ショートショートvol.2『アメノトリフネ』

広瀬 斐鳥

『アメノトリフネ』

 この街を覆うガラスの向こうで、銀色の塊が揺れた。あれはアジの群れだろうか。そうだとしたら、その塊に勢いよく飛び込んでいった大きな魚はカンパチに違いない。天敵の奇襲を受けたアジの群れは溶けた金属のように形を変え、海中に差し込む光をランダムに遮る。そしてそれは、小さな影となって私の粗末な小屋の中でゆらゆらと踊った。

 こうやって天窓からあてもなく昼の海を見上げるのは好きだ。そう遠くない未来に自分が還っていく海を眺め、心を寄せる。手狭なこの世界において老人の楽しみなんてそれくらいのものだろう。

 けれど幸運なことに、私の余生にはもっと心が躍るようなことが残されていた。


 ふと、戸口に人が立つ気配がする。

「鍵は掛かっていないから、どうぞお入り」

 私はくたびれた安楽椅子から立ち上がり、来客を迎えるために身なりを整える。引き戸を開け、シロウリガイを繋いで作ったすだれをかき分けて入ってきたのは、リネンのワンピースに身を包んだ若い女性だった。年の頃は二十代半ばだろうか。ちょうど孫と同じくらいだ。白い布の塊を両腕で大事そうに抱えながら、おずおずと敷居をまたいで私に目線を送る。

「あの、名前を付けていただきたいのですが」

 そう言うと彼女はこちらに歩み寄り、胸に抱えたものを差し出した。それは手製のおくるみで、その中には玉のような赤子がすっぽりと収まっている。目を細めてまどろむ姿がなんとも愛らしい。

「こんなおばあさんが名付け親でいいのかね」

 私が謙遜しつつ赤子を抱くと、彼女は頬を緩めて深々と頭を下げた。

「女の子です。ぜひ、お願いします」

 なんとも嬉しいことだ。老人が若者に求められ、新しい命の名前を付ける栄誉に浴する。心躍ることとは、すなわちこのことだった。

 

 すっかり寝入ってしまった赤子を母親の腕の中に返したあと、テーブルに着くように促す。私は彼女に希少なハーブティーを淹れてあげてから、その対面に座った。

「誰かに紹介されてきたのかい」

「サクラちゃんのお母さんに聞いてきました。ドームの外れに素敵な姓名判断士のおばあさまがいらっしゃるって」

 私は苦笑いしてかぶりを振る。

「姓名判断なんて大層なものじゃないさ。ただ、私はもともとエンジニアでね。自分が携わったプロジェクトで、いろいろなものに名前を付ける機会に恵まれてきたんだ。そんな昔話を知っている人が、あなたたちみたいな素敵な親子をこんなドームの外縁にまで寄越してくれるのかもしれないね」

 若い母親は遠慮がちに笑ってから、膝の上の赤子を慈しむようにして撫でる。その指は細いがしなやかで、働き者のそれだった。生を受けてからほぼ一世紀になる私にそれを見届ける時間はないが、きっとこの二人は良い親子になるのだろう。

「あの、たとえばどんなものを名付けてきたのですか。日用品のようなものでしょうか」

「うーん、もっと大きなもの……とだけ言っておこうかね。さて、私の過去よりも、その子の未来の話をしようじゃないか」

 彼女に手付かずのハーブティーを飲むように勧めてから、いくつか簡単な質問をした。彼女の出自や家族のこと、わが子がどんな風に育ってほしいのか。

 はじめは控えめだった彼女も、質問に答えるうちに次第に表情がほぐれていき、自分の言葉でその思いや考えを語ってくれた。だが、旦那の話になるとにわかに顔を曇らせる。

「夫は大気除染プラントの復旧工事に掛かりきりで、ずっと家に帰っていないんです。毎日電話はくれるんですが……」

「電話ではどういうことを話すんだい」

「彼は、私とこの子が元気かって訊くだけです。もともと寡黙な人なんですけど、名付けも私に任せるって言われて」

 あんまりですよね、と彼女は漏らす。その震える手を握ってやると、彼女は少し驚いたようにこちらを見た。

「じつは私にも娘がいてね」

「そうなんですか」

「二十年前に亡くなったんだ。深海探査船の事故でね。水深二千メートルからついに戻らなかった。だけど、今はその子の娘……つまり私の孫娘が、後を継ぐようにして海に出るようになった。私はさんざん止めたんだけど、聞きやしなかった」

「そんな、危険なのに。どうしてですか」

「あの子はずっと『これがあたしのミッションだから』と言ってたね」

「ミッション……使命ですか」

「そう、人は誰しも使命がある。この狭い世界じゃなおさらね。プラントを直すのが旦那の使命なら、この子をしっかり育ててやるのがあんたの使命なのかもしれない。そんで、しなびた脳みそをうんと使って、なるったけ良い名前を付けてやるのが私の使命ってところかね。みんなバラバラなことをしているように思えるかもしれないが、根っこの部分では繋がってるはずさ」

 若い母親は私の言葉をじっと黙って聞いていたが、ついに意を決したように力強くうなずいた。

「そうですね。夫も頑張ってるんだから、私も頑張らないと」

 その時、天窓から強い光が差し込んだ。それはシロウリガイのすだれにまっすぐ当たり、その一枚一枚がプリズムとなって部屋中に豊かな色彩を溢れさせた。壁が七色に染まり、揺れ、そしてゆっくりと元のペールブルーへと戻っていく。

 それはほんのわずかの間のことだったが、私にひらめきを与えるのには十分だった。

「ミソラ。美しい空と書いてミソラはどうだろう」

 彼女は私が提案した名前を何度か小さな声で復唱する。

「ミソラ、ミソラ。うつくしいそら……。とってもきれいな響きですね。きっとこの子も気に入ると思います。私、空は記録映画でしか見たことがないけれど、おばあさまは実際に見たことがあるんですか」

「ああ、小さい頃にね。本当に小さい頃さ……。あれを言葉にするのはむつかしい。太陽が昇れば青く澄み渡り、沈むころには真っ赤に染まって、それはもう美しいものだった。雨上がりには虹が架かることもあったね」

「太陽、空、雨、虹……。なんだか、夢みたいな話です。あの、空の青は海の青とはまた違うものですか?」

「ああ、そうだね。海よりももっと鮮やかで、抜けるような青さ」

「いつかはこの目で見てみたいです。ねえ、ミソラ」

 呼びかけられたミソラは、返事の代わりに「ひっく」としゃっくりをした。私と彼女は顔を見合わせて、声を上げて一緒に笑った。


 中央広場まで親子を送り、別れた時にはすっかり暗くなっていた。にもかかわらず、広場にはなぜか大勢の住民が集まっている。

 はて、今日は何かあったっけ。

 ともかく、ドームの端からここまで来るのに歩き疲れていたし、野次馬を兼ねてベンチに腰を下ろすことにした。

 ガラス天球の向こうに満ちる母なる海は、夜の訪れと共に深い紺色へと変わっていた。水圧に潰されないように格子状に張り巡らされたレジンコンクリートの梁が街明かりでわずかに照らされ、ぼうっと浮かび上がっている。まるで覆いを掛けられた鳥籠の中にいるような気分だ。


 二十一世紀という大昔から環境問題が声高に叫ばれていながら、ヒトは性懲りもなく火と煙の大騒ぎを繰り返した。開発、生産、そして戦争。時間も物資も人命でさえもでたらめに消費し尽くした人類は、ついには地球そのもの台無しにしてしまった。大気は汚染され、森は枯れ、陸は干上がった。

 そして八十年前、人類は地球最後のフロンティアに逃避した。

 ここ、深海へ。

 強靭なアクリルガラスを大きな三角形に成形し、それを無数に貼り合わせて造られた海中球体都市『アメノトリフネ』。もとは観光施設として造られたそれを自給自足が可能な避難シェルターとして大改修し、直径一キロメートル球体に五万人もの人間を閉じ込めた、日本神話の「神々の船」。それが私たちの棲み家であり、世界そのものだ。

 

 追想に耽っていると、暗い海に一筋の光が走った。トリフネに何かが近付いてくる。その姿が大きくなると、広場に集まった群衆からわあっと歓声が上がった。

 あれは浅海探査船だ。エアロックを通り抜け、そのままエレベーターで広場へと降りてくる。そうか。この住民たちは出迎えに来ていたのか。

 浅海探査船は定期的に浅い海に浮上し、大気や海洋の汚染データを採取する。そして、その結果によってトリフネの深度が決まる。汚染が改善されていれば電磁推進によって都市ごと浮上させ、悪化していれば沈降させるのだ。

 もちろん、浮上を続けて地上に戻るのが我々の悲願だったが、これまでトリフネの推進システムが浮上シークエンスに入ったことは一度もなかった。

 アクリル天球の頂部が深海二百メートルまで沈めば、もう可視光は届かなくなる。昼も夜もない暗黒の街だ。

 そんな闇の世界を、我々は耐えられるのだろうか。

 探査船から降りて家族と再会するクルーたちを一瞥してから、私は目を瞑る。


 それにしても天鳥船——アメノトリフネとはね。

 我ながらよく名付けたものだ。信心もないくせに「なんとかの方舟」とか名付けたがった連中に反骨したはいいものの、いまや、天も鳥も遠いものになっちまった。皮肉なもんだ。

 名前は呪詛にも、祝詞にもなる。「桜」も「美空」も、彼女たちが大きくなる頃にはありふれた名前になっていることを願おう。頼むから「光」なんて名前がロマンチックな響きにならないように。


「ばあちゃん、こんなところで寝てたら風邪引くよ」

 見上げれば、目の前に潜水服を着た孫娘が立っていた。

「ああ、そういやあんたも船に乗ってたっけね」

「えー、冗談でしょ。かわいい孫がせっかく無事に帰って来たってのにさあ」

「そう怒んないでおくれ」

 彼女はしばらくぷりぷりとしてから、何かを思い出したのかポンと手を叩いた。

「てかさ、水面らへんで頭が三つある魚を捕まえたんだけど、名前付けてよ。ばあちゃん得意でしょ、そういうの」

 そりゃまた、奇っ怪な生き物を見つけたものだ。まったく、また名付けの名誉にあずかれるとはね。

「それが私のミッションさ、ミライ」

 ミライは重油で汚れた顔を大きくほころばせ、お天道様みたいに笑った。

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ショートショートvol.2『アメノトリフネ』 広瀬 斐鳥 @hirose_hitori

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