絵って所詮イリュージョン?

「モナ・リザの絵を見て、失神しそうになった」

「ダヴィデ像を見て、涙が止まらなくなった」

 こんな体験、みなさんにはあるでしょうか?実際、美大生でもここまで感じる人はあまりいないようです。冒頭のような素晴らしい芸術作品をみて体に異常をきたすことを、「スタンダール症候群」というらしいですが、私の場合はモディリアーニの絵画を見た時にちょっと泣いたことしかありません。


 それに、美大に入り、毎日のように新しい絵画のイメージを吸収していくうちに、純粋無垢な鑑賞は半ば諦めるようになりました。

 どんなに素晴らしいとされる絵画を見ても「あ、この部分はこう解決してるのか」、「なるほど、ちょっと構成を外してきたな」みたいな、“理解してやるぞスイッチ"が入ってしまって、子供のような純粋さで見れているとは到底言い難いからです。

 しかし感動しないわけではなく、むしろその表現の恐ろしい技巧や、それを会得するに至るまでを想像して、畏敬に近い気持ちを抱くことの方が多いです。


 そこで思うのが、絵画はここまで人の心を動かせるが、しかしただのイリュージョンに過ぎないよな、ということです。


 この絵画のイリュージョン性に関しては、ずっと昔、ファン・エイクやレオナルド・ダ・ヴィンチ、カラヴァッジョから現在のゲルハルト・リヒター、リュック・タイマンスまであらゆる試みがされてきたわけですが、それにしても不思議なものは不思議です。


 第一に不思議なのは、絵画は、どんな時にでも絵画であることです。

 ギャラリーの壁にかかっていても、壁に立てかけられていても、道端に捨ててあっても、Twitterにアップされていても、絵画は絵画でしかないわけです。

 恐らくその原因が、絵画のイリュージョン性にあります。表面に絵の具が載って定着したものに過ぎないが、しかし壮大な想像の世界がその四角形から垣間見える、そんな窓のような役割を果たしているということは言えるでしょう。


 その点漫画なんて、作品世界を覗ける窓が沢山あるわけです。

 黒の墨汁またはデジタルの黒で表現される世界は、言葉を伴って、まるでその世界に自分がいるような気にさえさせてくれます。  


 ですが、こんなに想像の世界が豊かでも、それは所詮非現実じゃん、という意見もあると思います。では、立体物の方がエライのでしょうか?

 

 確かに立体物というのは、その場にあるだけで、空間の意味を変える力を持っています。想像してみてください。あなたの学校、職場、もしくは家の前に、15メートルの高さの大仏が鎮座する光景を。

 これはどうやっても無視する事は叶いません。むしろ、それありきの生活スタイルになるでしょう。


 とまあ、こんな極端ではないにしても、物理的な空間の侵食というのは、それなりに私たちの空間の認識も左右するわけです。


 ですが私が思うのは、絵画は別の次元でこれをやっているんじゃないか、ということです。


 つまり、絵画を見ることで、絵画世界に入ることは勿論出来ないわけだけど、その世界で表現されている“世界の見方"を知ることで、実際に現実世界を見る時の感じ方が変わる、選択肢が増える、というような感じです。

 

 例えて言うなら、かの有名なピカソの絵で、キュビズムと言われる様式で描かれたあの変な絵たちを想像してみて下さい。

 あれは描く対象を様々な角度から観察し、それを一つの画面に落とし込もうとした結果であり、それを知ってあの絵たちを見ると、そういった考え方の部分がよく分かるわけです。


 そのような分かりやすいものでなくても、絵というものは、じっくり見ていくと、その人がどんな風にモノを見ているかがどんどんわかってくる代物です。

 

 だからそれがイリュージョンであっても、それが表してるのはそれを描いた人の物の見方という現実であるので、単なる想像という虚無にはならないのだと考えています。


 これは、私が絵というものがこの先も無くならず、ずっと描かれ続けるだろうと信じる理由の一つです。


 皆さんはどう思いますか?

 絵はなくなると思いますか?それとも、これからもずっと描かれていくと思いますか?

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美大生の書簡 @hhhhiro

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