冷酷な打算

「チトラクート侯。楽にしてください」

「恐れ入ります」


 アイシャの言葉と指先での合図に応じて、ニシャントは体勢を寛げた。


 仮にも太守ナワーブたる者を、敷物もなしに地に座らせるのは無礼というべきかもしれないけれど、ほとんど足を踏み入れる者もいない王宮の、手入れの行き届いた庭だから良いだろう。アイシャのほうも、供も連れずにひとりきりで、わずかに傘から垂れる紗で彼我を隔てているだけなのだから。


(人に見られる前に、手短に済ませないと)


 昨夜、アルジュンと語らった部屋からは、この庭園が見下ろせるのだ。


 王族以外に、悠々と眺めを楽しもうという者はそうそういないとは思うけれど、王妃が若い男としているところを目撃されてはならない。誰よりも警戒すべきダミニは王族に近しい身分で、しかも、職分としても忙しく立ち回らなければならないというほどではないのだから。


(ダミニは、真っ先に従兄様と連絡を取ろうとするはず。私の様子を窺うことはないと思うけれど──)


 恐れたところでどうしようもない不安は、ひとまずいて。アイシャは口を開いた。


「書簡でもお伝えしましたが──今ごろ、アルジュン様はバーラン侯およびその一族の対処について重臣にはかっておられます。皆様、色々ご意見はおありでしょうが、私は機先を制して討伐することを進言しました」

「勇敢でいらっしゃいますね」


 ニシャントの相槌には、わずかに意外というか驚きの響きが宿っていた。この男も、アイシャのことを可愛らしいだけの女だと思っていたのかもしれない。だから、あらかじめ伝えていたことを改めて聞いただけなのにこんな反応を見せるのだ。


「アルジュン様のためですから」


 ダミニにも言ったことを繰り返してから、アイシャは本題──というか、その前提の話題に切り込んだ。


「そして、討伐の将に貴方様を始めとしたお若い方々を推薦させていただきました。これもまたアルジュン様のため、武功を立てていただくことが必要な方々だと考えたからです」

「光栄に存じます。必ずご期待に沿えるように努めます」

「……お義母かあ様は必ずしも手放しで賛同してくださらないかもしれませんが。でも、説得していただくようにアルジュン様に強くお願いしました」

「王妃様のたっての願いとあらば、陛下は必ず王太后おうたいこう様を説得してくださるでしょうね」


 大きく頷いた後──ニシャントは再び跪くと頭を垂れ、謝意を表した。でも、アイシャはわざわざ激励するために彼を呼び出したのではない。

 直接に、そして内密に。証拠を残さず言葉を交わす機会を設け、しかもダミニの姿を垣間見せた。──ここからが、重要なところだった。


「チトラクート侯の忠誠と武勇を信じています。御言葉に偽りがないことは疑っていません。必ず、王に逆らう不逞ふていやからを鎮圧してくださいますように」

「御意」

「……凱旋の暁には、アルジュン様も厚く報いてくださるでしょう。ご褒美を考えておいていただくのが良いと思いますわ」


 アイシャが言外に含ませた意図を、ニシャントは正しく汲み取ってくれたようだった。若々しい頬がにこり、と笑んで、その唇が悪戯っぽく綻ぶ。


「何を思いつけば良いのか、王妃様にはお考えがあるようですね」

「ええ」


 もちろん、ここまで丁寧にお膳立てしたのだから、汲み取れて当然のことだ。だからアイシャはもったいぶることなく端的に告げた。


「私が先ほど話していた、ダミニ──ラームガルの領主アミールの妹姫を、貴方の妻に望んでください」


 これこそが、眠れぬ夜を過ごしながらアイシャがひねり出した策だった。ダミニを、彼女自身からもアルジュンからも遠ざけるための。目の届かないところであの女が何をしでかすか、という不安は拭えないけれど──


チトラクート侯このひとの正妻にさせてしまえば、まだ安心できるわ。おかしなことをすれば、我が身に跳ね返るのだもの)


 たとえば、夫を唆して王に反旗を翻させる、とか。夫を始末した後、母に倣って実験を握る、とか。ニシャントに押し付けたとしても、ダミニが悪だくみを働く余地がある。


 けれど、のスーリヤでは、太守ナワーブの正妻が夫の死後に生き長らえることは許されないだろう。

 ニシャントに万が一のことがあれば、由緒正しく誇り高い彼の一族は、必ず未亡人を殉死させるだろう。ダミニにも、当然それは分かるはずで──だから、正妻としての立場そのものを首輪にできれば、良い。


 侍女を妻にしてはどうか、という打診ではなく、限りなく命令に近い要請だった。すなわち、少々不審で、強引な話には違いない。事実、ニシャントは不思議そうに首を傾げた。


「王妃様が信頼なさっている侍女で、従姉妹同士と伺っておりますが。私がいただいてしまっても、よろしいのでしょうか」


 ダミニの兄も、アルジュンを支える若い諸侯のひとり。……。だから、同じ派閥の者同士で姻戚となっておくのは悪い話ではないはずだった。とはいえ大貴族の結婚を、内密の口約束で決め手しまうのも簡単なことではないだろう。


(間諜とでも、疑っているのかしら。無理もないことだけれど)


 そして、ニシャントの家中を探ろうとしているならまだマシで、ダミニは夫となった男に何をするか分からないことを知った上で、アイシャはこの縁談を纏めようとしている。

 自身の不実と腹黒さに慄きながら、アイシャは早口に用意していた言い訳を述べた。


「ダミニは、とても綺麗でしょう。ご覧になった通り。それに賢くて気も利くの。傍にいてくれるのは嬉しいけれど、不安になることもあるのです。……アルジュン様も、お気に召すに違いないから」

「なるほど」


 ニシャントの相槌がやけに力が入っていた気がして。それに、思わず、といった風に零れた笑みに納得の色が見えた気がして、アイシャは密かに傷ついた。ダミニに嫉妬して遠ざけたがる、というのは、傍目にも説得力がある筋書きに見えたらしい。


「美しく聡明な妻を得られるのは名誉であり喜びです。それが、王妃様のお心を安らげることになるならなおのこと。──万が一陛下が惜しまれても押し切れるだけの手柄を立てるようにいたしましょう」

「……ありがとうございます。よろしくお願いいたします。本当に」


 念を押したアイシャの声は、やや拗ねた調子になっていたかもしれない。ニシャントは、宥めるように笑みの表情を変え、子供に対するような口調で囁いた。


「王妃様のお心を打ち明けていただいたことも嬉しく思います。陛下が溺愛なさるのも当然の、可愛らしい御方だと」


 ニシャントが述べた言葉は、追従のようでいて侮りと紙一重の揶揄う空気を帯びていた。アルジュンやトリシュナに対しては決して見せない態度だろう、と思うと、自然、紗の影でアイシャの眉は顰められた。


(……この方を選んだのは失敗だった? どんな方か、お人柄まではよく知らなかった。でも、もう引き返せないし──)


 ダミニを遠ざけるためだけの方便として利用するのだから、多少、軽薄でも構わない──かも、しれない。


 渋面を見られないように軽く顔を背けて、アイシャはニシャントを促した。


「……人に見られては困ります。何もおもてなしできなくて申し訳ありませんが、どうぞ行ってください。ご武運をお祈り申し上げます」

「心より感謝申し上げます、王妃様。──では、失礼いたします」


 颯爽とした足取りでニシャントが去り、今度こそひとりきりになって──アイシャは小さく溜息を吐いた。昨夜のアルジュンの説得に続けて、彼女はまた一歩、成功した、と言えるのだろう。


 けれど、単純に喜ぶには、頭の隅の囁きを無視することができない。彼女自身の声による、恐ろしく冷酷で冷淡で邪悪な囁きを。


(チトラクート侯は──、病で亡くなる……)


 不吉なは、本当に病によるものか、それとも何者かの陰謀によるものか、アイシャには分からない。陰謀だったとして、その背後にいたのがダミニやシャマールかどうかも知る由もない。


 彼女にできるのは、心の奥底にある計算高さを認めることだけだ。


 死ぬ人なら、ダミニを押し付けても構わない。それによって彼が何らかの不幸に見舞われたとしても、同じことになるだけなのだから、と。

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