待ちかねた日

 その日、起き上がる瞬間に、アイシャは吐き気を堪えなければならなかった。口元を押さえた仕草は、ダミニに目敏く見咎められる。


「アイシャ様? どうかなさいましたか?」

「いいえ、何も」


 よりにもよって、ダミニに身体の変調を悟らせる隙を見せてしまったなんて。自身のうかつへの憤りと、胸のむかつきを堪えて、アイシャは無理に微笑んだ。


 吐き気やだるさの理由に、心当たりは、ある。アイシャは女で、輿入れに当たって相応の知識を教えられていて、夫とも仲睦まじいのだから、思い至るのは簡単なこと。──つまりはダミニも同様だし、今、この女に気付かれるのは絶対に良くない、という確信がある。


 だから、たとえ白々しくても笑顔で嘘を吐くのだ。


「昨日、眠れなかったのかもしれないわね。とても、大事な日ですもの」


 当主の処分に不満を抱き、不穏な動きを見せていたバーラン侯の一族は、この度無事に鎮圧された。

 いち早く果断な対応を取ったアルジュンの判断、ひいてはそれを後押ししたアイシャの進言は正しかったと証明された。若き王の期待を負った将たちは、欠けることなく都に戻り、今日は凱旋の宴が催される。


「貴女も、兄君の無事を確かめられて嬉しいのではなくて? アルジュン様は、きっと望みのままにご褒美をくださるでしょう」

「ご配慮、痛み入りますわ、アイシャ様。ええ──本当に。我が一族にとって、晴れの日となることを願っております」


 侍女にしては無作法なことに、ダミニははっきりと顔を上げてアイシャと視線を合わせた。途端にふたりの間に、稲妻のような緊張感が走る。──それを無視して、アイシャは寝台から立ち上がった。


「私もよ。だって、従兄姉たちのことだもの、ね……!」


 ダミニが仄めかしていることは、分かっている。


 兄のシャマールの武功、それへの褒美は、妹のダミニを王の側室にと願う絶好の好機。かねてからアイシャに打診しているその願いを実現するのは今だろう、と念を押しているのだ。

 この間、戦場が心配だから、アルジュンも多忙だからと言葉を濁して有耶無耶にしてきたのにも限界があるということだろう。あるいは、シャマールのほうから願い出るように兄妹の間では調整隅で、アイシャに対しては邪魔をするな、と釘を刺したつもりだったのかもしれない。


(どちらでも、良いけど……!)


 ダミニを警戒して神経をすり減らす日々は、もう終わるはずだ。ダミニは今日、チトラクートの太守ナワーブニシャントの妻に望まれる。そう願うよう、ニシャントには根回し済みだ。伝統ある名家の正妻に収まれるのだから、確かに一族にとっては名誉のはず。


「──着替えを、お願い。貴女もおめかししないといけないもの、早くしてね、ダミニ?」


 寝乱れた髪を手櫛で梳きながら、アイシャは促した。ダミニが──内心はどうあれ──恭しく目を伏せるのを見て、満足する。そして、決意を改める。


 シャマールとダミニが何を考えていようと期待していようと、文句なんて、言わせないのだ。


      * * *


 戦勝を称えるべく、アイシャはこの上なく豪奢に華麗に装ってアルジュンの隣に座っている。

 衣装の絹には金糸銀糸で細やかに刺繍が施され、髪も耳も首も腕も、重いと感じるほどの装飾品を重ねている。中でももっとも絢爛な輝きを放つのは、もちろんあの紅玉ルビーだ。太陽を思わせる燃えるような紅は、彼女がスーリヤの王妃であることを存分に示している。


 アイシャのさらに隣に控えるダミニも、装いは美しい。宴に彩を添えるためでもあれば、あわよくばアルジュンの目に留まりたいという魂胆もあるのだろう。ダミニの思惑はさておき、その華やかな装いはアイシャにとっても都合が良かった。


(チトラクート侯。貴方の未来の花嫁はいかが? 間近に見るといっそう美しいでしょう? 何としても手に入れたいと思うほどに……!)


 ニシャントのほうへ、目立たぬていどに視線を向けてみると、彼は確かにダミニに熱い眼差しを向けている気がした。

 あるいは、戦勝の高揚や祝杯の美味さがもたらす酔いなのかもしれないけれど。とにかく、彼はアイシャの密命を忘れてはいないようだったから、安心できた。


 アイシャが微笑む横で、宴は滑らかに進行した。

 バーラン侯の領地の分配の方針が示されて、アイシャがの生で知っていた勢力図がほぼ再現された。喜ぶ者、安堵する者。不満を抱く者は──少なくとも、大方はあからさまにしないていどの分別はあるようだ。


 アルジュンは、治世の最初の波をひとまずは乗り切ったように見える。王という船を転覆させかねない嵐を、起きる前に防げたと思って良いのだろうか。


と、どれくらい変わったのかしら。私は、アルジュン様を助けられているの……!?)


 笑顔を纏って戦勝の将たちを労いながら、アイシャの心こそ荒く波立っていた。バーラン侯の叛意を暴露したのは、直接的にはダミニの芝居だったから、安心しきることはできない。


 緊張と身体の調に胸を塞がれて、美酒も美食もアイシャの喉を通らなかった。仮面のように微笑みを顔に張り付けておくのが精いっぱいで。でも──やがて、彼女が待ち望んだ時が来る。


 アルジュンが、功績のあった者たちを間近に呼び寄せて声をかけたのだ。


「押し付けてばかりでは褒美になるまい。そなたたちが望むものがあれば与えよう。宝石でも名馬でも貴重な香木でも──王宮にあるものは何でも、遠慮せずに申してみよ」

「それでは、御言葉に甘えさせていただきます」


 玉座にて寛ぐアルジュンに、ニシャントは跪きながら勢い込んでにじり寄る、という器用な真似をしてみせた。密命を与えた時に感じた通り、この男は軽々しいところがあるようだ。けれど、それでいて無礼さよりは愛嬌が勝るあたり、ちゃっかりした性格といえるのだろう。


 今も、アルジュンは苦笑するだけで咎めはしなかった。主従の間ではいつものこと、なのかもしれない。


「チトラクート侯。本当に遠慮しないのだな」

「王の寛大を期待して、待ちかねていたところでございます」


 ニシャントの笑顔に屈託はなく、アルジュンも応じて穏やかに微笑する。いくら大功があるとはいえ、ニシャントは由緒正しい大貴族なのだ。常識外れの強請りごとをして王や自身の名誉を傷つけるはずがない、と──信頼を置いているのだろう。


(いよいよだわ……!)


 祝宴に集った貴顕も、控える侍女も従者も、ニシャントが何を望むのかを面白がって余興とする風情だった。その中でただひとり、アイシャだけが緊張に笑顔を強張らせていた。アルジュンに寄り添いながら、胸をときめかせるよりも不安によって鼓動を早まらせて。


 ニシャントは、命じたことを忘れていないかどうか。本当に従ってくれるのかどうか。最後の最後まで、アイシャは疑いを拭い猿ことができなかったのだけれど──


「ラームガルの領主アミールの妹姫、ダミニ様を、私の妻に! 兄君もこの場におられるからちょうど良い、許しをいただきたいと存じます……!」


 ニシャントが高らかに告げるのを聞いて、ようやく安堵の息を吐いた。不安の重石が肩からも心からも除かれた喜びと高揚のまま、立ち上がり、わざとらしいほど大仰に手を叩く。


「まあ、素晴らしい。願ってもないお話ではございませんか、シャマール従兄にい様?」


 一同はまだ、を褒美にすることへの反応を決めかねていたようだった。だが、王妃その人が賛同を示したことで、本気の望みであること、かつ、祝うべきことであると了解されたようだ。喜び寿ぐ声が響き渡り、あちこちで新たに酒が注がれる。


(言いたいこともあるでしょう。でも、この流れに逆らうことはできないわ……!)


 シャマールは、妹という駒をこんなところで使うつもりではなかったかもしれない。でも、注がれた祝杯を干すのに忙しくて異を唱える暇などありそうになかった。下手なことを言って、場を冷めさせることもできないだろうし。──だから、アイシャは安心して傍らへと向き直った。そして、勝ち誇って、笑う。


「……おめでとう、ダミニ。チトラクート侯はスーリヤでももっとも由緒ある名家のひとつ。そのに望まれるなんて、名誉なこと……!」


 ダミニの美しい頬が強張り、次いで怒りに歪むのを見るのは、とても愉快なことだった。

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殉葬妃は蘇る ~今度こそ愛する貴方と生きるために~ 悠井すみれ @Veilchen

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