西欧の影、日本の線
“西欧人は陰影で捉え、アジア人は線で捉える"
こんな感じの言説をたまに聞きます。
分かりやすくするために、リンゴを描く時のことを考えてみましょう。
西洋人はまず空間=キャンバスを一色に塗りつぶし、その中からまるで彫刻をするかのように、陰影、ハイライト、中間色を使って、リンゴを浮き上がらせます。
それに対して、日本を含む東アジアの国では、まず輪郭線でリンゴの膨らみ、ヘタ部分などの形をとり、その後に中の陰影部分を描いていきます。
ここでの違いは、明らかに観察の過程、あるいはものの把握の仕方にあると思います。
全体から仕上げる、または、余白の空間の形を見る。
他にも、支持体とメディウム、つまり描くもの、描くのに使うものの違いもあります。
キャンバスという頑丈な支持体に、油絵の具という重ね塗りが容易で隠蔽力も高い絵の具を塗る。
逆に、紙という、一度染み込むと二度と取れない支持体に、水彩という淡くて滲む絵の具を塗る。そういう違いです。
とにかく、そういった描くプロセスの違いというのは、普段から日本の美大で推奨される描き方を見ても、フランスやイタリア、アメリカのデッサンと比べても、歴然とした違いがあると思います。
(ちなみに余談ですが、私は日本式のデッサンがかなり嫌いです。理由はシンプルにあまり仕上がりが美しく見えないからです。)
本題に戻ると、私はそういった言説を聞くとこう思うのです。
「それほんとか?だとしたら何で?」
そこで少し、かの有名なフランスにある、ラスコー洞窟の壁画を調べました。
すると意外なことに、完全に線描で描かれているように見える牛がいたのです!
しかもこの牛を描いた人物は、恐らく現在の“天才"とほとんど同じような存在だと思われていた可能性が高いのです!
じゃあそんな古代の西欧の天才が、日本人と同じような物の見方をしていたんだ!
と考えるのは、少し性急かもしれません。
他に描かれている壁画を見てみると、明らかに動物の腹に落ちる陰影、毛皮の模様の切れ目、輪郭に回り込む影、そういったものが見えているとしか言えない壁画が沢山あるのです。
また、一つ面白い事実があります。それは、この壁画たちはすべからく壁面を傷つける、あるいは、とんでもない遠方から運んで来たであろう顔料を載せる、という方法で描かれていることです。
当然だろ、と思われる方は、小学校の美術の授業で粘土を使った時を思い出してください。私たちがあの時間にしていたのは、「塑造」という行為です。ラスコー洞窟壁画のような「彫刻」ではないのです。
古代より日本人は、ハニワにしても、土偶にしても、土中から掘り出した粘土を練り、成形し、焼成してきました。
反対に、古代ギリシアでは、本物と見紛うモノづくりを目指した芸術家が、理想的な人体を大理石から削り出しました。
ここに、最初に述べた違いの原因の一端が感じられるのです。
また、よく先生から言われる言葉に、「日本人は線で描いて残しても平気だが、西欧人はなんとか輪郭と空間をなめらかに繋げようとする」というものがあります。
そうした性分は、実はすごく昔から変わっていないのかもしれません。
そして最後にもう一つ、私が考える、認識の違いの理由を書いておきます。
はるか昔、私が古代日本人だとして、遠くから来る日本人を認識する時、恐らく最初にその人だと認識する箇所は、その輪郭だったと思います。
なぜなら遠くから見たとき、眼窩の影や鼻下の影はあまり目立たず、それよりも輪郭という情報の方がよく見え、識別出来るだろうからです。
ところがこれが西欧人の場合、最初に目につくのは、コントラストの強い眼窩に落ちる影、あるいは鼻下の影、顎下の影であるはずで、そこでその人であると認識していたのではないか、ということです。
こうした他人の認識というのは、数ある自分以外の識別の中でも特に重要なものだったと思います。社会の最小単位は2人だとか、他人の中に自分というものを見つけるだとか、いろいろ言われますが、そんな大事な他人の認識が、モノの認識にまで影響するというのは、あり得ない話ではないと思います。
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