普遍の一本線

鈴ノ木 鈴ノ子

ふへんのいっぽんせん

 糸魚川駅に定刻通り降り立つと、駅のホームから水平線が見えた。穏やかな昼下がり、凪いだ海の空と海を隔てる一本線を私は描き続けている。

 画材の入った鞄と大判のスケッチブックを持って駅のホームから海へと続く道を歩いてゆく、ある家の前を通り過ぎる時、2階の海に面した部屋の窓を見上げた。

 真っ黒なカーテンが引かれた窓は、日差し心地よい青空と白い壁の中で、虫食いの穴のようだった。

 私は何度も穴に手を伸ばそうとして、あの日の約束を果たせず、ただ、できませんでした。と部屋のドアの前で詫び去ることを続けていた。


 日本海の水平線を眺めながら、新任の美術教師に想いを告げた。結果は目に見えていたけれど、先生は真昼の美しくお互いにお気に入りの水平線を美術室の窓から見つめながら、この水平線が描けるくらいになったらいいよ。とリップサービスのような言葉を残してくれた。

 以来、私は想いを果たす為に訪れてはスケッチブックを引き裂いてホームのゴミ箱に捨て去っている。

 

 海岸につき腰を下ろして海を見つめる。どこまでも続く水平線、私と先生の水平線、距離は数キロしかない水平線は、今では何万キロも離れている。

 美大で愛用している画材を広げて小さな場を整えると、私は海水を汲みに波打ち際に立つ、少しでも近づけるために海すらも利用するのだ。ふと足元にきらりと輝く石を見つけた。


「翡翠…」


 手にしたそれは美しく光り、私はそれをじっと見つめて立ち尽くした。

 憧れた美術教師はあの穴の闇に包まれた世界で過ごしている。窓から見えるお気に入りの水平線を捨てるほどの悲哀に包まれ、自らを責め続けているのだ。生徒保護者の身勝手な言い分が被害者である彼女を加害者に塗り潰して、素晴らしい感性すらも消し去ってしまっている。


 光に翳した翡翠はその麗しき色を灯火のようにして輝いている。それを何気なく水平線へと合わせた時、足は一目散に駆け出していた。海水がデニムと袖口を濡らすことすら気にせずに整えた場のコンクリートの上に翡翠を置く、手近の大石を掴むと何度も叩きつけてゆく。先生の苦痛を代弁するように粉々にして、何度も描いた水平線をスケッチブックに写し取り、最後に絵の具をつけた筆を粉々の翡翠に落として、繊細でいて大胆に塗りつけ、ラストを描ききった。


 画材の全てをその場に残し、スケッチブックをその手に先生の家へと走る。玄関の呼び鈴を押して出てきたご両親は驚きながらも招き入れてくれる。

 階段を駆け上がってゆき穴のドアを乱暴に開け放つ、真っ暗な部屋のベッドの上に先生がいた。恐怖に引き攣った顔に怯んだが、歩みは止めない、スケッチブックを無言で差し出すと先生は受け取ってくれた。


「約束の水平線です」


 真っ暗な室内、ポケットから取り出したスマホのライトを点ける。無色となっていた先生の表情が色彩に染まってゆく。幾度となく2人で見つめた、お気に入りの水平線をようやく描き切ることができたのだ。


 今は2人、変わることのないお気に入りの水平線を眺めながら、小さな幸せを育んでいる。

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