第8話

「うーん、どういう意味なんだアレ」

 バイトを終え、ひとり帰路についた守屋一郎はそうつぶやいた。

 陽はすでに沈んで空は暗くなっている。病院前の大通りは変わらず車通りが激しいが、車体が空を切って進む音はいい環境音になる。考えごとにはもってこいだった。

 しかしじつに悩ましい。火野燈が言った、あの言葉がどうしても引っかかるのだ。


〝がんばってね〟


 急に馴れ馴れしく話しかけてきたかと思えば、そんなことを言いだす。

 やはり、なにを考えているのかまるでわからなかった。

(皮肉にしちゃさわやかだから……うーん、どうだろ)

 考えあぐねて一郎は何度目かのため息をついた。最近、ため息が多い。幸せを逃がしすぎてなにか大きなトラブルに巻きこまれそうだ。

 本気でそんなことを信じているわけじゃなかったが、一郎は気をつけることにした。

(それより……だ)

 今日はすこし長居をしすぎてしまった。

 退勤後、しばらく夏美の話を聞いていたのである。むろん話題は彼女が実際に目撃したという、あの真理亜という少女について。あくまでほんの好奇心から尋ねたものだったから、軽く立ち話をする心づもりでいたが、夏美の語りはえらく長かった。

 そのおかげか、いつもは左へ曲がって狭い道に入るのを避けている。あそこは人通りはもちろん車通りもまばらで、設置されている外灯の数もすくない。近道だから、と淡泊な理由であの道を日頃から通っていたが、いまとなってはそのころの自分を叱責したい気分である。

 目の前でちょうど信号が赤になり立ち止まる。一郎は黙って青になるのを待っていたが、しかしそのタイミングでポケットが震えた。びくっと一郎の身体が跳ねる。なんだ、と思いつつポケットをまさぐると、すぐにわかった。携帯だった。着信だったのだ。

 すぐに応答し、

「どうしたの、母さん」

 と、言った。

「あ、一郎くん? いまどこにいるのかしら?」

「どこって。いま帰り道だけど」

「そう、ならよかったわ。ぶじに帰れそう?」

「うん」

「じゃあすぐに帰ってきてね」

 と、母はそれだけ言って電話を切ってしまう。

 いつものことなので一郎はたいして気にしない。が、このあいだ友人がこの会話を聞いたときに言ったことが頭によぎった。


〝おまえん家の母ちゃん、ちょっと過干渉なんじゃねえ?〟


 言われて一郎は、まあ、たしかに、とうなずいた。

 やはりほかと比べるとうちの母親は、どこか違う。

 違うといえば、彼女は。千鶴子はじつの母ではない。しかしここまで自分を育ててくれたので、血の繋がり自体にあまり興味はない。……なにより、千鶴子にとって悲しいことだからである。

 そのとき、隣からクラクションが聞こえてきた。ほぼ不意打ちだったので、一郎はまた身体をびくりとさせた。音の鳴ったほうへ振り向くと、助手席側の車窓を開けて運転席から首を伸ばす誰かさん。その誰かさんとは、志摩晴彦その人である。

「バイト帰りか?」

「……そうだけど」

「そう。じつはいまから飯食おうって思ってさ。よかったら、いっしょにどうだ?」


「一郎、おまえ相変わらずきついよな」

 と、晴彦が言う。

 ここはファミリーレストランである。母には晴彦さんと食べてくると告げている。じつのところ千鶴子は晴彦のことをよく思っていない。ただ、教師でありなにより兄の息子であるため、邪険にはできない……というのが千鶴子の本意らしい。

 なので、本来はこういった外食は許されないことなのだ。相手が友人ないし恋人であるなら、なおさら。しかし今回は夜遅くまで外出しているため、千鶴子の意見ももっともだろうとは思う。

「きついって、なにが?」

 シチュードリアをスプーンですくいつつ一郎は首をかしげた。

「昼間だよ。あんまり話しかけるな、だなんて。俺ってそんなに千鶴子さんから嫌われているのかねえ」

「そこ、俺から嫌われているってことにはならないんだな」

「ん?」

 楽しげに、ニヤニヤと笑みをうかべる晴彦。

「だって実際、俺のこと嫌いじゃないでしょ。千鶴子さんの晩ごはんよりこっちのほう優先するだなんてさ」

 ……と、志摩晴彦の本性はこんな感じである。

 学校中の晴彦のファンがこんな姿を見たらどう思うのか。半分はファンを自称することをやめ、もう半分はそれでも追いかけるだろうな、という予想がついた。

「……ふん。そりゃあ、他人の金で食うメシは美味いからな。当たり前でしょ」

 むっとなって一郎は反論した。

 晴彦はそれ以上なにも言わなかったが、やはり意地の悪い笑みをうかべるままであった。それがどうしても気に喰わず、一郎はデザートを注文してやろうとした。すると、晴彦は必死になって「ほら、給料日前だから、な? そこまでにしよう」と説得してきたので、やめた。

(一本とってやったぜ)

 淡泊な表情でいたが、内心はほくそ笑んでいた一郎であった。

「そういや、晴彦さん」

 ちょうどいい、あとすこしだけいじめてやろう、と一郎は思って、

「女子生徒に好かれたことってあるの?」

 と尋ねた。

「ヘンなこと聞くねえ。そりゃあるよ。見てわかるだろ、ほら、俺ってすごいモテるから」

「なら、告白されたことってある?」

「……まあ、ないこともないな」

 そこで察したらしい、晴彦の明るかった表情が曇った。

「うれしかった?」

「残念ながらうれしくはないな。子どもに告白されるならまだしも、生徒に告られるってのは正直迷惑でしかない。こっちの立場も考えてほしいって思うよ、ほんと。まあ、子どもが大人に憧れるなんてのはありがちな話だけど、俺からすりゃ、たいていその大人と同い年になりゃこう思うはずだ。

 ──あ、あいつってけっこうガキだったんだな。ってな具合で」

「……そう」

 言葉は選ぶべきだとは思うが、晴彦の言っていることがいわゆる一般論なんだと思う。生徒が教師に告白する。それは、生徒からすれば大切な想いでも、日ごろから生徒たちによってストレスをためている教師からすれば迷惑なのだろう。社会的にも問題になりかねない。

「なんでそんなことを訊いた」

 好奇心のため。

 そう言おうとして一郎は顔を上げて、後悔した。笑みの消えた口元、揺るがぬ瞳、眉間に寄ったしわ……晴彦は怒っているのである。

「あのとき」

 一郎は白状することに決めた。

「晴彦さんが告白されているところ、扉越しに聞いたんだ。……ごめん。悪気はなかったんだけど」

「べつにいいさ。ほかのやつに教科書を受け取ってもらうよう配慮しなかった俺が悪い」

 晴彦はコップに入っているウーロン茶を飲み干して、

「でも、いじりのネタに使うもんじゃないぞ。あの子に悪いだろう。迷惑であれ、笑いごとではない」

「……それはそうだけど。でも、あんたも子どもだのなんだのと言っていたじゃないか」

「べつにバカにしたわけじゃない。ただ、限度があるだろ、そういうのって。げんにあの子はべつに俺のことを詳しく知っているわけじゃない。それなのに好きだというのは、たんに一目惚れか、憧れのどちらか。経験豊富ってわけじゃないが、すくなくとも憧れってのは恋のうちには入らないよ」

「どうして?」

「彼女が見ているのは偶像ぼくだから」

 ああ、なるほど──と一郎は手を打った。

 晴彦は、一郎の皿が空になったのを見てチャイムを鳴らした。やってきた店員に彼はデザートを注文した。

「財布の中身、あんまりないんじゃないの」

「給料日前って言っただけだろ。ま、俺からの詫びだ」

「? 詫びってどういうことだよ」

 一郎が首をひねると、晴彦も同様に首をかしげた。

「だってあの子、おまえが狙ってたんだろ」

「なっ……!」

「違うのか? いまのいじりにしたって、てっきり俺は仕返しのつもりかと」

 違う、と言いかけて一郎はいったん口をつぐんだ。ふしぎに思っているのか、晴彦はフクロウのように左右に首をかしげているところから視線を外し、

「むかしの話だよ。もう、いまは違う」

 そう、いまは違う。

 けれど、晴彦が火野燈に告白されているところを耳で聞いていて、やはり居心地はよくなかったとは思う。


(まあ、それも──)


 晴彦に言わせれば、のだろうな。

 それから一郎と晴彦のあいだに会話はなかった。

 ただデザートを待って、食べて、会計をして──あの家に帰るだけ。

 なんのことはない、日常を映したフィルムのほんの一部である。

 そう、を映したフィルム、なのだ

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葬儀屋はかく語りき。 静沢清司 @horikiri2

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