待つ娘
真花
待つ娘
四回目の訪問は、初めての雨だった。駐車場からビニール傘を差して、
人と擦れ違うことなく茂木の家に着いた。一人で住むには大き過ぎるが、建てた人がここに住む人を大事にしたかったのだと言うことが伝わって来る構えで、門の前に立つ度に小さく息を呑む。それはまるで僕が、僕の会社が、しようとしていることを根本的に拒んでいるかのようだ。いや、家と言うのはそもそもそう言う堅牢性が、排他性があるものなのかも知れない。ことさらに竦む必要はない。呑んだ息を一気に吐き出して、チャイムを鳴らす。
「どちら様ですか?」
インターホンから聞こえる茂木の声ももう耳に馴染んでいる。それは茂木にとっての僕も同じはずだ。何回も訪ねるのは粘っていると言う面もあるが、なんとなく近しい気持ちになってもらったら考えが変わるかも知れないと言う目論見もある。
「
「ああ、あなたですか」
門の奥のドアが開き、茂木はどこかに外出するのではないかと言うくらい着飾っていた。顔のパーツの全部が大ぶりで、そこに厚い化粧が塗られ、この距離でも香水の匂いがする。だが、柔らかい甘さのいい匂いだ。毎回、茂木は同じくらいに華美にしていた。前回までは茂木が門扉のところまで来て、僕は家の敷地には入らない状態で話をした。本丸が迫り出してはいるが、実質門前払いだった。茂木は手のひらで空を確かめて、同じ手で僕を手招きする。
「雨ですね。玄関までいらっしゃい」
だが門は開かない。困った僕を見て茂木は、うふふ、と笑う。
「ごめんなさい。今開けますから」
茂木は玄関の中から中世ヨーロッパのような傘を取り出して差し、女王のように堂々と僕の前まで来る。カシャン、と門が開けられる。
「こちらにどうぞ」
このまま戴冠しそうな後ろ姿に付いて歩く。玄関の中に傘立てがあり、茂木はそこに自分の傘を刺したが、客、呼ばれていない客である僕が同じことをする訳にはいかない。玄関の外に傘を畳んで立て掛けた。玄関は広く、靴は二足しかない。左右にある靴箱の上には、木彫のクマ、マトリョーシカ、西洋人形、地球儀、何かの雑誌、と統一感のないモノが置かれており、壁には抽象的な絵画が三枚掛けられている。奥には廊下と階段が見える。生活の匂いがするものはここからは見ては取れない。茂木は靴を脱いで三和土に上がる。
「それで、どんなご用ですか? いつもの奴ですか?」
茂木は恥ずべきものは何もないと言う風に真っ直ぐに僕の目を見る。僕はカバンを右手に下げて直立不動のままその目を同じだけ真っ直ぐに見返す。やましいことは何もないのは僕もだ。
「そうです」
茂木は小さくため息をつく。その息が僕の体を巻くように流れた。だが僕のことを縛るのには効力が弱い。ここが勝負所だ、僕は気持ちだけ半歩前に出る。
「この家と土地を弊社に売って下さい」
茂木の気配は僕に向かって一歩踏み出した。
「いやです」
「かなりの好条件を用意しています。それだけでも聞いてみませんか?」
茂木はこれまでその条件を聞くことはなかった。三回の訪問ではこの時点で帰された。そう言う話なら、お帰り下さい、と丁寧に。きっと塩を撒かれた。だが今日はすぐには帰れと言われない。茂木は考えているのか、視線をわずかに揺らす。僕はチャンスと思ったが、下手に言葉を重ねない方がいいだろうと考えて、茂木の次の声を待った。時計がないのか秒針の音はせず、建材が良いのだろう雨の音も聞こえない。僕達は玄関に二人で立って、じっと見詰め合いながら黙っている。
沈黙が自重に負けて落ちる頃、茂木が口を開いた。
「条件の問題じゃないんです」
「何でしょうか。検討することは出来ると思います」
茂木は靴箱の上の西洋人形に目をやる。金髪の髪の長い、青い目の大きな少女の人形だ。
「母を待っているんです」
まるで人形が母親と繋がっているかのように視線を動かさない。だが、資料によれば茂木の母親は五年前に他界している。母親が茂木の最後の同居人であり、現在は一人暮らしであることは間違いない。母親が本当はどうなのかの答えを人形が知っているのだろうか。茂木と一緒に人形を見ていたら、人形が動き出しそうに思えて来た。今僕達は静かな箱の中にいる。もし人形が暴れ出したら僕に逃げ場はない。僕は自分の輪郭が崩れそうになることに抵抗するように拳を握り締める。
「お母様は、いついらっしゃいますか?」
茂木はゆっくりと首を振る。可能性が振り落とされて消えて行く。
「分かりません。でも、母は必ず帰って来ます」
「お母様と会うために、この家は売れないと言うことですか?」
茂木は僕の顔を見る。僕は無意識に生唾を飲んでしまった。音が響いて、そうと気付いたときにはもう済んだ後だった。失礼、と言おうとする僕を、茂木の言葉が封じる。
「そうです。母はここに帰って来るんです」
僕はどっちが現実か一瞬分からなくなる。胸の中で首をふんだんに振る。茂木の言っていることは間違っている。どれだけ待っても帰って来ることはない。……それを今ここで僕が言ってもいいものなのだろうか。茂木は両手で自らの服に触れる。
「だから毎日ちゃんと外行きの服を着ているんです。卵焼きも毎日焼きます。母が好きだったものなので。一日待って、夜になったら卵焼きを食べます」
言う、言わないではなくなった。茂木の目は真剣でありながら慈愛に満ちている。それは母への想いの強さを証明するものだ。僕はその目に声に縛られたかのように動けない。反論など言えない。僕がここに来た目的がどうこうではない。茂木の真実に縛り上げられている。心臓が激しく脈打ち、汗がじと、と滲む。時間の速度が遅くなる。僕は茂木だけでない、モノ達の視線を感じる。ここは静かな箱だが、茂木のテリトリーだ。どうして簡単に入ってしまったのだろう。商談成立まで一歩近付いたと思った。近付いたのはそっちじゃなかった。茂木がキノコのように笑った。
「分かって頂けましたか?」
僕は錆びついたように首を縦に振る。それを見て茂木はもうひと回り大きく笑う。僕を縛り付けていたものが緩む。今しかない。
「すいませんでした」
僕は頭を深々と下げて、茂木の反応を待たずに顔を上げたら、茂木は小さく頷いていた。
「失礼します」
僕はドアを開けて一目散に門に向かい、それでも門で一旦振り返って、もう一度、失礼します、と声を張ってから駐車場まで走った。雨は降っていたし傘は忘れていたがそんなことはどうでもよかった。車に乗って、やっと息が出来て、もう二度と茂木には会いたくない、あの場所には行きなくない。呼吸が整うまで時間がかかって、だが僕の内側は乱されたままだった。駐車場にある自動販売機でポカリスエットを買い、運転席でゆっくりと飲んだ。冷たさが腹の底まで渡って、ようやく自分が自分であることを確かめられた。椅子を思い切りリクライニングして横になる。目を瞑る。茂木の目が瞼の裏にこびりついていた。
茂木はずっと待つのだろう。茂木自身が死ぬまで、いや、死んでも待つ。そして母親は来ない。それまでの間、あの家を奪おうとする者は全て拒絶し続ける。服を着て、卵焼きを焼いて、待ち続ける。それだけをやり続ける。僕の体の全部が、ぶる、と震えた。声がその震えに揺らされて漏れた。
「すいません」
(了)
待つ娘 真花 @kawapsyc
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