第6話

 職員室へ行き、教科書を返した。

 そのときの志摩は眉を寄せて、怖い顔をしていた。

 一郎の気配に気づき、慌てて笑顔を浮かべたが、どこかつくりものめいていた。彼らしくもないが、原因は知っている。知っていることに、またさらに罪悪感が両肩に乗る。

 志摩の女子人気はあくまでアイドル的なものだ。教壇ステージに立つ彼の偶像えがおに惹かれた者たちが、いっしょになって彼を持ち上げる。

 もしかしたらファンの存在を彼は知っていたのかもしれない。いや、たしかに認知していたはずだ。けれど彼は知らなかったのだ。ファンとしてではなく、異性として惹かれている者の存在を。

 アイドルといえども、彼はいち教師。

 教師と生徒のあいだには一線が引かれているのがふつうで、その絶対的な壁を堅固なものとするため、さまざまな防衛線が敷かれる。たとえば連絡先は交換しない、なんていちばんわかりやすい一例だろう。

 一郎は嘆息たんそくする。

(火野にはどう謝っておこうかな)

 会おうにも顔を合わせてくれないのかもしれない。中学時代の彼女ならまだしも、いまの彼女は慎ましく控えめだ。口外したら殺すわよ、なんてことは言ってくれない。言ってくれたほうが話が早いし、助かるのだが……。

 駐輪場から自転車を持ってきて、正門を出る。

 いまから向かうのはバイト先のうどん屋だ。家の近くで、大通りにある駒取こまどり病院前にある。

 隣にはなんと全国的なファミリーレストランで、大半の客はそっちに吸われている。とはいえ、一定数の売り上げはあげているので潰れる心配はまるでない。

 バイトができる年齢になって、無難にコンビニバイトでもしようか、と考えていた。だが時給が低い上、近場のコンビニの店長がこれまた無愛想な人間で、勤務先としてふさわしいとはとても言えなかった。

 そんな折、友人からバイト先を紹介された。

 友人とは中学校のときからの付き合いで、いまは別の高校で元気にやっているらしい。その友人にメールで相談したところ、このうどん屋を紹介してもらったのだ。コネといえばコネだが、身もふたもないので一郎はあまり考えないようにしている。

 ──三澄屋みすみや

 店の前に自転車を止めて、看板を見上げる。この一筆書きの三文字こそうどん屋の名前だ。いちおうチェーン店だが、一郎の住まう鳥羽町ではここしか見かけない。どうやら隣町にもう一店舗あるのだとか。

 脇の細い路地を通って裏手に回る。

 偶然、そこには煙草を吹かしている老人がいた。年齢はたしか七十代ほどだが、筋骨隆々とした大男である。しかし店長ではない。

 男は白い歯を見せて、

「よう、いっちゃん。久しぶりだな」

 名前は熊谷正行くまがいまさゆき

 熊谷は一郎を〝いっちゃん〟と呼ぶ。彼はあだ名をつけるのが好きなのだ。

 一郎は熊谷のおやっさん、またはおやっさんと呼んでいる。本人の前では熊谷さんだ。あだ名は心の中にとどめている。

「お久しぶりです。まあ、ちょっといろいろありまして」

「おお、なんでえ、いろいろってェのは」

「いろいろはいろいろですよ」

「ハハハ」

 おやっさんはそれ以上追及しなかった。

 いかにも時代錯誤な爺さんといった風情ふぜいだが、なにもかも不躾に追及したり突っ込んだりはしない。しかし、たとえば地雷を踏んだときのフォローは下手だ。おやっさんはたまに器用で、たまに不器用……というのが自分のイメージである。

 中に入って、裏に向かう。裏といっても廊下のような細道で、奥まったところにスタッフ用のロッカーがあるだけ。左手にちょっとした段差があり、そこを上がると物置になっている。奥にもさらに部屋があるのだが、いつもマネージャーがそこで仕事をしている。知っているのはそれだけだ。

 ロッカー前にはすでに間宮夏美まみやなつみがいた。夏美は大学生で、現在は二回生だと聞いた。美人ではないが、愛嬌のある顔つきをしていて、笑うとこれがかなり可愛い。ひょっとしたら、世間ではそれを美人というのかもしれない。

「おはよー、守屋くん」

「おはようございます」

 挨拶を返し、ロッカーに荷物を入れる。

 制服はシャツの下に着こんでいる。学校帰りのトイレで着替えてきたのだ。

「ずいぶんと久しぶりじゃない?」

「そうですかね、言ってもたった一週間ですけど」

「久しぶりのうちに入るって。テスト期間だったっけ、この時期」

 夏美は鳥羽高校の卒業生で、バレー部のOBとのことだった。鳥羽高校に関する話題もこの人とならできるのだ。

「いや、あと二週間後ですね」

「だよね。──どうしたの?」

「え」

 なんですか、と一郎は首をかしげる。

「なんか、すごい顔している」

「えっ、すみません」

 顔をそむける。

 というか、どんな感じにすごかったんだ、俺の顔?

「大丈夫? 体調悪いとか?」

「いえ、ぜんぜんそんな感じじゃないっす」

「そんな感じにしか見えないよ」

「へ、へえ」

 へにゃへにゃ、と曖昧な笑みを浮かべる。

(いけない、バイト先にきたってのにまだ引きずってる。いつもなら、ここでスイッチの切り替えぐらいできたのに)

 バイト先に入ると、学校のことは忘れる。

 学校に入ると、バイトのことは忘れられる。

 いつもはそういうふうに意識のスイッチができていた。ほぼ無意識的に。たとえば学校で、きちんと整えてきた提出物を家に忘れて怒られたことや、授業中に当てられて答えられずに恥をかいたことなんて、せっせこ働いていれば忘れる。

 それどころか仕事場に踏み入ったら、あら不思議、忘れていたことすら忘れるほど、きれいさっぱり消える。

 なのに──。

(ああー、もう。働きたくねえ)

 こんなどんよりとした気持ちが胸に渦巻いたままでは、仕事へのモチベーションもだだ下がりである。

「そういえば間宮さんって、噂話好きですか」

「大好き」

「怪談めいたものは?」

「大嫌い」

「ならいいです」

「え、ちょっと待ってよ。なんでそこで中断するの。気になるじゃん」

 知らぬが仏だな、と思って一郎は口をつぐんだのだが……。

「言ってもいいんですか?」

「いいよ、もう。そこまで言われたら気になって夜も眠れないし、たぶん」

「……白鳥女子に、如月真理亜って人がいるらしいんですけど」

 と、彬が言っていたことをそのまま夏美に語った。

 白鳥女子であるはずの如月真理亜が、半透明の人間を傍らに寄せて鳥羽高前にたびたび侵入している、といういかにもな目撃情報を。

 彼女にはあまりこういう話はしない。噂話も低レベルになってきたなあ、と小馬鹿にするか、もしくは素っ頓狂な声をあげて怖がるか。いったいどちらなのか。

 そんなことを考えながら夏美を見ていると──、

「あ、それ知ってる」

 と、意外な反応が返ってきた。

「てかそれ、私」

「へ?」

「私が目撃者」

 と、自分を指さしていた。

「おーい、おまえら。もう出勤だぞう」

 という熊谷の声が聞こえてきて、慌てて準備をした。

「じゃあ、この話はまたあとでね」

 夏美はそう言ってタイムカードを押しに行った。

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