道のりは長い

「ど、ど、ど、どうしましょう。リチャードさん」

「奥様、以前の癖が出てしまっています。使用人は呼び捨てです。ご結婚された当初のようにさん付けをしてはなりません」

「どうしましょう、リチャード」


 エルシャは律儀に背筋を伸ばして、リチャードに向かって言い直した。


「どうされましたか、奥様。お茶会の主催の件ですか? それならば来シーズンでしょうからゆっくりで問題ございません。あぁ、エイトケン伯爵家のお茶会でしたら仲の悪い家ではございませんからご安心ください」

「違います、問題はあれです。ダンスです」

「ダンス……?」


 リチャードは首をかしげる。


「奥様は結婚当初からダンスはお得意だったはずです。それにもう参加予定の夜会はございません」


 畑仕事で体幹ができてますから! そもそも、誰かとダンスする機会は今までレッスン以外なかったけれども! 夫と踊っていないのに他の人とダンスするわけにはいかないのだ。


「み、見てください!」


 エルシャは小刻みに震える手を顔の前に差し出す。リチャードは大きく目を見開いた。


「……奥様、まさかご病気……? い、医者を!」

「旦那様と夜会で踊ることになるんですよね? 考えただけでこれですよ? 無理です、いくら来シーズンといっても無理です」

「……なぜか、お伺いしても?」

「あんな綺麗な人と踊るのが恥ずかしいからです! 恥ずかしくて死んでしまいます!」


 そこだけドドンと胸を張って答えるエルシャ。リチャードは一瞬遠い目をした。


「僭越ながら。私とは平気でしょうか?」

「分からないので踊ってみましょう!」


 リチャードは「なぜ奥様はそんなに元気なのか?」と困惑気味だったが、一緒にステップを確認してくれる。


「大丈夫ですね」


 一通り確認してリチャードは手放した書類を手に取る。


「はい、大丈夫です」

「では、その症状は旦那様限定ですか?」


 エルシャの手はまた小刻みに震え始める。


「かもしれません」

「旦那様のことを考えただけでダメですか。旦那様と踊りたくない症候群ですか? 旦那様と踊るのが恥ずかしい症候群ですか」

「だって……」


 エルシャは斜め下を見ながら唇をやや尖らせる。


「旦那様と踊るとなったら緊張します。だってダンスって……密着するじゃないですか」

「そこまで密着はしません」

「いや、でもだってこう……」


 ダンスの基本姿勢を一人で取りながら、エルシャは顔を赤らめる。

 リチャードはまた遠い目をした。それを密着と表現するなら握手だって密着……と呟いている。


「恥ずかしいです」

「なぜ恥ずかしい、だけ胸を張って仰るのですか……」

「純然たる事実ですから。これまで旦那様と踊る機会がなくて良かったです。これじゃあ病気だと思われちゃいます。ほら汗が出てきちゃいました、動悸も震えも!」

「……旦那様とダンスの練習をなさってはいかがですか」


 リチャードの言葉で想像した。瞬く間にエルシャの顔は赤くなる。


「練習もダメそうです……」

「では、私や若い使用人が頑張って銀髪のカツラを被りますので徐々に慣れていってください」

「あ、銀髪でしたらエイトケン伯爵夫人のところのご子息が銀髪なんだそうです。ちょっとお茶会の時に頼んで練習を……」

「絶対におやめになった方がいいと思います」

「銀髪が地毛の人の方が練習にきっとなります」

「なぜ、カツラか地毛かで変わるのですか?」

「一体何の話だ?」

「あら、旦那様」


 エルシャはリチャードと書類の確認をしているところだったが、夫がやって来たのでいそいそと彼に近寄る。


「旦那様。ダンスはお得意ですか?」

「カツラの話ではなかったのか? いや、リチャードにカツラが必要という訳ではないが……ダンスは教養としては習ったが踊ってはいない」

「来シーズン、旦那様とダンスするなら照れるなと思いまして」

「奥様、なぜそこは恥じらわないのですか……」


 リチャードの囁きはエルシャにはよく聞こえなかった。

 夫は何かをイメージするように考え込み、そしてやや頬を赤らめた。


「確かに、照れるな……」

「ですよね!」

「もう勝手にやっていてください」



「手を握っただけで妊娠しないかしら」

「大奥様、植物ではないのですから」

「だってダンスであんなに照れているなら、子供ができるまで道は長いわ」

「領地のパトリックから、寝具をすべてビシャビシャにする作戦が届いております」

「まぁ、パトリックったら。またボーナスが欲しいのかしら。でも、今は新婚の時期なんじゃないかしら。雉も鳴かずば撃たれまい、よ。でしゃばりは禁物だわ」

「では、私はあの砂糖を吐きそうな雰囲気の中で仕事をしろと仰るのですね……」


 カニンガム公爵家は今日も平和であった。


 そしてエイトケン伯爵家の嫡男は、こっそりのぞいた母親主催のお茶会で気品と色気をはき違えていたことを悟って金髪巨乳の令嬢を追いかけるのをやめたらしい。エイトケン伯爵夫人から長い長いお礼の手紙と袖の下が届いたとかなんとか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さようなら、私の白すぎた結婚~契約結婚のキレイな終わらせ方~ 頼爾 @Raiji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ