第12話 菊(煌めく)
晴れて良かった、と、控え室を出た廊下の窓から、冴えざえとした青空を見上げた。昨夜まではしとしとと小雨が降り続いていたのだ。野点会場の庭園には、まだ細かな露が残っていることだろう。
小さな日本庭園を公開している文化財団の、観菊の野点イベントに、私は亭主として呼ばれていた。庭園があるのが私の地元で、その伝だった。東京で講師として独立して二十年、ふと思い浮かんだ顔に、私は、地元の知り合いに招待状を出していいか、とお願いをして承けた。
事務棟のポーチから、着物の裾を軽く上げて庭園に出る。思った通り、土は少し
松竹の林の裾や、小さな池の岩の根元に、薄黄色の寒菊が、さながら秋の蝶のように花開いている。厚物などの大輪とは違って、掌に載るほどの中輪だが、寒さでちらほら、薄紫に色が移ろっているものもあり、眼に華やかだった。
庭を囲むように配された緋毛氈の長椅子には、お客様が並んでいる。一礼をして見渡せば、その中に、初老の男性を見つけた。
――先生。
すぐに分かった、と、安堵するのと同時に、先生が、少し緊張した面持ちで私を見ているのに気付いて、ハッとした。先生は、私の最初のお茶の先生だ。もう、三十年ぶりになる。
先生にとって、私はきっと、見慣れぬ他人に見えているだろう。
顔立ちも変わったし、皺どころか白髪もできた。私が、先生の顔が分かるかどうか少し緊張したように、先生もまた、今の私に緊張しているのだった。
小学生の頃、私は先生の茶道教室の生徒だった。親に押しつけられた習い事で、私はまるでやる気がなかった。碌に作法を覚えようとせず、先生に注意されたらその都度直すだけで、美味しいお茶を飲んで帰る――そんな私に、先生はいつも、丁寧に茶道の理念や歴史を教えてくれた。他の生徒と時間がずれていて、マンツーマンだったお陰もあるだろう。繰り返し先生と茶席の真似事を繰り返すうち、高校に上がる頃には、私は本格的に茶道で身を立てることを考え始めていた。
「君は、確かにあんまり真面目ではないかも知れないけど、素直ですね。素直なことは、茶道にも人生にとっても、得がたくて尊いことです。大切にして下さい」
――長く、私の人生で星となった人だった。
今でも、星なのだ。
地元でお茶会をやるとなったとき、真っ先に先生の顔が思い浮かんだ。私にとって、あの頃の星が、今も胸で光っているのだ。
野点ではあるが、亭主の席には茶会の雰囲気を決めるような花を置く。私はこの花を、客席を見てから選ぼうと、会場の庭から数輪もらう許可を得ていた。庭の中央に置かれた立礼棚から、用意してもらった鋏を取る。
松や竹の合間に。岩の苔に被さるように。花開く菊の中から、池の傍、特に艶めいているのを、端から数輪、いただくことにする。他のところと違って遮るものがなかったからか、昨日の雨をたっぷり浴びて、濡れている。着物を少し濡らしてしまうことは無視をして、それを胸に抱えて、席へと戻った。
――どうかこのささやかな輝きが、伝わりますように。
傘の柄に下げた花活けに入れる前、客席へと微笑みかける。お客様の緊張が、ほぐれるように。
私の挙動を見つめる人々の中。
先生の瞳が、柔らかく細められていくのが、見えた。
胸元で露を含んだ黄色い花弁が、光を弾いて、煌めいていた。
しづごころなく――花の掌編 菊池浅枝 @asaeda
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