そう尋ねる。
「いいのよ、今日はお疲れ様の会ということで」
と言って、以千代は、古びて傷の入った結婚指輪を、自分の指からスポッと抜き取ってしまった。
「ああ、そういうことですか……じゃあ僕の方も」
安一は、以千代と同じようにして、
「にしても大胆な方だ。以千代さんは、ご主人に不満でも?」
勢いで、そう尋ねる。
以千代は躊躇いなく、
「馬鹿なのよ」
と、一言。
「やけに直接的な表現ですね。でも、それでいいでしょうし、国家総合職試験を受けにくるような人がそう言うなら、そうなんでしょうね」
安一は、以千代の夫に対する陰口に、一切の嫌悪感を抱かない。
「あの人とは、次の間伐でさよならよ、確実に。だからこそ、自分で生きる術を見つけなくちゃ」
以千代は斜め上を細めで見上げ、酒のグラスを回して、中の氷をカラカラと転がす。
「ははっ、奇遇ですね。僕の方も、そんな感じです」
安一は、その場にはいない誰かに向かって、せせら笑う。
以千代は酔ってきたのか、心を開いたのか、安一を小突き、
「『そんな感じ』って何よ? 詳しく教えなさい」
と、人が変わったような強い口調になる。
「言わなきゃいけませんか?」
話すのを嫌がっているような言葉を、話したそうな顔で言う安一。
「話したいからこそ、『そんな感じです』なんてこっちが気になるような濁し方したんでしょ? あと、敬語外しなさい」
以千代は、安一の企みを見透かしている。
「わかったよ……これから話す内容は、人に聴かせるには少々恥ずかしい。が、単刀直入に言って、君には大きな魅力を感じたから、話してもいいなと思った。僕が身分違いの恋に燃えてしまって、勢いで結婚して二十年ほど経つが……半分には幸福を、半分には後悔を感じているよ。純度百パーセントの幸福を掴むことは到底敵わないが、この先は少なくとも幸福が、僕の心の器の五十一パーセント以上を満たすような人生を送りたいと思ってね。これまでは仲介業の類の会社をやっていた。利権まみれで、馬鹿がやっても儲かる仕組みの中にある会社だ。おかげで物質的には満たされてきたように思うが、本質的には何の面白みもない。そこでだ、自分の実力だけで上を目指せる仕事に挑戦したいと思ったんだ。その仕事場に、誰かさんがいれば、なお良し、だなぁ……」
安一は、細い方の金属の輪っかがされていない左手を、以千代の腰に回す。
以千代の方も、嫌がる様子はなく、右肩に寄りかかる。
「へぇ、自分の実力だけで、ねぇ。私も
その夜以千代は、日付が回るギリギリの時間に、夫零士の待つ自宅に帰った。
〈第11話『『第三段階:アベレイジ・オア・アバブ倍増化計画:頼高の場合』に続く〉
IQ120 加賀倉 創作 @sousakukagakura
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