口づけるよりも

蒼開襟

第1話

 夏の空は高すぎる。

 手を伸ばしてもどこまでも続いてきそうで何もかも溶かしてしまうような

 青が眩しい。


 額ににじむ汗がゆっくりと頬を伝って首に落ちた。

 洗い立てのシャツはハリを失い体に張り付いている。

 日陰にいるというのに日に日に不快感ばかりが増してくる。


『都会よりも田舎のほうが良いとかぬかしたのはどこのどいつだ?』


 はらりと落ちた前髪を両手で頭に撫で付けるとため息をついた。

 道の向こうからやってくる白い日傘はこちらに気がつくと少し上に引き

 あがった。


『あら、こんにちは。今日も暑いですわね。』


 近所に住む奥さんだ。


『こんにちは、暑いですね。』


 にこりと返すと彼女は軽く会釈して行ってしまった。


 彼女は甘い香りのする人だ。

 初めて会った時の挨拶でほどけた髪が揺れて香った。

 ごくっと喉が鳴る。

 あの日感じたあの甘い味が蘇ったのだ。

 数メートル離れた木でそれをかき消すように蝉が鳴き始めた。

 ミンミンミンミンとけたたましいやかましい


 首元に指をかけて風を通してみる。

 暑さは変わらないもどこか涼しさを感じる。


 ポケットから懐中時計を取り出してカチリと開くと約束の時間は

 とおに過ぎていた。


 『なかなか難しいな。』


 と体を起こすと建物の影へと滑り込む。


 アパートへと続く坂道を登り一度空を眺めると眼鏡をかけなおした。

 三日ほど食事をしていない。

 空腹で目が回りそうというわけではないが口寂しい気がしている。


 アパートの廊下に入ると掃除をしていた管理人の老婆がにやりと笑った。


 『あらあ、お帰り。』


 箒を動かし続ける手は細く枯れ木のようだ。


 『ええ、ただいま戻りました。お掃除ご苦労様です。』


 隣を通り過ぎて部屋へと入る。

 このアパートはあの老婆のおかげでいつも清潔に保たれている。

 革靴を脱いで畳の部屋に寝転がった、ここが僕の部屋だ。


 がらんとした部屋にあるのは小さな机にいくつかの本の山。

 それから片隅に片付けられたぺしゃんこになった布団があるだけ。

 この部屋に遊びに来た奴は何もないと笑ったがそれほど物は必要ない。

 いずれここも要らなくなる日がくるのだから。


 日が暮れるのを待って外へと出る。

 夏の夜はまだ明るい。


 さっきよりは過ごしやすい暑さに約束の場所へと向かう。

 坂道を下りその先に赤いワンピースを見つけると彼女だとわかった。


 建物の影の中にたたずむ彼女はこちらに気付くと顔を上げて頬を膨らせて

 みせる。


 『どうしてちゃんと来ないのかしら、約束破りは嫌いよ。』


 僕は声もなく笑ったが『ごめんなさい。』と頭を下げた。

 今日は食事にありつける。

 それだけ満たされればこんなことなどどうだっていい。


 肩ほどまでしかない彼女が僕の腕に絡みつき、『いきましょう。』と笑った。


 一週間ほど前すこしまえに出会った彼女は大学生だ。

 この町のお嬢様たちが集う学校へと通っている。


 喫茶店で『何をしてるの?』と声をかけられ、何故そんな真似をしたのか

 聞けば顔が好みだったとか。

 近頃の女性はそんなことをしているのかと驚いたものだ。


 容姿がどうだとかは随分前に言われたことだ。

 あれはたぶんほど前か。


 金持ちのマダムが僕を気に入って部屋に囲っていた。

 美しい人だったがどうにも

 僕はある程度楽しむとその場を離れてしまった。


『ねえ。』


 グラスの氷を回す白く細い指が見えて顔を上げると少し不貞腐れた女子大生の彼女がいる。


『ああ、どうかした?』


 僕はコーヒーに口をつける。


『どうかしたじゃないわ、どうして上の空なのよ?恋人といるっていうのに

 つまらないのかしら?』


 彼女の手元でメロンソーダのアイスクリームが溶けていく。


『今日は暑かったからね、ごめんね。』


 僕の謝罪を受けて彼女は仕方ないと笑ってみせる。


『もう嫌よ、そういうとこ。』


 彼女が首を傾げて微笑むと長く綺麗な髪がさらりと肩に落ちた。


 深夜前、彼女の家の傍に立ち止まると恥じらいも無く彼女は僕の首に腕を

 絡ませる。


『ねえ、今度は何時いつ会えるの?』


 挑発的な瞳に僕が笑うと彼女はムッとした。


『意地悪ね。』


『意地悪じゃないさ。』


 と彼女の唇を奪ってみせる。

 ただ触れるだけ触れると指先で彼女の髪をなでて首筋へと喰らいついた。


 ハッ、と吐息混じりの声が耳元でする。

 唇が温かい肌に触れて歯を立てた。


 ぷつんとはじけた感触に暖かな甘い水が流れてくる。

 喉元に落ちて僕はそれを飲み干した。


 暖かく甘い血。

 三日ぶりの食事にやっとありつけて頭の奥がもっともっととせがんでくる。


 それでも口を離して彼女の首筋に舌を這わせるとスウッと傷は消えた。

 彼女は熱い息を吐いて青い顔をしている。


 恍惚と快感の間で揺れているようだ。

 長い睫毛が涙で滲んでいる。

 僕は彼女の頬に指を這わせてその頬に口付けた。


『また会えるの?』


 熱い息とともに漏れ出した声はいつの時も甘美だ。


『また会えるよ。君が呼ぶなら。』


 別れがたそうな彼女を見送り、僕も家路につく。


 夏の夜を見上げると星が無数に散らばっている。

 空腹が満たされ今夜はゆっくり眠れそうだ。


 目を閉じるとさっき味わったあの甘い果実のような味が湧き上がってくる。

 あの子に会うのはもうあと一度きり。


 そうしたら記憶を消してさようならだ。

 それまではもう少し浸っていよう。

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