第5話

 授業を終えて、一郎は帰ることにした。

 通学カバンに荷物を入れて、肩にかける。適当に友人に挨拶をしてから、教室を出た。一郎の在籍するクラスは2‐Cである。まっすぐ伸びた廊下の真ん中あたりに教室はある。近くの階段である中央階段から下って、正面玄関へ行こうとしたが、あることを思い出した。

 通学カバンを開き、中から現国の教科書が見える。

 これは一郎のではない。志摩のものだ。今日の授業でとくべつ貸してくれたのである。返し忘れていたのだ。ふつう授業終わりに返すものだが、号令をすませたあと志摩がすぐに教室を出てしまったのである。そのあとは体育の授業で、すぐに着替えなければいけなかったため、あとで返そうと思ったのだ。

 一郎は踵を返し、職員室に行った。

 中へ入り、要件を告げると、

「志摩先生なら理科室にいくっていってたよ」

 と言われた。

 職員室は一階で、理科室や家庭科室等は二階に集まっている。一郎はさっさと上へ行って、廊下の奥に行った。理科室の扉の鍵は、たしかに開いていた。だが中には誰もいない。たしか科学部とかいう、週に二回ある部活があるが、今日は休みのようだった。

 それより。

 志摩はどこへ行ったのだろうか。一郎は周囲を見回してみる。黒板脇の扉に目が留まる。そこにいるのかな、と一郎は近づいてみた。ドアノブを握ろうとして、指を伸ばす──と、


「好きです。付き合ってください」


 そんな言葉が、聞こえてきた。

 素早く手を引っ込めて、一郎は一歩下がった。

(こ、告白!?え、なぜ。てか、誰が誰に!?)

 変に戸惑ってしまって、まともな思考ができなくなった。

 色恋沙汰に興味はあれど踏み込みはしない一郎は、こういったものにはやはりドギマギしてしまう。好奇心が働いて張力が向上したのか、ドアからさらに声が聞こえてくる。


「……気持ちは、すごく嬉しい」


 この声は──やはり志摩だ。

 志摩晴彦が告白されている。

 たしかに彼は女子人気もある。顔はいい、身長も高い、そのうえ知的だ。言葉遣いも柔らかく、いつも見せる笑顔は子供っぽくてかわいい……などと評されている。

 ちなみにこれは、彬から聞いたことだ。一言一句同じとはいえないが、おおむねこんな感じだ、と。

「でも、僕は君をそういう対象としては見れない。ひどい話かもしれないけど、あくまで教師と生徒だからね。これまでずっとそれを貫いてきたし、これからもそうでありたい。だから、ごめん。付き合えない」

 一語一語を丁寧に発音して、志摩は応えた。

 沈黙がつづく。

 やがて志摩が、

「勇気を出して伝えてくれてありがとう。……もどろうか」

 と言った。

 だが、

「……うん。わかった」

 という声もつづけて耳に入ってきた。

 どうやら告白した女子が志摩になにか言ったらしい。

(あ、まずい。このまま出てきたら、俺が盗み聞きしてたコトが──!?)

 一郎は慌てて四方に視線を向ける。どこか隠れ場所はないだろうか。そのとき目に入ったのが、教卓だった。一郎はすぐに教卓の中に入って、身を縮こませた。口を手でふさいで息をひそめる。

 ドアノブが動く音。つづけて、扉が開く音がした。

 足音がすこしのあいだつづいて、引き戸を閉める音がしたとき、一郎はほっと息をついた。

(見てしまった……)

 のしかかる罪悪感が、鉄のように重い。

 いまになって聞かなければよかった、と気分が沈んだ。告白した女の子はむろん、志摩にも悪い。湧き出てくる自己嫌悪に、一郎は何度目かのため息をついた。

 そろそろ出よう、と教卓の中から出たとき。

 同時に、理科準備室の扉が開いた。隙間から、見たことのある顔が目に入った。徐々に隙間は大きくなっていき、やがてその女の子の全体像が視界におさまった。

「え」

 と、女の子は声を洩らす。

「……火野、さん?」

 ぴたり、と彼女は止まって一郎を見ている。一郎もまた、そんな彼女を見据えていた。

 目元を腫らしている。ひととおり涙をぬぐったあとなのだろうが、また新たな涙が頬に一筋流れていった。片手にはハンカチ、もう片方の手には鍵を持っていた。ホルダーに『理科室』とネームペンで書かれた字。

 ……さて。

 おそらく、どころか確定で、火野燈が志摩晴彦に告白をした。その告白を、一郎は盗み聞きしてしまった。彼女は〝鳥羽の皇女〟だの〝鳥羽の女帝〟だのと、尊敬の意も込めて畏怖されている。

 そんな彼女が、志摩のような優男に惚れていた。そのうえ告白をした。

(いや、誰が誰を好きになろうとそれは構わないんだけど)

 問題はいまの状況である。

 一郎はどうなる? 教卓の中から出てきたところを彼女に目撃されたのだ。勘の良し悪しは関係なく、誰もが思うはずだ。あ、聞かれた、と。

 ならこの場合、どうするか。

 一郎は──

「ごめんなさい! 必ず忘れるから!」

 と、頭を下げた。

 それはもう見事な九十度である。初めて頭を下げることに全力を注いだ。一郎の内には謎の達成感が広がっている。しかし恐怖心には勝てなかった。たとえ謝ったとしても無理だ。火野燈は、キレるとやばい。抽象的ではあるが、それはたしかな事実だ。

 とくに、同じ中学の同じクラスで一年のときを見てきた一郎からすれば、間違いないと言えた。

「……そう」

 ぱっと顔を上げた。

 処刑だとか、殺すだとか、消え去れとか、とにかく物騒な答えが返ってくるだろう。そう思っていた。なのに彼女は、どこかそっけない。

 そのとき、顔を上げなければよかった、と二度目の後悔をした。

 頬は赤く、耳も赤い。目元も赤い。そのうえ、透明の涙が目尻からあふれている。眉根を寄せて一郎を睨んでいる。悔しそうに、けれど弱々しい目つきだ。

「鍵、ここに置いておくから」

 そう言い残し、次の瞬間には視界から燈の姿は消え去っていた。

 黒板によりかかり、一郎は下唇を噛みしめた。天井をながめて、ただ瞬きだけを繰り返す。そして、最後。

「……そうだよな」

 簡単な話だった。

 なんでそっけないか、だんて。

「悲しいに決まってるよな」

 その気持ちは、なんとなくわかる気がした。

 ほんとうに、なんとなく……だけれど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る