ある悪魔の戯言

カタリベ

痛みは悪魔のような夢を見る

「ハァ…はぁ………っ!」

荒い息遣いと、時計の音が聞こえる。

そこに割って入るように、カチカチという五月蠅い金属音が響く。

「シーッ…ぁ、っ」

鋭く息を吸い込み、その刃を穴だらけになった腕に滑らせる。

じりじりとした痛み。ゆっくりと、確実に流れ出る赤い血。

その赤を見ているうちに、くら、と、眩暈がしてきて。

(どうしてこうなったんだっけ…?)

と思いながら、ゆっくりと目を閉ざした。


………


「やぽ~。マールぅ?生きてるかー?」

………。返事はない。

チャイムも鳴らさずに土足で家に踏み入る。いつものことだ。これでマールが怒ったことはない。…いや、常に怒られているような…?

少し廊下を歩いたところにダイニングがある。ドアから中をのぞくが、誰もいない。荒れた部屋がそこにあるだけ。

しかし、俺は知っている。キッチン部分の角を曲がれば、そう。

「おー居た居た。マール。」

そこにはおびえた様子でうずくまり、細かく震えている白髪の成人男性が一人いた。

「おーい、俺のこと見えてる?ってか、今シラフだよな、その感じ?」

俺の問いかけに、目線を上げるマール。黒目の裏から赤いものがにじんだ、綺麗とは程遠い瞳で俺をにらみつける。

「ママ…ママ、ママをどこへやった。」

「だーかーらー、ママはお前が殺したんだって、いい加減覚えろよなー。」

「…まさか。」

急にガタッと立ち上がり、俺の胸倉を掴む。

「お前が、ママを…!?」

薄汚れただぼだぼのTシャツから、傷と穴だらけの細い腕がのぞいている。俺はそっとその腕を掴み言う。

「おーちーつーけ。落ち着け。ママはいったんいいから、俺をよく見て?俺が誰か、わかるね?」

「…プリシア。また来たのか。」

腕から力が抜け、ばたりとその場に倒れこむマール。

「また来たのか、じゃねーよ。お前、これがなきゃ生きていけないだろ?そのくらいはわかってるよな?」

虚ろな目で俺の手を見る。その手には、小さなカゴが下がっている。

「これ、今日の分な。お代は勝手にもらっていくから。じゃ…」

「待ってくれ。」

中途半端な高い声が俺の耳に届く。

「今日は、一緒にやってくれないか?」

珍しい。そう思った。マールがママに会いたい以外の要望を俺に伝えてくるなんて。

「なに、明日槍でも降らすつもり?」

「…会ったんだ」

「…会った?」

マールはゆっくり体を起こす。頭痛でもしているのか、顔をしかめ、額に手を添え座り込む。

「猫耳で。セーラー服を着てた。背中に大きな蝙蝠みたいな羽があって、それで…」

「もういい。そんなの、いつもの幻覚だろ。いいな、まだそれだけ効くなんて。」

「ちがっ…」

何か言おうとして、口ごもるマール。言葉が出ないのか、そのままうつむいてしまう。

「まぁいいよ、一緒にやるくらいなら。最近ラリ友が一人死んだところだし、ちょうどいいや。」

言って、カゴから小さな注射器を取り出す。

マールは弱々しい手で乱暴にそれを奪い取る。直ぐ静脈にそれを刺そうとするマールを慌てて止める。

「まてまて、さすがにこんなところでやっても気分悪いだろ?とりあえず、さ。リビングまで行こう?歩けるか?」

手を差し伸べると、握っているとはいいがたいほどの力でその手を取る。

おぼつかない足取りのマールが転ばないように気を付けながら、リビングのソファーまでゆっくりと歩みを進める。

あまり座り心地のよくないソファーに、マールを座らせる。その横に、そっと腰掛ける。

震える手で静脈にそれを刺しこむマールを横目に、俺も普段から隠し持っている愛用の注射器を取り出し、腕に突き刺す。

「………。」

特に話題があるわけでもなく、静かな時間が流れる。

そのうちにだんだん気分がよくなってきて、どうでもいいことでも話そうかと思い、口を開く。

「そういやマール、さっきの猫耳の話さ…?」

マールのほうを見る。するとなぜだか、彼はすっかりおびえきっていた。

顔を白くして、真っ青な唇で、うずくまって震えている。

「おい、大丈夫かマール?」

「ママ、ママ、ママはどこに行ったんだ…」

またそれか。と、あきれながらも彼を安堵させようと背に手を置く。

「ママはお前がどっか行けって言ったから、どっか行ったんじゃないの?」

「まさか、そんなわけ、」

「自分で言ってたじゃん、妹と母親を殺したって…妹もかわいそうだよなぁ、完全に忘れ去られてるんだもん。たまには思い出してやって…」

言い終わる前に、異変に気付く。

マールが一点を見つめている。そして、記憶の中の何かではなく、それに怯えていた。

彼の見つめる先には…


………


昔から、パパのことは嫌いだった。

いつも不機嫌で、俺や大好きなママに暴力をふるうから。

俺が薬を始めたのは、そんなパパの影響だった。

一本やるから、試しにやってみろ、って。

刺し方なんてわからなかったから、パパに刺してもらって、変な液体を体に流し込んでもらった。

最初はなんてことなかったけど、次第に気分がよくなってきて、気づいたらパパとずっとおしゃべりしていたみたい。

ママはそんな俺に怯えていた。妹は、支離滅裂であろう俺の言動を不思議そうに聞いていた。

いつの日だったか、パパが死んだ。薬のやりすぎだった。

俺は、ラッキーだな、くらいにしか思わなかった。むしろ、開放感があって気分がよかった。

その気持ちよさを何倍にもしてくれる薬は大好きだった。

いつしか、ママは傷だらけになっていた。妹も同じだった。

なんでだろう?俺にはよくわからなかった。わからなくてイライラしたから、ママを殴った。

そんな俺に、ママは言った。もう薬なんてやめてほしい。お願いだって。

ママはそんなこと言わない。

このままでは、いつかパパのようになってしまうって。いや、もうすでになっているって。

………。

気づいたら、目の前にはママが倒れていた。妹も、倒れていた。

目を見開いて、口をぱくぱくと動かしていた。胸から赤いものを流しながら。

俺には理解ができなかった。なんで、どうしてママが倒れているのか。

俺の手にはぎらりと光るナイフが握られていた。

まさか、俺が、大切なママを、?

そんなわけがない。

これは夢だ。悪い夢だ。そう思うことにした。途端、現実が、世界がわからなくなって。

………。

……………。

あれ、俺ってなんだっけ。


………


「マール・シュメルツェン、といったか。」

心地のいい低い声が耳を撫でた。

黒くて長い髪、猫のような耳と、蝙蝠のような翼を生やした、セーラー服の美しい女性だった。

心を奪われるような美しさのその女性からは、ただならない気配が漂っている。

言うなれば、【死】そのものが立っているような、そんな恐ろしい気配。

悪魔だ。直感的にそう思った。

「そっちの、長い白髪のは…初めて見るな、名前は…プリシア・フェリシタ。」

なぜ自分の名前を知っているのか。そう尋ねようにも、声が出ない。

「そりゃそうだろう、正常な精神を持っているものなら、私を前にして正気でいられるはずがない。」

心を読まれた…?何とも言えない心地の悪さに寒気がする。

「なあ、あんた。この前言ったよな。ママの行方を知ってるって…」

マールが言った。

なぜ、言葉を発することができるんだ…?と、思ったが。彼の精神はとてもじゃないが正常とは言えない。

きっと悪魔への恐怖心もなくなっているのだろう。そう思い、勝手に納得する。

「知ってるさ。だが、悪魔との契約にはそれなりの対価がいるんでな…そう、そこの彼とか、な」

悪魔が俺を指さす。何だ、何が言いたいんだ?

「なかなか良い顔をしているじゃないか。私好みの、整った顔だ…どうだ、私への貢ぎ物がこいつというのは?」

「は…!?」

悪魔はにやにやとしながら俺のほうを見ている。

「プリシアを、こいつを渡せば、ママは帰ってくるんだな?」

「そうだな…。望んだ結果にはならないかもしれないが、母親の行方は教えてやろう。」

マールはうつろな目でこちらを見る。

「待て…!!お前、誰のおかげで今まで生きていられると思ってるんだ!?やめろ、やめてくれ!!」

必死に叫ぶが、彼の耳には届いていないようだった。

マールが俺を指さして、言った。

「悪魔さん、こいつをやるから…ママを、返してください…」

悪魔はけたけたと笑う。そして、こちらを見て言う。

「それじゃあ、契約成立だな。」

その声が聞こえたと同時に、目の前の空間に亀裂が走る。

亀裂から、無数の白い手が伸びてきたと思ったあたりで、俺の意識は途絶えた。


………


テレビからは、砂嵐に交じって無機質なアナウンサーの声が流れている。

「先日、21歳男性の自宅から成人男性の変死体が見つかった事件で、」

二人きりの部屋で、ただ、泣きじゃくる。

「警察だ、開けなさい!!」

外からは怒鳴り声と、ドアを乱暴にたたく音がする。

「やっと、会えたのにね、ママ…」

腐った肉がわずかにこびりついた骨に語りかける。

「21時17分、容疑者確保。」

抵抗する力もなく、連行される。

最後に、俺が聞いた言葉は。

「お望み通りの、結果だろう?」

からからと、悪魔が笑った。




痛みは悪魔のような夢を見る 完

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