だんご

ハチ

第1話


   一日目



 驚いた。俺は、今この文章を、夢でも見ているかのような謎の浮遊感に慣れないまま書き記しているのであるが、けさ発生した現象はあまりにも不思議で、恐怖と同時に抑えきれないほど大きな好奇心に駆られたため、これからも観察を続け、このように日記形式でまとめていこうと思う。何が起きたかもうはっきりと言ってしまおう。百姓の俺は、早朝から農作業をせっせとしないといけないのだけれど、布団から出てすぐにけつに違和感を覚え、厠に駆け込んでみたら、そこにあるはずの空洞が綺麗さっぱり消え失せていた。おかしいのはその綺麗さである。無理やり縫い合わせたような痕跡も、その時に発生するであろう傷や痛みも、そのようなものたちは一切なく、元から存在していなかったのではと錯覚するくらいに自然に接着されていた。つまり、誰かの悪質な嫌がらせでもなさそうなのである。神の仕業、妖怪の仕業、としか言い現れないくらいに唐突で、気味の悪い出来事であった。しかし、農作業をさぼると領主様にこっぴどく怒られてしまうし、命がなくなるかもしれない、けつの穴がないと言ったって信用されないのだから、自分の体を心配しているどころではなかった。それに、医者に見せたって対処法なんてものはないし、変に大騒ぎされても困るので、こうやって、出来事をひっそりと書き留めておくことしかできないのである。と言いつつも、特に今日は変化がなく、溜まっていく疲れを、大丈夫大丈夫、とまるでないかのように自分に言い聞かせながら一日中働き、やっと弱音を口に出せるようになったので、俺はそろそろ眠りにつこうと思っている。誰も見ていないだろうが、ひとりは寂しいから、ここにおやすみと書いておこう。



二日目



 今日は、猛烈な便意で目が覚めた。当たり前である。昨日から一度も排泄をしていない。俺は、食欲が抑えきれない人間なので、ある分だけ食べてしまって、いつも食料難と隣り合わせで生活しているのであるが、これ以上食べてしまっては便意が抑えなれなくなってしまうのに排泄ができないという一種の生き地獄のようになってしまうため、朝飯は抜いて、農作業を始めることにした。幸い排尿はできるので、普段より水分をたくさん摂取し、今日もまた、大丈夫大丈夫、と自分に言い聞かせ、作業をし続けた。しかし、今日はそのまじないが効かないくらいに疲労が溜まって、作業をするのも精一杯で、いつ倒れてもおかしくない状況であった。それだけだとまだよかった。俺の住んでいる村は人が多いからか、よくすれ違うのであるが、あまりに便意が凄かったため穴がなくなったことを忘れ便所に駆け込んだ時に、共同の厠なため人と遭遇したことで、あやうくばれてしまうところだった。俺がけつを出すのをためらっていると、

「お前、どうした」

 と話しかけられた。

「いや、なんでもねえ」

「作業大変なんだから早く済ませて行っちまえよ」

「そ、そうするよ」

 明らかに何かを疑っている目でこちらを見ていたので焦っていたが、その後、特に気に留めることもなさそうな様子で、

「ま、がんばれや」

 と去って行ったので、命を助けられたくらいに安堵して、その場に崩れ落ちてしまった。とりあえず、今日は事件が多く、疲れが溜まる一日であった。二日目でもうこれなのだから、今後が不安である。しかし、睡眠を取らないというのは更に体をだめにするので、そろそろ休もう。



   三日目



 大変なことになった。ついに、秘密がばれてしまい、噂としてもう村全体にまで広まってしまった。今日は、あまりにも濃い一日だったので、一日の出来事をまとめていく。

 まず、なぜばれたかについてだが、完全に俺のやらかしである。厠で排尿をしていたら、結びがあまかったのかけつがあらわになってしまい、偶然そこに男が来て見られてしまった。しかも、それから一秒もたたないくらいで男が、

「け、けつがねえぞ!」

 と叫びながら出て行って、その声でたくさんの人が野次馬として集まってしまったのである。腰が抜けて動けなくなった。そして、双方が固まっている状況の中で、ひとりの勇気あるおっさんが俺を担ぎ出して、医者のところまで走り出した。俺は、哀れにもけつを丸出しにして、されるがままになっていた。そのまま、粗末な椅子に座らせられ、医者の高圧的な目に縮こまりそうになりながら俺の診察が始まったのである。

「どうしたの」

「い、いやあ」

「忙しいんだ。早くしてくれる」

「すみません」

 俺がどう伝えようか迷っていると、運んできたおっさんが、

「こいつ、けつの穴がねえんだよ」

 と勝手に言った。

「ほう、けつの穴が」

「そうなんだよ。どうにかしてやってくれや」

「ふうむ」

 と俺抜きで会話をしだしてしまった。しかし、ふたりの圧力が凄く、口をはさむことはできなかった。

「まあ、様子見だね」

 原因不明、と診断された。適当じゃないか、と文句を言いたかった。勝手に連れてこられて、勝手に進められたのにもかかわらず、得るものは何もなくうんざりした。そして、農作業もいつもよりできなかったので悲しみながら帰っていたのだが、それだけで済めばよかった、と見つかったことを後悔した。俺の目の前には、くわや万納などをもってこちらを睨み付ける農民が、畑に集まる虫くらいに気味悪く、群がっていたのである。

「この、妖怪め! 正体を現せ」

 どうやら俺は妖怪らしい。いいや、俺は紛れもなく人間なのであるが、こいつらにはそう見えているらしかった。少しずつこちらに近づいてくるのをただ眺めることしかできない。流石に危害は加えてこないだろうと、精一杯笑顔を浮かべ、胸の前に手を出してなだめていたのに、よほど敵対視されているのか、その中でも目立つほどに屈強な男が、

「成敗してくれる!」

 と叫びながらこちらに突進してきた。あまりの衝撃に、俺は声を出すこともできず息だけを大量に吐きながら、ただ自分の家へと走った。足の速さには自信があった。俺は全速力で村を走り抜けたら、いつの間にか男はいなくなっていた。扉を閉め、俺は泣いた。この村はいいやつばかりだと思っていたのに、俺は今、そいつらに命を狙われている。それが悲しくて悔しくて、例えるなら、突然雨に襲われた若葉のような、そんな心情だった。それから俺は、ひたすらに寝た。日が暮れるまで寝た。いつあいつらが訪ねてくるかわからないので、寝てやり過ごしたかったのと、恐らく、夢と錯覚させたかったのだと思う。そして、今起きて、これを書いているのであるが、夢のように感じるはずもなく、浮世絵のようにはっきりと脳裏に焼き付いていて、それに加え、便意も耐えられないくらいになっていたことで、心も体もぼろぼろだった。いつ壊れてもいいくらいで、書くことすら大変なのに、あいつらは俺を不幸の元凶同然に扱い、今まで俺がしてやったことはなかったかのように感謝も忘れ、ただどう始末しようかとだけ考えているのであろう。災難だ。どれだけ俺が説明したって、信用はされないだろうし、それに、自分が人間だということを証明する道具も案も持ち合わせていない、この村の大多数に決められてしまったらもうそうなのだ。気が狂いそうだった。本当に妖怪なのではと思っていた。釈明はできないし、もう妖怪というのが常識になっているのだから、俺はそうで、人間なのだと勘違いしてここに紛れ込んでいたというだけなのではないか、そもそも人間とは何なのだ、どのような根拠をもってして人間と定め、追い出されないようになれるのであろうか、ああ、だめだ、だめだ、変なことばかり頭に浮かんでくる。もう、寝よう。



   四日目



 日に日に体が壊れていくような、そんな感覚がする。朝起きてすぐに、腹がいてえ、と思った。昨日までの猛烈な便意とは少し違っているけれども、確実に痛みは増していた。体をひねったり、なんなら、少し振動を与えるだけでも痛みが突き刺さるし、それに、腹の上の方の、骨がなくなるあたりにも、また別の痛みがあった。体が食事を求めていた。三日間ほとんど何も食べていない、水すらいつ飲んだか記憶にない、農作業だってできていない、村の人々からも存在を否定され、ほとんど廃人のような生活で、もう生きているだけ、そこにいるだけであった。今日はどうしようか、と答えの出ないことを永遠に自問自答し、横になっていた。何もやる気が起きなかった。そもそも、外に出たって誰かに襲われるのだし、中にいたってすることがない、というかできない、さあ、どうすればいいものか。そんなこと考えていたら、どんどん、と扉を叩く音が聞こえてきて、それが三回くらい続いた。

「そこにいるのはわかってんだぞ!」

「出てこい! 化け物め」

 などという暴言が、たった一枚の板を挟んで何度も何度も発せられていた。愚かなやつらだ。俺がもし姿を現したら、言葉を失いへっぴり腰で刺してくるであろうに、弱々しい扉でどうしてここまで強気になれるのか。しかし、肝心な気力が俺にはなかった。無視をしていると、扉に何か鋭利なものが突き刺さる時の、ぐさっ、という予想通りの普遍的な音が聞こえた。そうして、扉を破壊し、家の中に入ってきたのであるが、ある男が、

「死んでるのか?」

 と安堵の声を漏らしたので、俺は、思わず笑ってしまった。人間は、弱者に対してここまで乱暴で冷酷になれるのか、と少し感心したかもしれない。

「こいつ、生きてるぞ」

「わ、笑うな!」

 態度を二転三転させるのが面白い。解決策もないのだし、どうせなら最期に遊んでやろうと思った。

「仮に俺が妖怪だとして、お前たちは何を求める?」

「ここから出てけ」

「ここ、気に入っちまったのでね」

「お前の居場所はここにない」

 ついに吹き出してしまった。俺は力を振り絞って、

「失せろ」

 と言った。やつらが一匹残らずいなくなるまで、笑いが止まることはなかった。



   五日目



 突然、死の恐怖が襲ってきた。今日、やつらは来なかった。恐らく、やつらに対する復讐心でごまかしていた心の奥の恐怖心があらわになっただけなのだろうが、震えが止まらなくなり、一応、大丈夫大丈夫、と唱えてはみたものの効果はなかった。震えを少しでもやわらげるために俺は丸まっていたのだが、きっとそれはみすぼらしく滑稽で、まるでだんごのようであっただろう。何か得体の知れない闇に飲まれるようで、抑えきれないほどに恐ろしかったのである。痛みは治るどころか更に酷くなっていて、振動が起こるだけで痛みが走るので、動くことすらできなかった。笑いすら、出なかった。笑おうと何度も頬に手を当てたが、反発してしまい、笑えなかった。涙がこぼれた。



   六日目



 助けというものは、大事な時にはやってこないことを知った。仏は無慈悲だ。助けが来ないどころか、人をどんどん遠ざけていく。現実が曖昧になっていくような、不思議な感覚だった。俺が行くのは極楽浄土だろうか、地獄だろうか。死ぬんだな、と思った。しかし、覚悟はできていた。どうせ儚い人生なんだ、どんな形であれ、しるしが残せたなら上出来ではないか。俺はそろそろ寝るつもりだ。久しぶりにぐっすり眠れそうな気がするよ。



   七日目



 たすけて。

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だんご ハチ @hachi_0908

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