第4話

   *


 はなが通った。

 守屋一郎もりやいちろうは足を止めた。視界の端にあった人の姿が気になったのだ。とはいえ、ある種の確信はあったために、ほぼ義務的に振り返った。

 火野燈だ。横顔の輪郭はなめらかで、鼻筋はまっすぐだ。まつ毛は長く、通り過ぎるとき、彼女はそのまつ毛を瞬かせた。背中まで伸ばした髪が揺れて、なにか華のような香りが残りゆく。背中まで伸ばした髪は艶があり、歩くたび揺れているのを見ると、柔らかそうだった。ふつうなら見惚れるところなのだろうが、一郎はどこかに違和を感じていた。悪いとは思うが、じっと見つめていると、すぐにわかった。

 笑顔だ。火野燈があんな気の抜けた笑みを浮かべているのが、意外だったのだ。はっきり言えば、似合わない、と。

 火野燈ひのあかりは、非の打ちどころのない才女だ。成績はいつもトップ、運動もできて、なおかつ男女ともに人気が高い。そんな彼女と廊下ですれ違った。

 彼女は、奥の階段を下っていった。どこへ行くのだろう。そんなことを考えながら、しばらくのあいだ一郎は突っ立っていた。やがてその階段から志摩先生が上がってきたのに気づいて、一郎は慌てて振り返ったが、

「一郎君」

 志摩が声を弾ませて、一郎を呼んだ。もう逃げられない、とあきらめてもう一度志摩のほうに振り向いた。彼は微笑いながら、一郎のそばまで近寄ってくる。周囲の視線を気にせず関わろうとしてくる彼が、あまりに能天気に思えて、盛大にため息をつきたい気分だった。

「あの、あまり学校では関わらないでくださいませんか」

 志摩晴彦しまはるひこ

 彼は、この鳥羽とば高校の若手教師で、担当は現代国語である。縁のない丸眼鏡をかけていて、その大きさと若干面長な顔と釣り合っているように思えた。

「母さんから言われているでしょう。僕らが従兄弟同士であることを悟られぬよう生活しなさいって」

「ああ、すまない。でも仕方ないだろ。弟に会えてうれしかったわけだし」

「従弟です」

 一郎は、母・千鶴子ちづこの養子である。千鶴子のもとで暮らすようになってから、かなり年月が経つはずなのだが、志摩はいつもこんな調子だ。

 ちなみに志摩晴彦は、千鶴子の兄の息子にあたる。

「最近、千鶴子叔母さんはどう?」

 まだつづける気か、と眉をひそめた。

 仕方ない。ここは適当に会話を流して終わらせよう。

「元気ですよ。近々、会いにきたらいかがです、志摩先生」

 学校外で志摩のことは「晴彦さん」と呼び、内では「志摩先生」と呼ぶ。なので、この場ではむろん敬語を使う。

「うん、そのつもりだよ」

「わかりました。あの、もうそろそろ午後の授業も始まりますんで……」

「ああ、ゴメンゴメン。それじゃもどろうか」

 と、志摩は微笑んだ。

 一郎はうなずいて、足早に教室へもどった。

 正直、志摩のことは苦手だ。明るくてよく笑う人だが、なぜだか隣にいられると落ち着かない。嫌いではないが……。

 席に座るなり、一郎は深く息をついた。

 そのとき、前に伊吹彬いぶきあきらが座ってきた。彬はこの高校に入学してからの友人で、それから二年は同じクラスであった。

「ため息ついてどうした。ダルそうだな」

「ダルそうかな」

 まあ、いつもそこまで元気というわけじゃないけど。

 一郎は苦笑しながら、

「そういや、このあとの授業なんだっけ」

 と訊いた。

 不自然な話題転換だったが、彬は気にせず、

「現国」

 と短く答えた。

「現国かぁ……」

 憂鬱そうなつぶやきに彬が反応して、言った。

「そっか。おまえ、志摩センセー嫌いなんだっけ」

「いや、嫌いではないけど……」

 と、曖昧に言いながらうなずく。

「前から気になってたんだけど、なんか理由あんの?」

「とくべつ理由があるわけじゃないよ」

「じゃあ生理的に、とか?」

 彬はさも意外そうな顔つきで尋ねる。

 一郎は首を横に振った。

「違うよ」

「んん? わっかんねえなあ」

「俺もだ」

「ふうん。思春期してんねえ」

 と、彬はからかうような笑みで言った。

 思春期かな、コレ。

 思春期という自覚すらないために、一郎にとって違和感だった。だが、自覚していないことだけじゃない気がするのだ。もっとほかに、なにかべつの理由がある。

 そのとき、ふいに燈の顔が浮かんだ。

(なんで火野の顔が?)

 一郎は不思議に思って首をかしげた。

「そういえばさ、白鳩女子にすげえ美人がいてさ」

「また合コンか?」

 そうそう、と彬が笑う。

 彬は女好きなうえアクティヴな性格なので、男女混合のコミュニティはもちろんのこと、果ては合コンなどにも参加している。一郎もたまに数合わせで行ったことがあったが、正直、ああいう雰囲気は好きではない。ただ、それを一郎が言わずとも彬がなにかを察して、それきり誘わなくなった。ただ単につまらないと思ったのかもしれないが、それをおくびにも出さないでくれているところは、人として付き合いやすい部分ではあった。

 ……ただ、その一回きりの合コンで見た女子メンバーはかなりレベルが高く、決してなにもかも苦手だったわけではない。

如月きさらぎ真理亜まりあつってさ。数合わせできた子だったんだけど、どう考えても数合わせで呼べるレベルじゃねえよ。むしろ引いたぜ、オレ。あんな子連れていけるほど、あんたらそんな自信あんのかって」

「で、その子とは話せたの」

「無理だった」

「ほかのヤツにとられたか?」

「違う。誰も寄せつけねえんだよ。さっき引いたって言ったけどさ。でも、たしかに正解だったのかもなって思ったよ。ああいう子がひとりでもいると、場の空気は悪くなる。んで、その空気を操作してくるんだ、あの女子三人衆は。男たちが玉砕してるところにつけ込んで、一気にアプローチ。……それでも引いたけどな。どんだけ必死なんだよ、まだ高校生だぞって」

 あれはやばかったねえ、と彬は神妙にうなずいていた。

「でよ。解散するときに女の子から話を聞いたんだけどよ」

 と、彬が真剣な面持ちで言い出す。

「なんかさ。如月って子、いわゆる電波系っつうのかな。まあとにかく不思議ちゃんでさ。一部の目撃上場によると、夜な夜なうちの学校に如月が侵入しているらしいんだよな。しかも、その周囲には半透明の人間がいたっていう──」

 と、いいところでチャイムが鳴ってしまった。彬は「ああ、じゃあまた今度な」と行って授業の準備をし始めた。

 一郎も準備を始める。

 抽斗ひきだしから現代国語の教科書とノートを出そうとしたが、見つかったのはノートのみで、教科書は見当たらなかった。後ろのロッカーも見てみたけれど、やはりない。

 ……マジか。

 志摩に教科書を忘れた、と言わなければならない。

 彼は忘れ物をしたことを必要以上に叱るタイプではない。注意されたあとはすっきり切り替えてくれるので、忘れた当人としては軽いはずなのだけれど……

「ちょっと隣のクラスから借りて──」

 と、その瞬間。

 チャイムが鳴った。それと同時に志摩が前の引き戸から入ってきて、挨拶をする。ときすでに遅し。彼は教壇に立ち、教科書やノートを開いている。

 彬は一郎の顔色から察したのか、

「いますぐ言ったほうがいいぜ」

 と言った。

 今日はあまり、いい一日にはならなさそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る