第7話

 そのころ、火野燈は自宅の玄関先で靴を脱いでいた。

「おお、おかえり。燈ちゃん」

 にっこり笑って、左手の居間からひょっこり顔を出す叔母。三井静子みついしずこといい、実母の妹だ。

「あれ、叔父さんは」

 靴をシューズラックにしまい、正面の階段の手前で叔母に尋ねる。

「あの人なら買い物よ」

 と、目を細めて言った。とはいえ、もともと狐みたいな顔で、生まれつき目が細い。怒っていても笑っていても、目つきにさほど違いはなかった。

「また喧嘩?」

 呆れてため息すら出てこなかった。

 叔父さんこと修次郎しゆうじろうと静子はよく喧嘩をする。とはいっても、きっかけは小さなものからだし、喧嘩といってもささやかな痴話喧嘩にすぎない。

 燈自身は彼らのそんなやり取りを惚気だと思っている。実際、仲直りしたときのラブラブっぷりがたまらなく甘く、若人である燈のほうが胸やけするほどだ。

 でも、悪いものだとは思っていない。むしろうれしい。あきれることがほとんどだが、気づけばくちびるの端がつり上がっていることもある。

 だからきっと、うれしいのだろう。

「喧嘩じゃないわ。立派な制裁よ」

「今度は叔父さん、なにやらかしたワケ?」

「あたしのゲームを勝手にクリアしたのよ、最悪じゃない?」

 静子はゲーマーである。

 彼女の友人から勧められたのがきっかけなのだそうだ。息子から勧められてやってみたら、すっかりハマっちゃって──とその友人は言っていたらしい。その話の流れで、息子が上京した際に置いていったゲーム機とソフトをもらった、とのこと。

 最初は頭の体操だの若者の文化だのと仕方がなさそうに言っていたが、そのときの静子の表情には好奇心が見え隠れしていた。

 で、ゲームのことで憤慨するぐらい、見事にのめり込んでしまった。

「しかもあれね、ストーリーが肝なの! それなのにあの人ったら、『だってラスボス戦で苦戦していたし、手伝おうと思って──』だってさ! ああーんもう! 意味わかんない! 苦戦しながら戦略立てて勝ち抜くが醍醐味でもあるのにぃ!」

 あはは、と燈は苦笑する。

 たしか静子がやっていたのは、今年の初めに発売されたジュヴナイルRPGだ。内容は過去作品のリメイクで、友達の一人も「もう五周目突入しちゃったよ」というぐらいやり込み要素のあるゲームらしい。

 燈もゲームに興味はあるものの、うまくやれるのか不安で手を出していない。今度、叔母さんに教えてもらいながらやろうかな、と思っていたら、

「よし、燈ちゃんっ。ごはん行くわよごはん!」

「え、でも叔父さんがいろいろ買ってくれているんじゃあ?」

「そんなの関係ないわよ。あの人が悪いんだし。一人で寂しく冷ややっこを箸でつついていればいいんだわ。わたしたちはうどん食べに行くわよ」

「うどん? まあ、いいけど。どこに行くの?」

「駒取病院前にファミレスあったでしょう、あそこの隣よ」

「ああ、あったね」

 いつも叔母の食事もとい愚痴に付き合うときはそこのファミレスを利用していたが、今度は趣向を凝らして隣のうどん屋──。

 なるほど、これはかなり鬱憤が溜まっているんだろうな、と燈は察した。

「まあいいけど」

 と、燈は微笑いながら言う。

 だが、すでに叔母のほうは化粧台のほうに座って準備をし始めていた。

 私服に着替えるのも面倒だし、制服のままでいくか。燈は自分の服装をながめながら思った。


「いらっしゃいませぇ、空いてるお席へどうぞー!」

 戸を開いたとたん、レジ前にいた店員が芯のある声で言った。燈と静子はお互いを見合わせ、入口近くのテーブルに座ることにした。メニューを一見し、とりあえずざるうどんにするか、と燈は早々に決めた。静子はごぼう天うどんにするらしい。

「ご注文お決まりでしょうか──」

 と、若い店員がハンディーを持ってやってくる。

「あ、すいません。ざるうどんを──え」

 口の動きが止まる。心臓がきゅっと締まった。

 燈はつり上がったくちびるの端が引きつる。

(え、うそ。なんで)

 瞬きさえも忘れたその数秒の静寂を、最初に破ったのは〝彼〟のほうだった。

「失礼いたしました。ええと、ご注文どうぞ」

「あ、はい、そうですね」燈は必死に笑顔をとりつくろう。「私はざるうどんで」

 静子がそれをふしぎそうに見つめながら、

「あたしはごぼう天うどんをお願いします」

「かしこまりました」

 彼はうなずき、注文をくりかえしたあと、すぐに厨房のほうへもどっていった。

 燈はがくん、と頭を垂れる。なんでここに、彼が? くちびるを引き結び、さっきの顔を思いうかべる。そして顔を上げる。厨房のほうをのぞくと、ちょうど目の前を彼が通っていく。ほかのテーブルへ注文をとりにいくようだった。その際、彼と目が合ってすぐに目をそらす。

 そしたら静子が「あら、もしかしてボーイ・フレンドかしら」と邪推したものだから、

「違うっつーの!」

 と大きな声をだしてしまった。

 周囲の視線が集まる。客数はそれほど多いわけではないが、やはり頬が熱くなってしまう。

「中学校のときからの顔見知りってだけ。べつにそういうわけじゃない」

「へー、そう?」

 にやにや、と静子が目を細める。

(なんたることか。私が身も心もささげていいのは、志摩先生だけだ!)

 という言葉が喉まで出かかったが、なんとかこらえる。

 しかし、彼──守屋一郎がバイトをしていたとは。聞いたところによると、お金持ちだといううわさなのに。お金に困るような状況には陥らないはずだけれど。

(家が厳しいとか、かな)

 お金持ちだからお金に不自由はしない。しかし、だからといってお金を自由に使っていいわけではない、ということだろうか。そういう家訓があって、身を以ってお金の大切さを知るべく稼ぎに行くということもありえそうだ。

(えらいなあ、守屋くん)

 そうやって、彼の姿を目で追っていると、

「やっぱり好きなの?」

「え、いやいやナイナイ」

「ええ、つまんなーい」

「女子高生かよ」

「でも……」

 静子がとろりとした表情で、守屋を見る。

「なんだか似ているわ、修ちゃんと。彼もね、学生時代は飲食店で働いていたのよ。あたしそこの常連でねえ。よく食べにきていたら、彼が話しかけてくれて。まあ憶えているわよねって思っていたら、彼ね、こう言ったの。『憶えていましたよ。おいしそうに食べる姿がとても魅力的でしたから』だってぇ! もうね、そのときからぞっこんだったなあ、あたし」

「まーた始まったよ、叔母さんの惚気話。ていうか、さっきまで叔父さんのことで怒ってたじゃない」

「まあね。でも、それとこれとはべつよ」

「ふーん」

 それとこれとはべつ、か。

 その話が終わると店員がお盆にうどんを乗せてやってきた。その店員とはもちろん守屋である。彼がテーブルにうどんを丁寧に置いたあと、燈は「ねえ」と話しかけた。

「がんばってね」

「……あ、ああ」

 と、呆けた表情のまま厨房へもどる。

 静子のほうに顔を向けると、彼女はささやかな笑みをうかべながら燈を見ていた。

「あんたもやるわね、ホント」

「……知らんふりすんのも気持ち悪いだけだし。まあ、それに──」

「それに?」

「ううん。なんでもない」

 と、首をふった。静子は「なによぅ」と不満げだったけれど、言わぬが花というやつだ。

 ほっと息をつく。なんだか、田んぼ道を通っているかのようななつかしい気分になってくる。涼やかな心持で燈はつゆにつけた麺をすすった。


 ──中学時代に、思いを馳せながら。



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