エピローグ

 私は地に堕ちた。

 床に落ちたと言い換えてもいいだろう。


 それは忘れてしまったようで、見知った光景である。


 ここは私の――部屋だ。


「おおおおおお、おい姉さんッ!? って、生きてんのか!? よかった!」


「……は?」


 見たこともないような凡庸な顔をした男は、「ししし死ぬなよ! 頼むぞ!」と顔面蒼白で震えていた。


「えーと……こういう時は……えーと、ほ、ほら、この指! 俺の指、何本に見える? あ、答えなくてもいいぞ! 意味が分かったら、うなずくだけでもいいから!」


 私を姉と呼ぶウスノロは、きょどっていた。

 うろたえるなと言ってやりたかった。


 私は懐かしくも、しかしおもしろくない気分で視線を巡らす。

 几帳面を通り越して神経質に整頓された、『私の部屋』。


 私の……部屋だ。


 私は夢のような時間を思い出す。

 見上げると、血まみれのロープが、宙ぶらりんに切れている。

 なんで血まみれなの? と、私は不思議に思った。


 ……そういや、そうだったなあ、私はこの部屋で、首を吊ったんだった。


 私は今更ながら、我が身と現実を振り返って、みじめに思う。


 そこで思い出した。弟だ。


 可哀想なほどにうろたえている私の『弟』は、「ひええ……」と、ドン引きしていた。

 たかが自殺未遂くらいで、なにをそんなに怯えているのだろう。


 ……ああ、そっか、私は自殺に失敗したのだ。今更ながら私はその事実に思い至った。


 夢か、走馬燈か、妄想か、なんにせよ――私は、エレミアではなくなっていた。


 しかしやはりというべきか、20年近く、地球の記憶が飛んでいる。

 だからぶっちゃけ、弟の名前を忘れていた。マジで誰だっけこいつ?

 田中サトシ? そりゃポ〇モンか。


「なあ、姉さん、マジで勘弁してくれよ。死ななかったのはよかったけど、働き疲れた程度で首吊り自殺とか……ていうか、あのロープ噛みちぎったのかよ。正気かよ……」


 弟の言葉に、私は意味が分からず「はあ?」と首をかしげた。

 さっきからこいつはうろたえてばかりだ。

 我が弟は完全に独り言モードである。


「鏡見ろよ」


 弟がそういうので、鏡を探して、私は見た。


 真っ赤にただれた『口』が、そこにあった。


 口元を血まみれにして首吊りロープを巻き付けた私は、さぞ滑稽な姿だったに違いない。


 しかし、いくら死ぬのが苦しくても、口でロープが噛みちぎれるのか……なんと言うべきか、火事場のバカ力だと思う。


 なのに不思議と、歯の一本も折れてはいなかったのである。

 歯並びは綺麗なもので、しかし、切れた口からは、唾液のように血液が流れていた。


 ……本当にロープを噛みちぎったのか? 私が? いやいやいやいや……


 冷静になると、私は自分の置かれた状況が酷く不自然だと気づいた。


 その後、私は救急車に運ばれて、大事をとって入院することになった。

 病んだ心のケアとして精神科に案内される前に、ひとまず一泊である。


 当たり前だが、病院はとても清潔だった。

 病院だから人が死ぬこともあるが、通り道に死体が転がっていたりはしないし、病院食に文句つける者はいても、食事に困る者は、基本的にいないのである。


 私は個室で、飛び降りたりしないように家族に見張られながら、その日を過ごした。


 まあ今更、投身自殺をするほど気を病んでいない私は、すこぶる健康である。

 歯並びだっていいし、口から流れる血も止まっている。


 何も問題はない。


 しかし、私は家族と特別に仲が良かったわけではないが、それにしたってマイ家族の視線はなかなかに冷たい。

 自殺未遂を図ったキ〇ガイに対して風当たりは強いのだ。


「なんか肝が太くなったな、姉さん。おまえさあ、一回死んで開き直ったのか?」


 名を忘れた弟が、お見舞いのリンゴを切り分けながら言った。


 彼の立場では、すっかりメンタルを病んだと思っていた私が、泰然自若しているのが腑に落ちないようだ。


「まあねえ。死にかければ、誰しも性格変わるでしょ。私は名だたる大貴族、エレミア・フォン・レーゲンですのよ~」


 弟君は、私の自己紹介を聞いて「外国人かよ」とツッコミを入れたが、そこでふと思い出したように、宙をあおいだ。


「そういや、うちの犬もフランス様みたいな名前だったよな。俺が小さい頃に死んじまったけど。姉さんが生まれた時に買った、柴犬だったっけ?」


「ああ、爺さんが、買ってくれた犬ね」


 私はなつかしく思い返したが、なにぶん幼い頃の記憶で、その姿を思い出すのに苦労する。

 愛犬の名は……だめだ、覚えてない。


 しかし、他ならぬ私の可愛いペットなのだから、名を忘れても素敵なワンちゃんだったのだろう。

 生きていれば私と同じで25か。犬の寿命は人間とは違うから、まあ、土台で無理な話だろう。


 弟の話によると、今は亡き昔ながらの爺さんに飼われたワンちゃんは、ドッグフードなんて高級なものは一切食べず、みそ汁などの残飯を、もしゃもしゃ食べていたらしい。


 だから死んだんじゃない? と思ったが、私は口を出さないことにした。


「でも強かったよなあ。あいつ、体は小さいのに、散歩コースでは完全に近所のボスだったじゃん? やっぱりアレだなー、爺さんがしつけていたから、強かったんだろうな」


「そうだっけ? ああ、夜中に吠えて爺さんに蹴っ飛ばされていたような……」


 ぶっちゃけ今のご時世で言えば動物虐待のようなしつけ方に違いない。

 亡きジジイの教育方針は、スパルタ式だったのだ。


 私は可哀想なワンちゃんを想って、ため息をついた。

 丸いリンゴを丸ごとかじると歯型がつく。

 弟がドン引きしている……ダメだな、どうもエレミアの癖が抜けない。


「名前、なんだっけ? ああ、ワンちゃんのね」


「へ? えーと、なんだったかなあ。『ルー』? 違うな……ああ、ランだ。『ラン』!」


 私と弟は、お互いに名前を呼ぶことなく語り合う。


 愛犬の思い出話は割と盛り上がった。


 ……ラン。ランか。なんだか、しっくりくるような。来ないような。


 墓下で眠っているワンちゃんを、騒がせるのも可哀想だ。

 あまり気にしないのがいい――


「狼なんだぜ」


 唐突に弟がそんなことを言った。


 頭をなぐりつけられたように、私は身をすくめる。

 そんな私の反応に気づかず、弟はどこか誇らしそうに、うそぶいた。


「ラン。ラン。オオカミって意味。フランスじゃなくて中国語だったな。ははは」


 弟は笑ったが、私は怖くて笑えなかった。

 夢と現実が混ざったようで、私は……


「あはは」


 ――でも、やっぱり笑った。


『そっちの方がいい』と、言ってもらえたからだ。


「そっか、なら大切にしないとね」


 私がおもしろおかしく笑い転げると、弟は困惑したように首をかしげた。


「大切にって? 命を? いのちをだいじに? 作戦?」


「いいえ、この『歯』を。そういう作戦」


 命に食い下がる、獣の牙を。


 もちろんよ。


 そんな私の妄想は、誰に強いるべき言葉でもない。

 

 私が決めた、私のルール。

 自分のために、自分で決めた、自分のルール。


 でもそのルールに従って微笑んでみると、窓に映る私の姿は意外と綺麗で……


「私の、たったひとりの友達」


 私はやっぱり、この牙に。


 自分が生まれた意味を見つけた。


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悪徳令嬢フォン田中の憂鬱 @futami-i

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