君となら

君となら


「ようやく、始まるんだね」


 彼女が部屋に入って最初につぶやいたことは、そんな感慨深いような一つの感想であった。彼女の言葉は静かに部屋の中に吸い込まれていき、そうして視線が内装に及んでいく。僕はその視線に重ねるように、部屋の内装を眺めた。


 少し古臭く感じてしまう家、というかアパートの一室。


 全体を白地の壁で囲ってはいるものの、ところどころくすんでいるところがある。以前、この部屋の主が汚した後だろうと思う。くすんでいる、というよりは黄ばんでいるといった表現が正しいような気がする。少し煙たいような香りがあるが、生活するうえで困るものではない。


 玄関から続く床はフローリングになっており、玄関近くの窓から射す日光は埃の存在を浮かせてくる。靴下から感じる床の感触は滑るように感じた。綺麗に保管されていなかったのだ、指を一つ滑らせるだけで軌跡ができる。だが、掃除をすればいいだけの話であり、そこに気になるものはない。


 居間のほうに視線を移せば、フローリングとは異なって、畳の緑が広がっている。畳のほつれている部分が気になる、一種のとげのように存在する箇所、もしくは焦げたように黒くなっている場所もあるけれど、それも生活していけば違和感を覚えることはなくなるだろう。


 部屋には何もない、何もないのはこれから僕たちが物を設置するためであり、それ以上も以下もない。


 古臭い一室から始まる新しい関係性、僕らはこれを機に始めることができる。


 先ほどの言葉に返事をしていなかったことを思い出して、僕はぼんやりとしながら、そうだね、と返事をする。僕の相槌に彼女は表情を緩ませながら、ただ玄関の先でぼうっと部屋の内装を眺めている。


「そろそろ、支度を始めようか」


 彼女は僕の言葉にハッとしたような顔を見せてくる。ころころと十面相のように変わる彼女の表情に、僕は揶揄うように笑顔を浮かべると、彼女は不満を示すように頬を膨らませる。


 どこまでも、愛おしい。愛らしいと思える彼女。


 僕はまた笑顔を浮かべながら、部屋の空気を肺にとどめる。


 こんな彼女と、僕たちは一色に暮らすことができる、生活することができる。


 ここから始まるのは、そんな新生活。僕は胸を躍らせながら、自分の言葉に従うように支度を始めることにした。





 ある程度の引っ越しの荷運びは終わった。といっても、荷物の入っている段ボールを、適当に部屋の中に配置しただけであり、内装については全く片付いていない。むしろ、段ボールの存在が、乱雑さをさらに誇張しているような気がする。


 ここにそれらしい家具が含まれていればよかっただろうが、そんなものは僕たちの中には存在しない。僕は着替えや適当に使えそうな器具、彼女も同じようなものだろうと思う。


 あまりにも勢いだけで始めてしまった同棲生活。それがこんなことに所以してしまっている。


 プロポーズ紛いの告白をした。高校を卒業した身で、自分自身、何を言っているのかはわからなかったけれど、精一杯に彼女に思いを告げた。その告白は受容され、勢いのままに僕は生活するための家を借りた。僕の給料は大したものではないために、少し古めで間取りが小さい場所を選んだ。


 一人暮らしのためにしか存在しないような狭い間取り、台所、風呂桶が存在しないシャワールーム。


 本来、こんな場所で二人暮らしというのは難しいのかもしれない。だが、そこに彼女の存在があるだけで、どんな困難でも乗り越えられるような気がした。


 母は勢いだけで二人暮らしを敢行しようとする僕を、心配そうな顔で見つめた。その際にカトラリーや皿を一応の祝いとして持たされた。


 父は最後まで不満そうな雰囲気を浮かべていた。母とは違って、何かを僕に与えるということはせず、最後まで無言を貫き続けた。でも、僕はそれを自立に対する応援だと思った。


「これから、どんな暮らしが待ってるんだろうねぇ」


 荷物を整理整頓しながら、間延びした声を彼女はあげた。僕は首を傾けながら、どうだろうねぇ、と同調するように声をあげた。


 未来は未知数だ。未知数だからこそ、明るい世界が待っているような気がする。有頂天ともいえる気分かもしれない。


 自分なら世界を変えることができる。そんなぼんやりとした幻想を抱いてしまうほどに、浮ついてしまう自分がいる。


 きっと、ここからの生活には苦しみも待っているはずだ。楽しいことだけではないのは、なんとなく経験則で理解している。でも、大丈夫、大丈夫なはずだ。


 僕には彼女がいる、彼女には僕がいる。


 僕は彼女を守らなければいけない。そのためなら、なんだってやる。仕事だって、それ以外のことだって。いろいろなことを協力して、生活していくつもりだ。


 この新生活は、始まったばかりなのだから。







 部屋に入っても、ただいまを言わなくなった。それは習慣となっていた。声をかける人間がどこにもいなかった。それならば声をかける必要性などなかった。感慨深いような挨拶はそこにはなく、ただ孤独を感じるだけになった。


 僕は視線を泳がせた。部屋の内装を眺めることで、その虚無感を埋めようとしたが、そこに人がいないことに対して、さらに孤独は誇示されてしまった。


 少し古臭く感じてしまう家、アパートの一室。使い古された雰囲気のある匂い、どちらかといえば嫌悪感を催すような煙たい香り。


 白地の壁は以前よりもはるかにくすんでしまった。煙草を部屋の中で吸い過ぎたのだろう。以前までは、どうして色が褪せてしまうのかを理解できていなかったが、明確に理由がわかってしまった。煙草のせいだった。


 玄関から続く床のフローリングの上には、暮らし始めた時よりも埃が積み重なっているような気がする。それ以上にゴミ袋の山が傍らに存在する。ただでさえ狭い空間であるのに、片づけられない自分を鬱陶しく思う。だが、そんなことを思っても、結局僕は行動に移せないのだろうが。掃除をする気なんて毛頭なかった。


 居間のほうに視線を移せば、くすんだ畳が目に入る。焦げ跡が以前よりも増えた。寝ぼけながら吸った煙草のせいだった。灰皿から零れ落ちた吸殻の汚れなどもあった。適当に手で払うようにしたが、それで畳の傷が癒えるわけもなかった。


 部屋には生活感があった。それぞれ家具などが置かれており、以前と比べれば生活の環境としては整っているのだろう。だが、生活の環境が整っていたとしても、心内環境は整っていない。だから、帰ってきても何もやる気は起きない。


 きっと、ここに彼女がいれば、だらしがない、と怒るのだろう。でも、ここに彼女はいない。


 彼女とは別れてしまった。勢いだけで付き合った関係が長く続くはずもなかった。愛想をつかされたのだと思う。もしくは単純に僕に飽きたのかもしれない。表情をころころ変えるのは、それだけ多数の面を自分に抱えているということにほかならず、そのすべてが僕に対して好意を持っているのかは別だった。


 どこまでも愛おしかった、愛らしかった彼女。だが、そこに彼女はいない。


 部屋の空気を肺にとどめる。部屋の中に温もりはなく、冷気だけがはびこるだけ。


 今はこの部屋に、僕一人だけ。


 独りだけ。その寂しさを噛み締めながら、僕は適当に過ごすことにした。





 片付けをする気にはならなかった。仕事から帰って、どうにか余った時間で何かしらの整理をするのが得策なのはわかるが、仕事の疲れで行動することにやる気を見出せなかった。居間の方に置かれたテレビをつけて、少しでも孤独を紛らわす。僕は静かすぎる世界が嫌いだった。


 ここにはそれらしい家具がたくさん存在する。テレビだって、パソコンだって、ラジオだって。それぞれ孤独を紛らわせる何かは存在する。


 休みの日、あまりにも孤独を認識すると、それらを垂れ流して呆然と過ごすことがある。だが、今日は平日だ。それをする気にはならないし、この前に隣人から怒られたばかりなので、それをやるつもりはない。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。そんなことばかりが過るが、仕方がないとしか言いようがない。


 どんな縁にも終わりはあるものだ。それを迎えたくらいで行動できなくなる自分は愚かとしか言いようがない。


 プロポーズ紛いの告白は成功したが、同棲生活については上手くいかなかった。あの告白がプロポーズ紛いでよかったように思う。本当に結婚をしていたのならば、さらに苦しいことになっていたのかもしれない。


 独り暮らしのためにしか存在しないような狭い間取りではあるものの、今となっては広すぎるように感じてしまう。


 家の中で移動すると、彼女とぶつかることが多かった、接触することが多かった。接触するたびに、ごめん、と声を掛け合って、そのたびに微笑みを互いが浮かべた。こんな古臭い部屋の一室であっても、彼女との生活は楽しかった。


 確かに困難はあったかもしれない。だが、そのたびに彼女と乗り越えることはできた。


 このアパートにはそんな思い出がたくさん残っている。思い出すたびに心は締め付けられるけれど。そのたびにため息が部屋の中をさまよう。


 この前、実家に戻った時に、母は心配そうな表情で僕を見つめた。本当に大丈夫? と声をかけてきた。僕はいつも通りに、大丈夫だよ、と声を返した。


 父さえも不安そうな表情をして僕を見つめた。「持っていけ」とぶっきらぼうに封筒を渡してきた。中には数万の金が入っていた。僕はそれだけで泣きそうになった。


 そうして、独りきり。どこまでも孤独に、何も出会いはなく、始まることはない。終わるだけの生活。


 これから、どんな暮らしが待っているのだろうか。そんな期待を抱くことができないほどに、今の生活は終わっている。


 未来は未知数だ。未知数だからこそ、暗い世界が目の前に広がっているとしか思えない。確定しない未来など恐怖の対象でしかない。


 自分は世界にとって些細な存在でしかない。思うように世界は動いてはくれない。その苦しさが僕を支配する。どこまでも終わった生活が目の前に広がる。


 今の僕を彼女が見たら、どう思うのだろう。


 本当にそれでいいの? 


 そんな優しい言葉でもかけてくれるのだろうか。


 こんな妄想をしてしまう自分が恥ずかしい。でも、そんな言葉を吐かれたい自分がいる。そうすることで変わることができそうな自分がいる。


 目の前には暗いだけの世界が広がっている。でも、歩んでいかなければ前に進むことは決してできない。


「……始める、かぁ」


 彼女は僕をどう思うだろう。そんなことを思いながら、孤独を紛らわせるために点けたテレビを消す。


 いつまでも引きずってはいられない。気持ちを切り替えるしかない。


 ぼんやりと息を吐いた後、僕は玄関近くにたまったゴミ袋を捨てるために、静かに立ち上がった。



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君となら @Hisagi1037

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