本との生活

@hhhhiro

本との生活

  

  

  

 一冊の本が世間を賑わせている。

 

 なんでも物理学の分野において、歴史をひっくり返すような大発見がされたそうだ。

 

 原著が出版されてからすぐに邦訳が発売され、もはやビジネス界隈でその存在を知らない者はいないらしい。

 

 僕を除いては。

 

 普段漫画の活字すら読まない自分にもオススメが殺到するというのは、よっぽどその大発見とやらが凄いのだろう。

 

 昨日カルトじみた興奮状態の同僚に連行され、彼の見ている前で半ば無理やり買わされたハードカバーが今、目の前にある。


 「この世界について」という並の本なら名前負けしそうなタイトルが、装飾のない黒地に金文字で画面いっぱいに書かれている。

 

 あまり気乗りはしないが、もう買ってしまったものだし、売る前に内容ぐらい把握しておこうと表紙をめくった。

 

 1ページ目。「あなたはこの世界の真実を知ることになる。」という小さな文字の横に、外国語で何やら書いてある。おそらくこの文章の原文だろう。

 

 次のページをめくると目次が見えた。

 そこには、理系の用語に関しては門外漢な自分にでも聞き覚えのある単語が並んでいる。「相対性理論」「マルチバース」「量子力学」…。

 

 どうやら本当に、物理学の歴史を変えるような内容が書かれているのかもしれないと、少しだが子供のような好奇心が湧いてきた。

 

 パラパラとめくって第一章を見ると、冒頭には「原初の宇宙とは?」と書かれている。よく知らないがちょっと面白そうだ。

 

 


 何ページか読んだ後、少し休憩しようと腕時計を見ると、もう2時間も経っていた。太陽もかなり上まで登っている。思ったよりものめり込んでしまったらしい。


 インスタントコーヒーを淹れながら、さっき読んだ内容を整理する。


 この宇宙が始まった時、つまりビッグバンが起こった時、すでに時間の流れは複数の方向に分かれていたのだという。

 僕たちが生きる時間の方向とは全く交わらない方向に流れる時間があり、それらはマルチバース、つまり別の宇宙として考えられてきた、と。

 それらは今までどんな方法を使っても全く観測できず、理論上の存在だと思われていたが、なんと今回、それを観測することに成功した!のだという。

 

 なるほど、それは自分にも何かとても凄いことだというのは分かったが、肝心の観測方法や結果部分についてがサッパリわからなかった。専門用語のオンパレードで、もはや同じ日本語には思えなかった。

 

 ただ初心者向けに添えられた解説には、ざっくり言うと、そうした別の宇宙は日常生活にものすごく小さな影響を及ぼしており、今回はそれを観測出来た、と書いてあった。その詳細については、これからいくつか例示があるという。

 

 早く続きを見たいという気持ちが強くなり、飲みかけのコーヒーを置いて本を開き直した。

 

 

 


 十分と経たずに、本を閉じた。僕はなぜこの本を知らなかったのだろう。そして、どうして読んでしまったのだろう。本を読んでこれほど後悔したことは、後にも先にもないと断言できる。

 

 本に書いていた例示はシンプルだった。

 

 それは、別の宇宙は僕たちの夢の内容として現れる、というものだった。

 

 その夢の内容は、どんなものであっても真実として別の宇宙で起こっているし、そこでの結果は、因果の壁を突き抜けて、僕たちのいる宇宙に影響する、と。

 

 じゃあ、あの幼稚園の時にいた木村先生によこしまな思いを抱いて人に言えない事をした夢、あれのせいで彼女は卒業後一度も会ってくれなかったのか、じゃあ中学の時、僕をいじめてきた佐川、あいつの家族も仲間も全員酷い目にあわせてやったあの夢、そのせいであいつの家族は引っ越したのか、じゃああの職場に新しく入ってきた爽やかな後輩、あいつが俺の狙ってる子と夜ホテルに行ったのは夢、夢で、じゃああいつとあの子が仲良しなのは!あれも夢のせいだってのか、くそっ!!じゃあ、あいつがやってたあれは…!!

 

 

 

 我に帰ってふと手首を見ると、時計は十三時を示していた。

 そうか、今になれば、あの同僚があれほど熱狂していた理由が分かった。ああでもしなければ、この本に書いてある内容を飲み込めなかったんだ。この本を読んで取る態度は二つに違いない。

 あんなふうに全力で受け入れてもう過去の事は考えないようにするか、もしくは、ずっと過去の事を悔やみ続けるか。

 

 

 いや、もう自分に嘘をつくのもやめよう。

 俺にはそんな熱狂的な同僚はおらず、あれはただのアマゾンのレビューだったし、そもそも高校を中退してからずっとニートだし、ただ自分より年下の爽やかな男が死ぬほど憎くて、高校のマドンナだった子に片思いしているだけだ。

 そうだ。この本は俺の目を覚ましてくれた。

 もう正直、この物理学がどうやら、宇宙が、夢がどうやらってのは、俺には遠すぎて関係のない話だ。ただ、良い機会にはなった。

 たまには迷惑メールのおすすめを開いてみるのもいいかもな。もう開く事はないが。

 俺は窓を開け、勢いよく外の空気を吸い込んだ。

 

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