第4話
*
火野燈だ。横顔の輪郭はなめらかで、鼻筋はまっすぐだ。まつ毛は長く、通り過ぎるとき、彼女はそのまつ毛を瞬かせた。背中まで伸ばした髪が揺れて、なにか華のような香りが残りゆく。背中まで伸ばした髪は艶があり、歩くたび揺れているのを見ると、柔らかそうだった。ふつうなら見惚れるところなのだろうが、一郎はどこかに違和を感じていた。悪いとは思うが、じっと見つめていると、すぐにわかった。
笑顔だ。火野燈があんな気の抜けた笑みを浮かべているのが、意外だったのだ。はっきり言えば、似合わない、と。
彼女は、奥の階段を下っていった。どこへ行くのだろう。そんなことを考えながら、しばらくのあいだ一郎は突っ立っていた。やがてその階段から志摩先生が上がってきたのに気づいて、一郎は慌てて振り返ったが、
「一郎君」
志摩が声を弾ませて、一郎を呼んだ。もう逃げられない、とあきらめてもう一度志摩のほうに振り向いた。彼は微笑いながら、一郎のそばまで近寄ってくる。周囲の視線を気にせず関わろうとしてくる彼が、あまりに能天気に思えて、盛大にため息をつきたい気分だった。
「あの、あまり学校では関わらないでくださいませんか」
彼は、この
「母さんから言われているでしょう。僕らが従兄弟同士であることを悟られぬよう生活しなさいって」
「ああ、すまない。でも仕方ないだろ。弟に会えてうれしかったわけだし」
「従弟です」
一郎は、母・
ちなみに志摩晴彦は、千鶴子の兄の息子にあたる。
「最近、千鶴子叔母さんはどう?」
まだつづける気か、と眉をひそめた。
仕方ない。ここは適当に会話を流して終わらせよう。
「元気ですよ。近々、会いにきたらいかがです、志摩先生」
学校外で志摩のことは「晴彦さん」と呼び、内では「志摩先生」と呼ぶ。なので、この場ではむろん敬語を使う。
「うん、そのつもりだよ」
「わかりました。あの、もうそろそろ午後の授業も始まりますんで……」
「ああ、ゴメンゴメン。それじゃもどろうか」
と、志摩は微笑んだ。
一郎はうなずいて、足早に教室へもどった。
正直、志摩のことは苦手だ。明るくてよく笑う人だが、なぜだか隣にいられると落ち着かない。嫌いではないが……。
席に座るなり、一郎は深く息をついた。
そのとき、前に
「ため息ついてどうした。ダルそうだな」
「ダルそうかな」
まあ、いつもそこまで元気というわけじゃないけど。
一郎は苦笑しながら、
「そういや、このあとの授業なんだっけ」
と訊いた。
不自然な話題転換だったが、彬は気にせず、
「現国」
と短く答えた。
「現国かぁ……」
憂鬱そうなつぶやきに彬が反応して、言った。
「そっか。おまえ、志摩センセー嫌いなんだっけ」
「いや、嫌いではないけど……」
と、曖昧に言いながらうなずく。
「前から気になってたんだけど、なんか理由あんの?」
「とくべつ理由があるわけじゃないよ」
「じゃあ生理的に、とか?」
彬はさも意外そうな顔つきで尋ねる。
一郎は首を横に振った。
「違うよ」
「んん? わっかんねえなあ」
「俺もだ」
「ふうん。思春期してんねえ」
と、彬はからかうような笑みで言った。
思春期かな、コレ。
思春期という自覚すらないために、一郎にとって違和感だった。だが、自覚していないことだけじゃない気がするのだ。もっとほかに、なにかべつの理由がある。
そのとき、ふいに燈の顔が浮かんだ。
(なんで火野の顔が?)
一郎は不思議に思って首をかしげた。
「そういえばさ、白鳩女子にすげえ美人がいてさ」
「また合コンか?」
そうそう、と彬が笑う。
彬は女好きなうえアクティヴな性格なので、男女混合のコミュニティはもちろんのこと、果ては合コンなどにも参加している。一郎もたまに数合わせで行ったことがあったが、正直、ああいう雰囲気は好きではない。ただ、それを一郎が言わずとも彬がなにかを察して、それきり誘わなくなった。ただ単につまらないと思ったのかもしれないが、それをおくびにも出さないでくれているところは、人として付き合いやすい部分ではあった。
……ただ、その一回きりの合コンで見た女子メンバーはかなりレベルが高く、決してなにもかも苦手だったわけではない。
「
「で、その子とは話せたの」
「無理だった」
「ほかのヤツにとられたか?」
「違う。誰も寄せつけねえんだよ。さっき引いたって言ったけどさ。でも、たしかに正解だったのかもなって思ったよ。ああいう子がひとりでもいると、場の空気は悪くなる。んで、その空気を操作してくるんだ、あの女子三人衆は。男たちが玉砕してるところにつけ込んで、一気にアプローチ。……それでも引いたけどな。どんだけ必死なんだよ、まだ高校生だぞって」
あれはやばかったねえ、と彬は神妙にうなずいていた。
「でよ。解散するときに女の子から話を聞いたんだけどよ」
と、彬が真剣な面持ちで言い出す。
「なんかさ。如月って子、いわゆる電波系っつうのかな。まあとにかく不思議ちゃんでさ。一部の目撃上場によると、夜な夜なうちの学校に如月が侵入しているらしいんだよな。しかも、その周囲には半透明の人間がいたっていう──」
と、いいところでチャイムが鳴ってしまった。彬は「ああ、じゃあまた今度な」と行って授業の準備をし始めた。
一郎も準備を始める。
……マジか。
志摩に教科書を忘れた、と言わなければならない。
彼は忘れ物をしたことを必要以上に叱るタイプではない。注意されたあとはすっきり切り替えてくれるので、忘れた当人としては軽いはずなのだけれど……
「ちょっと隣のクラスから借りて──」
と、その瞬間。
チャイムが鳴った。それと同時に志摩が前の引き戸から入ってきて、挨拶をする。ときすでに遅し。彼は教壇に立ち、教科書やノートを開いている。
彬は一郎の顔色から察したのか、
「いますぐ言ったほうがいいぜ」
と言った。
今日はあまり、いい一日にはならなさそうだ。
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