忘却のレーテー

 夏休みが始まって何日かたったか。ムワッとした、雲のような熱気の塊を幻視する。それが僕の体にまとわりつくように降りてくるので、体からじんわりと汗が滲み出てくる。


 高校2年の夏休みともなれば、受験や部活やその他諸々、目まぐるしい日々が流れてゆく高校生活が、また一層加速度的に忙しくなる前の最後の長期休み。ここで遊ばずしていつ遊ぶ、と言わんばかりに他の学生達は、やれプールだのバーベキューだのキャンプだの花火だの。一度しかない夏の思い出、という素敵で綺羅びやかでエモーショナルな響きに引っ張られる様に、こんなクソ暑いなかあちこちを右往左往して楽しんでいる。


 僕は、夏休みでも冬休みでもなんでも、学校の長期休みが嫌いだった。珍しい人種なのかもしれないが、静かな家に1日中ずっと1人でいると、なにも考えずにはいられない。僕の考えることの大抵のはマイナスなことで、物思いにふけることを、なにか、外的要因でかき消してほしいんだ。だから授業をしてたり騒がしかったりすると、自然と自分のことを考えることはなくなる。


 友達と遊びに行けばいいじゃないか。と、思いもしたが、他人とどこかに行くのは苦手だし、そもそも前述のように、皮肉混じりに考えてしまっている時点で、僕に良好な交友関係の人間はいないのは自明である。


 町を、意味もなく、歩いていた。僕の人生、ずっと生きている感じがしなかった。ゴールが見あたらない、延々と続く迷路を、ただひたすらにつまらなそうに指でなぞっている。


 家を出て住宅地を少し歩いて、商店街を通って、もう今は誰も使ってない錆びたブランコが寂しく佇んでいる小さな公園を横切ってまた少し歩く。境内が広い神社が見えたら左に曲がった。


 そうして小一時間歩き続け、気がつくと、見覚えのある場所にたどり着いた。

 

 この町と隣町を繋ぐ、大きな橋だ。前にも、ここに来たような気がする。


 僕はずっと、人生を意味のない迷路のように感じていた。それに、圧迫感、緊張感のようなものがあった。お前はここにいてはいけない。と、自分の存在を否定されてるかのような、そんな感覚が。


 橋を少し渡って、ぼうっと空をみると、いつのまにか明るいオレンジ色に染まっていた。川の水面が見たくて、気がつくと橋の欄干に腰掛けていた。


 下を向くと、川は、空と同じオレンジ色で、ゆらゆら揺れている。


 意味もなく歩いてたのは違ったのかもしれない。橋の欄干に座って僕は、妙にしっくりときた。ここで、僕の人生の迷路を終わらせよう。


 一回、すーっと深く息を吸って、はーっと吐いた。今までの苦しみとか、後悔とか、悲しみとか、そういう自分の周りに纏わりついてた負の空気を吸い込んで、その空気の味と共に、いろんなことを思い出しながら。そうして息を吐いたとき、もう、迷いはなかった。


 「いくか」


 勢いよく体を投げ出した。急速に上昇する世界に戸惑いも恐怖もなく、妙な浮遊感を感じながらその景色を眺めてた。不思議と時間はゆっくりで、酷く滲んだ夕日を目に焼き付けた。


 そして今度は、冷たい水の感触。どんどん沈んでいき、水面から遠ざかっていく。自分の吐いた息が泡となって昇っていく。


 ぼんやりとそれを眺め、次第に意識が、、、、、


 「ぼっ、ぼがぁ!かばばばば!おごばぁ!」

 「ぼごっ!?!?」

 

 死を覚悟し、入水した直後。なにか大きな物体がそこに出現した。


 「(え!?、な、なに!?上からなんか来てんだけど!? 人!?)」


 「ぼがががぁ!」


 急に僕の目の前に現れた人間は、酷くもがき苦しんでいた。完全に溺れている。どうやら、少なくとも目的は僕と同じではないようだ。え、?同じタイミングで落ちたの、、、、、、、? いや、そんなこと考えている場合ではない。クソッ。


 「ぼがぐがげぇあ!、あ!?」

 「ぼがが!(落ちつけ!)ぼばばうばが!(今助ける!)」


 そいつの脇に腕を引っ掛け、体をくねらせるように動いてなんとか水面に顔を出した。

  

 「ぶはぁ!っ ゲホッ、ゲボッ!」

 「落ちついてろ!」


 多分、いや、間違いなく、ここ10年で一番体を動かした。そのくらい必死に、そいつの体を引っ張りながら岸に向かった。水を吸った服が重く、ものすごいスピードで体力を奪われた。口から肺に水が流れ込んできて、何度も咳ごみながらも泳いだ。足の感覚がおかしくなり、目がチカチカしてきたあたりでなんとか岸にたどり着いた。

  

 「ぶはっ!、っはぁ、はぁ、ゲホッ!」

 「っはぁ、はぁ、はぁ、、、だっ、大、、丈夫か、、、?」

 

 女性だった。それに金髪。自分と同い年か、それより幼いくらいか。当たり前だが全身ぐしゃぐしゃに濡れていて、金色の長髪が顔にへばりついており鼻水が出ている。相当の量の水が肺に入ってしまったのか、「ゲボッ!あびばっ、あびばっぼっ!ゲホッ」と、何か言おうとしてるのはわかるが何を言っているのか分からないくらい咳ごんでいる。


 「落ちついて。とりあえず水吐き出しな」

 

 コクっコクっと彼女は頷いた。 


 それにしても、一体何者なのだろうか。少し不思議なのは、川に落ちてきた、というより、"僕の目の前に急に現れた"、という感じだった。そもそも橋には僕以外の人間はいなかったし。


 今も肺に溜まった水を吐き出すためにえずき続ける謎の少女。結果的に彼女のおかげで助かってしまったわけだ。


 「おい、大丈夫か?」

 「ゲホッ!ゲホッ!ん゙ん゙ん、、、、っはぁ、」

 「やっと落ちついたか」

 

 咳は止まり、ぐちゃぐちゃになった顔面をごしごし擦り、ようやく彼女のまともな顔をみれた。


 「、、、、」


 少し、驚いた。なんていうか、心の奥の方の、なにか大切な部分を脅かされたような。もちろん、初めて見る顔だし初対面のはずなのだが。なんというか。


 今このときに彼女が現れたのが、偶然ではない気がしてならなかった。


 たが、そんなスピリチュアルな感覚も、次の瞬間吹き飛んだ。


 「あー、焦ったぁ、、、ちょっと。アンタなに落ちてんのよ」

 「えぇ」


 あんだけ必死に犬かきしたのにそりゃぁないでしょ。


 「この状況で何故僕に文句を言う」

 「アンタが落ちたからこうなったんじゃない」

 「僕が川に落ちたのとお前が溺れてたのにどういう因果関係があるんだ。さっきまで死にそうだったのに急に元気になりやがって」

 「え、私、結構えずいてたりした?」

 「そりゃぁもう、ちょっと引くくらい」

 「えぇ、はずい」


 謎の金髪の女性が急に川にダイブしてきたものだからわりと物凄くちゃんと困惑していたのだが、なんと気の抜ける、というか気に障る言葉のキャッチボールなのだろうか。先刻までの色々な感情とか、覚悟とか、なんかこう、全部なくなってしまっていた。


 「助けてやったんだから、礼くらいあれよ」

 「なによ、上から目線に。命の恩人にでもなったつもり?」

 「なっただろ、恩人」

 「あ、そっか。じゃぁ、、、、、、ありがと」

 「なんでちょっと不満そうなんだよ」

 

 なかなかに失礼なやつだ。


 「失礼なやつめ」


 口から出ていた。


 「ちょっと、ファーストコンタクトでよく人にそんなこと言えるわね」


 なぜ英語で言った。


 「これがお前とのファーストコンタクトでありワーストコンタクトになりそうだよ」

 「くふっ、ちょっと面白いわね」


 つくつぐ調子の狂わされる。そうだ、危うく一番聞かなければならないことを忘れそうだった。


 「そんなことはどうでもいい。お前は一体、なにもの、、」

 「へぶしっ!」

 

 ようやくこの不毛な会話に終止符を打つ核心へと近づく問いかけをしようというところだったのに。

  

 「、、、さぶい、、、、、、」

 「、、、、とりあえずこっから移動するか」


 


 


 正直、来た道を戻るなんてことはないと思っていた。死ぬ予定だったし。そんでなんか一人増えてるし。


 「どこに向かってるの?」

 「僕の家だよ。こんなナリじゃ店にも入れないだろ」

 「私を連れ込む気!?」

 「置いてってもいいんだけど」

 「うそうそ、冗談」

 

 さっきまでは沈みかけだった太陽も完全に見えなくなった。あたりは暗くなり、人通りも少なくなってきた。少ないとはいえ、ずぶ濡れの男女が歩いているのだから多少なりと目立つ。河童が人間に化けたとでも見られてたらいやだな。


 それにしても本当に彼女何者なのだろうか。もしかしたら川に落ちた僕を助けてくれようとしたのではないか?はたまた自ら飛び込んできた頭のおかしいやつか、はたまた化けた河童か。後の2つの可能性が高い。話をしようとしたが本人は「寒いからあとで」とのことだし、ここで話しても疲れが貯まるだけだと思ったのでやめた。


 



 「おー、シケたとこに住んでるわね」

 「置いてくればよかった」

 「いいじゃない。なんというか、特筆すべき点のない普遍的なボロアパート」

 「そこまでボロくないだろ!もう少し気を使った発言はできないのか?」

 「まぁまぁ。立ち話もなんだし、早く入りましょう」

 「僕の家、、、」


 僕の家は、商店街を抜けて住宅地を少し進んだ場所にある彼女曰く特筆すべき点のない普遍的なボロアパート、いや、断じてそんなにボロくない。そのアパートの2階の一番端の部屋だ。


 「シャワー先、早く浴びてこい」

 「ありがとー」

 

 男の部屋のシャワーを見ず知らずの女性に使わすのはいかがなものかとも思ったが、彼女はそういうのを気にしないタイプらしく、いともすんなりとシャワー室に入っていった。しばらくして自分もシャワーを浴び、やっと落ちついた時間がやってきた。


 「あんまり物を置いていないのね。ミニマリスト?」

 「そこまでじゃないだろ、ミニマリストに失礼だ」

 「ご家族は?」

 「、、、、一人暮らしだ」

 「見たところ高校生くらいに見えるけど?」

 「高校生だよ、、、2年生」

 「ふーん、、」

 「それよりお前のことだ。お前は一体何者なんだ?なんで急に川に飛び込んできた」

 「そりゃぁ私は、、、、、、ん?いや、あ、あれ?」

 「なんだ」

 「あ、いや、私は君を、、、、、ん?」


 彼女の様子が急におかしくなった。いや、そもそもおかしいやつなのだが、明らかに困惑しているようである。


 「どうしたんだ?」

 「あ、いやぁ、、、えーとぉ、なんというか、、、」

 「歯切れが悪いな」

 「んー、信じてもらえるかわかんないんだけどさ」


 そう言って彼女はわかりやすく首をかしげながらこう言った。


 「なんか、、、思い出せ、、、ない」 

 「はぁ?」


 首をかしげたいのはこっちだ。


 「なん、、え? 思い出せないってどゆこと?」

 「あ、いや。なんかね、川で溺れかけてアンタに助けてもらうより前の記憶が、、、ないのよ。さっぱりだわ。なんであんなとこにいたのか。どうして川に飛び込んだのか、、、とか。え、てゆうか、私って誰?」

 「なっ、、、、」

 

 なんということだ。記憶喪失金髪少女が落ちてくるなんて、まるでコミックじゃないか。


「な、名前も覚えてないのか?」

 

 彼女は首を横に振った。


 「あ、まさか!川に落ちた僕を助けるためにお前も飛び込んで、そのときの衝撃で頭やっちまったとかか!?」

 「頭を打った覚えはないわ」

 「な、じゃぁなんだ!?僕をだましてるのか!?新手のナンパか!?」

 「何言ってんのよ落ちついて。ハッ倒すわよ」

 

 僕がどんどん慌てだすのを見て、彼女は逆に落ち着いていった。


 「と、とりあえず、、、救急車か、、?」

 「まって」

 「え?」

 「何も呼ばなくていいわ」


 彼女は酷く落ち着いていた。普通は自分の名前すら思い出せなくなっていたら発狂してうずくまるくらいになるはずだろう。少なくとも僕はそうなる自信がある。だが彼女は、毅然とした態度でそこにいた。先刻までの彼女とは違う誰かのようにさえ思える、堂々たる姿が見えた。

 

 何が彼女をそうさせているのだろうか。 

 

 「記憶は思い出せないし、自分が何者かもわからないけど、一つ、確信していることがあるわ」


 そう言って彼女は、真っ直ぐ突き刺すような、自信に満ち溢れた目で僕を見つめ、指を差しこう言った。


 「私は、アンタに会いに来た。何もわからなくとも確信できる。断言できる」

 「な、、どういうことだ、、、?」

 「理由は、、、わからない。でも、わかるの」

 「、、、、やっぱり新手の、、、ナンパ?」

 「違うわよ!!」

 

 自殺しようとした自分と一緒に川に飛び込んできた少女は記憶喪失だが、僕に会うのが目的だったらしい。川に落ちたら記憶を失ったなんて、まるでギリシア神話のレーテーじゃないか。レーテーと呼ばれる河川の水を飲んだら全てを忘却してしまうという。 


 「あ、怪しすぎる、、、」

 「信じてほしい。私は今、アンタと離れるわけにはいかない、、、、気がする」

 「信じるっていったって、、、、」

 「私がアンタに会いに来た目的は、アンタと一緒にいれば必ず思い出せる」

 「、、、、、、、、」


 正直、何を言ってるのかさっぱりだし、本当ならすぐにでも病院か警察に行くべきだ。でも。


 「、、、いや、わかったよ」  


 彼女と今別れてしまったら、もう二度と会えない気がしたから。"また"、失ってしまいそうだったから。思い出してしまったから。


 奇しくも、彼女と同じ髪色をしていたから。


 「、、、、、、、信じるよ」

 「、、、!ありがとう」


 別れるのは、僕の前に現れた理由を知った後でもいい。


 「と、いうことで、今日からよろしくね」

 「あぁ、よろしく」

 

 この日、人生で10回は経験した夏休みの日々は、いつの間にか終わっているものではなく、君によってぐちゃぐちゃにかき乱された摩訶不思議な日々へと変貌を遂げた予感がした。でもなぜだろう。不思議と嫌な気分ではなかった。


 「ところで、アンタ名前はなんていうのよ」

 「あぁ、名前か。僕の名前は"思兼 時一"(おもかね ときいち)だ」

 「おもかね、珍しい苗字ね。かっこいいわ」

 「どうも」

 「私は、、、どしよ。覚えてないし、好きに呼んでいいわよ」

 「え、投げるのかよ、、、、んーじゃぁ、”レテ"なんてどうだ?」

 「ちょっと変わってるけど、いいわ。好きよ」




 無理やり終わらせようとした意味のない迷路は、思わぬところで意味をもつ。目標もゴールもまだ見えないが、淡々と指でなぞるだけではなく、その道は立体を帯びた。


 僕も彼女と同じように、根拠もなにもないけど、この出来事はなるべくして起こった、必然性を感じていた。




 冷房の効いた四畳半の部屋にいながら言うことではないかもしれないが、多分この先、今年よりも暑い夏はやってこないだろう。そんなわけのわからない確信をもちながら、部屋の窓を開けた。





 気持ちの良い夜風が僕らの頬を撫でた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏休み泡沫戦争記 @is0918

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ