不能

藤野麻 饂飩

初恋

「人、沢山だったね」

頸椎のきりぎりすが堪えを失い鳴き出した元旦の昼ごろである。

私は恋人の由実と共に初詣の帰途についていた。

きりきりと鳴く首の虫をよそに、私はできるだけ優しい声色を努めて、

「そうだね」

とだけ返した。そっけなくなってしまったと直後気付くが、体質のせいである。

私は生来、首にきりぎりすが住んでいる。もちろん本当の虫ではなく、頸椎、すなわち首の骨が、私が疲労や強いストレスを感じたときにきりきりと鳴るのだ。

このときは疲れに加えて寝不足であった。

「また来年も一緒に来ようね、初詣、来年だけじゃなくずっと」

彼女は小走りで私の前へ行き、振り返りながら清らかな笑顔を浮かべながらそういった。

私は本当に嬉しかった。生きる理由を見いだせた気がした。

私が返答を返す前に、由実は制御を失った自動車に跳ね飛ばされた、由実だけを巻き込んで、私だけを残して。


「は?」

私は理解が出来ずにその場に立ち尽くしていた。

私は半ば本能的に、よろよろと歩き、ひしゃげて血を流す由実の元へ行き、その体を抱き寄せた。

「由実?」

そのぬくもりを感じてはじめて、彼女はもう死んでいることに気が付いた。

ようやく事態を理解した私の脳には、感情の怒涛が起こった。

最初に悲しみ、最愛の女性が目の前で死んだことに対して溢れる奔流。

次に激情、私から、彼女から全てを奪った人間への憎悪。

最後に後悔、私がもっとそばにいてあげれば、手でも繋いでおけば避けられたかもしれないのにどうして、照れくさくてまだ一度も、彼女に「愛してる」と言葉で伝えたことがないのに。


「きりきり、きりきり」

今まで聴いたこともないほど猛烈な音量できりぎりすが鳴いている。

私の悔恨の大きさに呼応するように、あるいはお前のせいだと嘲るように、不愉快な声が響いたのち、私の視界はブラックアウトした。


「人、沢山だったね」

甘い、甘い、懐かしくも思える声が聞こえてくる。

頸椎のきりぎりすが堪えを失い鳴き出した元旦の昼ごろである。

私は、血まみれのあのぬくもりを覚えているのにも関わらず、そこに確かに生きている人物の存在に狼狽した。

「どうしたの?顔色悪いよ、大丈夫?」

「いや、大丈夫、ちょっと考え事してただけだよ」

私は平静を装いそう答えた。

あれは白昼夢だったのであろうか、しかしあのぬくもりは確かに、

「また来年も一緒に来ようね、初詣、来年だけじゃなくずっと」

はっとして彼女に注意を向ける。

直後、由実は自動車に跳ね飛ばされた。

「きりきり、きりきり」

またあの声、視界の喪失。


「人、沢山だったね」

頸椎のきりぎりすが堪えを失い鳴き出した元旦の昼ごろである。

ようやく理解した。私は彼女の死をやり直し続けている。

それからは、どうにかして彼女を殺さぬよう努め、何度もやり直した。

何百回も、何千回でも、あの忌々しいきりぎりすの声を聴くことだって、もはや苦痛ではなくなった。

しかし、結果は何も変わらなかった。原因の差こそあれ、由実の死を覆すことはできなかった。


「なんでなんだよ」

私は考えた、なぜ私だけが記憶を持ち越しているのかを、なぜもっと前の時点に戻らないのかを。

運命が変えられないのなら、私は、私の臆病のためだけに時間を遡っているのではないかと、気が付いた。

「また来年も一緒に来ようね、初詣、来年だけじゃなくずっと」

私はこの無限に終止符を打つ言葉を言うことにした。


「うん、愛してるよ、由実」

由実はいつも通り自動車に跳ね飛ばされて死んだ。

きりぎりすは鳴かなかった。

もう、10年も前の話である。

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不能 藤野麻 饂飩 @udk777

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