月を恋う

三雲零霞

【短編】月を恋う




大都市東京の夜は明るい。

しかし、その電灯の狭間にも闇が横たわっていることを知る者は少ない。


「うわああぁぁ!! ゆ、許してくれぇ……! 頼むから!」


背中から血を流した男の醜い命乞いが、暗闇に虚しくこだまする。


男の恐怖に慄いた視線の先には、黒い小柄な影が一つ。

その影は物言わぬまま、手にしていた大鎌を振りかぶった。


闇に光る銀の刃は、三日月の如く。その姿は死神の如く。


影は僅かの躊躇いもなく、男に向かって鎌を振り下ろした。

命火の消える音が響いて、影はそのまま姿を消した。




『今日未明、東京都葛飾区に住む三十代の男性が行方不明になっていると警察に通報がありました。現在も捜索は続いています』


無機質なワンルームに、テレビのアナウンサーの淡々とした声が聞こえる。

私はニュース番組を横目に、ジャムトーストをサクサクと齧っていた。


『また、捜索の過程で男性の戸籍が偽造されていることがわかりました。警察はさらに詳しく捜査を進めていく模様です。では、次のニュースです。………』


画面が切り替わったところで、私はトーストの最後の一欠片を口に放り込んで席を立った。


食器を流しに持って行き、水に浸けた後、クローゼットを開けて制服に着替える。

ダークグレーのセーラー服に白いリボン。なんの変哲もない都立高校の制服だ。


私は洗面所の鏡の前に立ち、ブラシで適当に髪を梳いた。

肩の高さで無造作に切り揃えられた髪は鮮やかなマゼンタ。

肌の色は白を通り越してもはや灰色だ。

空色の瞳の下には濃い隈が浮かび、ますます顔色を悪く見せている。

そして何より妙なのは、童話に出てくるエルフのように尖った耳である。


私は、ただの人間ではない。少なくとも、この地球の人口の大半を占める人種とは違う。


鏡の横の棚から、銀の三日月をモチーフとしたヘアピンを取り出す。

それを身につけると、鏡の中の私の姿が変化した。

髪や瞳は黒に、肌色はほどほどに健康的な薄橙色に。耳も至って普通の日本人にそっくりになった。

目の下の隈だけはそのままだったが。


このヘアピンは、装着した者の見た目を日本人に似せるための擬態具だ。

これがないと、人間に混じって暮らしていくことができない。


私は黒のダウンジャケットを羽織り、リュックを背負って、一人暮らしのアパートを後にした。




街中を歩いていると、人ならざる者たちがあちこちにいるのが目に留まる。


化け猫や河童、のっぺらぼうなどの妖怪。吸血鬼やフォーンなどのモンスター。

皆、何かしらの方法で擬態し、人間社会に紛れ込んで暮らしている者たちだ。


しかし私のような『宇宙人』は滅多に見かけない。


私は、月で生まれて地球にやってきた宇宙人だ。

月界人げっかいじんとか、月人つきびととも呼ばれる。

とは言っても、私は赤ん坊の頃から地球に住んでいるので、月にいた時の記憶はほとんどないけれど。


下りの電車に乗って二駅。そこから歩いて十五分弱。アパート街の一角に、私の通う高校はある。


「おはよ、アルカ! また遅刻?」

「……千秋。遅刻はお互い様でしょ」


後ろから肩を叩いてきたのは、クラスメイトの千秋。

髪を明るい色に染め、スカートを短く切り、コートの下には校則違反の白いカーディガンを着ている。いわゆるギャルだ。

この寒空の下に生足をこれでもかというくらい晒していて、見ているこちらが寒くなってくる。


彼女とは遅刻仲間で、始業式の日から二人揃って遅刻をかましたことをきっかけに仲良くなった。


「アルカ、もしかして具合悪い?」

「え? ……そんなことない、と思うけど」

「そう? 普段より顔色悪くない? 寝不足?」


ま、アルカはいつも顔色悪いけどね〜。千秋がなんてことなさそうに言う横で、私は無意識に頭に手をやる。

三日月のヘアピンはちゃんと着いている。

擬態が解けたわけではないことがわかり、少し安堵した。


千秋は『こちら側』ではない──一般人だ。

だが妙に勘がいいところがあり、たまにこちらがヒヤッとするようなことを言ったりする。


まさに、寝不足というのは大正解だ。

昨日は任務があったためよく眠れていない。

ただでさえ地球人の生活リズムは忙しなく、月人にとっては付いていくのも一苦労だというのに。


「コラァ! お前らまた遅刻か! 少しは焦れ!」


職員玄関の方から生徒指導の教師の怒鳴り声が聞こえてくる。


「うっわ、大岩じゃん。アルカ、走ろ」

「あ、うん」


千秋に手を引かれ、私は怠い足を無理やり動かして昇降口まで走った。




今日も私はいつも通り七時間の授業を受け──ほとんどの時間を居眠りして過ごしたが──帰路についた。


家の最寄りの駅で電車を降りるが、その足はアパートとは逆方向へ向かう。


駅から少し離れた、とある小洒落たカフェ。

その裏口からバックヤードへ入る。


片隅に置かれた、どこにでもあるような掃除用具用のロッカーの前に立ち、三日月のヘアピンを外す。

ロッカーの灰色の扉を、逆三角形を描くように三箇所ノックし、次に指で空中に五芒星を描く。

そして扉を押・し・開・け・る・と、切れかけた蛍光灯の頼りない光に照らされた薄暗い階段が現れる。


『アンダーグラウンドへようこそ』


壁に派手な紫の字で書かれた落書きは、いつ来ても異様な存在感を放っている。

と同時に、『こちら側』の者に思い知らせるのだ。私たちはこの世界では、地下に追いやられるような取るに足らぬ存在なのだと。


階段を三階分ほど降りると、なぜかそこだけ近未来的な自動ドアがある。

その中央の五芒星の紋章に右の人差し指を当てると指紋認証(のような術)でドアが自動的に開いた。


このような複雑な行程を経てようやく、私の目的地が姿を現す。



『東京人外同盟本部』



隷書体の文字が並ぶ看板を掲げた重い扉を私は押し開けた。




今日、私が呼び出されたのは、会議室の一つだった。


軽くノックをし、「失礼します。アルカです」と声をかけると、「どうぞ」と中年の女性の声で応答があった。


会議室の中には二人の人がいた。

一人は私の顔見知りの女性事務員さん。

もう一人は私と同い年くらいの、見慣れない男の子だった。右目の黒い眼帯が目を引く。


「前に言ったとおり、こちらが、今日からアルカとバディを組むことになる朔さくくんです。仕事のことなど色々教えてあげてください」

「……そんな話ありましたっけ」


事務員さんが眉間に皺を寄せる。


「先週連絡したじゃありませんか。また通知を切ってるんですか?」

「……だって五月蝿くて……」


はぁ……と事務員さんは呆れた様子だ。


「何度も言いますが、本部からの連絡は毎日確認すること。人間でもやっていることですよ。せっかく一般人にばれないように暗号化システムを導入しているのに……」

「……すいません」

「とにかく、朔くん、自己紹介を」


事務員さんの横で二人のやりとりを呆気にとられて見ていた男の子がピンと背筋を伸ばした。


「朔です。よろしくお願いします」

「……私はアルカ。よろしく」


朔と名乗った男の子は、長い黒髪を緩く一つに束ねていて、背も高くはなく、肩幅がもう少し狭ければ女の子と間違えてしまいそうな見た目をしている。

姓に触れなかったあたり、彼も人ではないか、何かしらの事情を抱えているのだろう。


「……それだけですか? まあいいでしょう。二人の初任務については決まり次第追って連絡します。この後は二人で親交でも深めておいてください。では、私はこれで」


事務員さんは一足先に会議室を出て行ってしまった。

彼女は自己紹介が少なかったことが不満そうだったが、この手の仕事をやる人は個人情報を無駄にベラベラと喋らない人のほうが向いている。


バタンとドアが閉まる音の後、二人きりになった部屋に沈黙が落ちる。


「あの、なんて呼べばいいですか」


先に口を開いたのは朔だった。


「呼び捨てでいいよ。仕事のとき呼びやすいほうがいい。あなたも朔でいい?」

「はい。では先輩って呼びますね」

「……話聞いてた?」


朔はにこにこしている。もしかしたら扱いづらい奴なのかもしれない。


「先輩、その制服って、俺と同じ高校のですよね。何年生ですか?」

「二年生だけど」

「じゃあ学校でも先輩ですね。俺、一年生なので」


ぐいぐい来るタイプは苦手だ。私はまだ喋ろうとする朔を遮った。


「あなた、覚悟はあるの?」


朔は話すのをやめ、神妙な顔つきになる。


「この仕事を悪を倒すスーパーヒーローだと思ってるなら、今すぐ辞めてきて。

私たちの仕事は、同盟にとって都合の悪い者を消すただの汚れ役だよ。同盟に敵対する人外を手に掛けなくちゃいけないこともある。いつ死ぬかもわからない。敵に捕まって、拷問にかけられるかもしれない。

それでも任務を遂行する覚悟が、あなたにはある?」


片方しかない朔の瞳を見つめて、私は問うた。彼の瞳は冷たい金色をしていて、彼が人間ではないことを静かに物語っていた。


「ありますよ、覚悟も、理由も。失うものは何もないんで」

「……ならいい」


朔の答えを聞いて満足した私は、会議室のドアに手をかけた。しかしそこでふと振り返る。


「朔、もし拷問に遭ってこちらの情報を喋れって言われたらどうする?」

「口をつぐみます。四肢をもがれても、腹に穴が空いても」

「残念、三角」


これ以上の答えがあるのか、と言いたげな朔に、私は、


「頃合いを見て偽の情報を吐き、隠し持っておいた薬を飲むか相手の武器を奪って自死する」


そして会議室を出て行った。






翌週、早速朔とのバディでの任務が入った。


私たちは二人とも同盟の宿舎であるアパートに住んでいるので、夜更けにその下で待ち合わせし、指定された場所に向かう。


「ターゲットは二人、どちらも人間。このビルの裏口から出て西に向かう模様。この二本先の路地裏に入ったところで消すんですね」


私は闇に紛れるため黒のパーカーを羽織り、黒のマスクをつけ、得物の大鎌を肩にかついでいる。

朔はこれといった武器は使わないようだが、普段着けている眼帯を今日は外していた。


「でも先輩、二人の役割分担とか決めてないですけどいいんですか?」

「決めたところで実際には何が起こるかわからない。だから決めるだけ無駄」

「それはそうですけど、」

「来るよ」


気配を察知した私はパーカーのフードを被った。

まもなくスーツを着た二人組の男がビルの裏口を出て、指令にあったとおり西に向かって歩き出した。


私たちは男たちの後を尾け、例の路地に入ったのを確認した、までは良かったのだが、


「ん?」


背の高いほうの男が振り返った。私たちは慌てて建物の陰に身を隠す。


──今しかない。


そう直感した私は、そのまま地面を蹴り建物の上へ飛び上がった。

横にいた朔が戸惑う気配を感じるが、私はお構いなしに建物の上を跳んで渡る。

下では男たちが「どうした?」「いや、何でもない」と会話している。

その隙に私は男たちの向こう側の地面に着地した。


男たちが声を上げるよりも早く、私は一人目の男を大鎌で袈裟斬りにしていた。

肩から脇にかけて真っ二つにされた体が血を噴き出して崩れ落ちる。


この程度なら私一人で片付けられる。

そう判断し、拳銃を取り出したもう一人の男に接近する。


拳銃の弾道を躱し、走る勢いのまま大鎌の頭部で男を突き飛ばす。

そのはずみに拳銃は男の手から離れて宙を舞い、カシャンと地面に落ちた。


私は大鎌を逆手に持ち替え、鳩尾を押さえて横たわる男の首を迷わず刎ねた。


この間、僅か十秒足らず。


目撃者がいないか辺りを見回すと、近くまでは来たものの呆然としている朔の姿が目に入った。


殺しに躊躇いが生じたわけではないらしい。

何か言いたげだったが、私は彼に目線で合図して、速やかに撤収した。

後始末は近くに待機している後処理部隊が行うため、私たちは出来る限り他人に見られないようにこの場を去らなければならない。




「先輩、すみません。俺、何もできなくて……」


私たちは同盟本部に一度引き揚げていた。


「いいよ。あれは私一人で十分な任務だったから」


返り血を浴びてしまった顔を洗いながら私は答えた。


むしろ、どうしてあの程度の任務をバディでやるように指示されたのかが私にはわからなかった。


「……あの、先輩。見てただけの俺が言うのもおかしな話ですけど………もっと、俺に任せてほしかった、です」


朔が控えめに言った。


「どうして?」

「どうしてって……今回の任務が俺たちバディに任されたってことは、二人で協力してやれって意味だったんじゃないかって」

「意味? 任務に意味なんかない。出来る限り迅速に隠密に、ターゲットを抹殺する。それができれば、何人だろうが関係ない。そうじゃない?」

「そう、ですね……すみません、口出しして」

「別に怒ってるわけじゃないよ。顔も洗い終わったし、もう帰ろう」

「はい……」


そうして私たちは本部を後にした。


廊下を歩いている時、例の事務員さんに呼び止められ、

「朔くんの言うことにも耳を貸してやりなさい」

と言われた。

しかし、この時の私には彼女がどうしてこんなことを言うのか理解できなかった。




その後も何度か二人で任務をこなした。

だが、連携が取れず、毎回ギクシャクしたまま終わった。


朔はいつも「もっと頼ってほしい」と言うが、朔に頼らずとも遂行できてしまう任務がほとんどなので、彼に頼る必要性は感じなかった。


任務を重ねる中で知ったことだが、朔は人狼だ。

あの眼帯を外すと、月のある夜ならば力を解放できるらしい。

右目には眼帯の下に隠れた引っ掻き傷のようなものがあり、視力はほとんど失われているという。


ただし、満月の夜は力のコントロールが効かなくなるどころか我を忘れて暴れ回ってしまうため、狼化防止薬を服用しつつ明かりのない部屋で一人で過ごすらしい。


彼についての詳しい過去なんかは私も知らない。

同盟に所属している、特に暗殺部隊にいる者たちは、思い出したり他人に話したりしたくないような複雑な事情を背負っている者が大半だから、あまり深く詮索することはできなかった。






久々の一人での任務を終えて帰宅すると、アパートの前で朔と偶然出会った。

手にはコンビニの袋を下げている。


 私は朔に誘われるがまま、アパートの屋根に登った。


「俺、たまにこうやって屋根の上で一人菓子パみたいなことするんですよね。先輩も一緒にどうかなって」

「……まあいいけど」


あまり人と馴れ合うのは好きではないが、夜のひんやりとした空気が、今日くらい付き合ってやろうという気分にさせた。


「あ、今日、月が綺麗ですね」


ポテトチップスをつまみながら朔が何気なく言った。


「ちょっと……それ文字通りの意味?」

「え? 文字通りって、それ以外に何かあるんですか?」

「あるじゃん、ほら、『月が綺麗ですね』イコール『あなたを愛しています』っていう慣用句みたいなやつ。有名だと思うけど」

「へえ、俺、初耳です。日本出身じゃないんで」

「そうなの?」

「そうですよ。俺、こう見えてイギリス生まれなんです」


そうして、朔は自身の生い立ちを語り出した。


「俺は、イギリスの田舎で現地の人狼の父親と日本人の母親の間に生まれたんです。でも、人狼みたいなモンスターは異端なので、隠れて暮らさなきゃいけなくて。

俺が子どもだった頃に父が人狼だってことがばれて、一家で逃げることになって、その途中で母が殺されたんです。

父は俺を連れて国外に出て、いくつかの国を転々とした後、母の故郷の日本にたどり着きました。

父は母に心残りがあったみたいで、俺を東京人外同盟に預けてイギリスに帰りました。それ以来消息は聞いていません」

「………」


こういうとき、どんな反応を返せばいいのかわからなかった。朔本人がいつもどおりに見えるから、なおさら。


「別にもう今更いいんですけどね。両親の顔もおぼろげだし。

ただ……父は生きてる俺よりも死んだ母のほうが大事だったんだな、って。それをふと思い出した時に寂しくなることはありますけどね。満月の夜に部屋に閉じこもってる時なんかは特に」


そう言って、朔は屋根にごろりと寝そべった。


今夜の月は満月よりも少し痩せていて、満ちるまでにはまだ数日かかるようだ。


「私もね、親がいないんだ」


自分も知らない故郷を見つめて、私はぽろりと呟いた。




私は月で生まれた。

具体的な場所はわからない。

家族や親戚もいたはずだけれど、これもよくわかっていない。

両親と思われる遺体しか見つかっていない。


私が地球にやって来たのはまだほんの赤ん坊の頃だった。

月から地球へ移住する月人たちを乗せた宇宙船に私は両親とともに乗っていた。

なぜ月人たちが地球に来る必要があったのかも、不明のままである。


その宇宙船は富士山の火口に着陸しようとしたが、人外を敵視する人間の団体による攻撃を受け、墜落した。

燃料の代わりに特殊な動力を使っていたため火災には至らなかったが、機体は跡形もなく潰れ、現地の人外たちが救助に駆けつけた時には乗客乗員は全員死んでいたという──一人の赤ん坊を除いて。


その事故で生き残った私は、東京人外同盟の施設に入り、人間に混じって生きていく術と暗殺の技術、そして人間への憎悪を教わりながら育てられた。


中学生になると、私は正式に同盟の暗殺部隊に配属された。


入ったばかりの頃の私は、両親と同胞を殺した人間への恨みだけで任務をこなしていた。

しかし世の中のことを知るにつれて、自分の仕事に虚無感を抱くようになっていった。


この世界はどう足掻いても人間のものだ。

私たちがどれほどの人間を殺したところで、人間が私たち人外を嫌い排除しようとすることは変えようがない。

むしろ命の奪い合いは互いの摩擦をエスカレートさせるだけではないのか。

それならば、私のやっていることに意味などないのではないか。


でも、私は辞めるわけにはいかなかった。

暗殺者にするために育てた私を同盟が簡単に手放すわけがなかった。

戦力という意味でも、機密情報保持者という意味でも。

それに私は、私の面倒を見てくれた同盟の皆に恩返しがしたかった。

彼らもきっと、私と同じようにどこかで虚無感を覚えながら各々の仕事をしているのだろうと思う。


今では顔も知らない両親や同胞への執着はないに等しい。

けれど時折、まだ見ぬ故郷に帰りたいと思うこともある。

帰って、両親のことをちゃんと知りたいと思ったりする。




「俺たちって、なんか似てますよね」


一緒に月を見上げながら朔が言った。


「え?」

「だってそうじゃないですか。人間に親を奪われて、同盟に助けられて……それに、『月』に縁がありますよね。俺は人狼だから満月を見られない。先輩は月で生まれて月に帰りたい」

「確かに……」


朔とバディを組んでからもう二ヶ月以上経つのに、彼のことをほとんど知らなかった。


私はずっと、誰かと協力しなくたって一人で十分任務を遂行できると思っていた。

けれどそれは、ただ他人のことを知らなかったからそう思い込んでいただけなのかもしれない。


「朔。次の任務、もう少し連携取れるようにするね」

「どうしたんですか、いきなり。……次もご指導よろしくお願いします」


金色の月は満ちようとしていた。






数日後。私は一人でとあるビルの屋上にいた。


円を描く望月が、星も見えない都会の闇夜にぽっかりと光っている。


満月の夜は朔が動けないため、本来なら私たちバディの任務はないはずだった。

しかし、本部の手違いで任務が入ってしまい、仕方なく私だけで出動することになった。


だがこれまでの二人での任務のターゲットは大抵一人で対応しきれるような相手ばかりだったので、おそらく今回も何事もなく遂行できるだろう。


今夜のターゲットは、人間に協力する人外だ。

指示書には狐と記されていた。狐の妖怪は個体によって力の強弱に大きな差があり、相手にするなら気は抜けない。

特に九尾狐ともなると、プロの退魔師が大勢かかっても敵わないことすらあるという。

もっとも今回はただ「狐」とだけ書いてあったから、そこまでの心配はなさそうだが。


建物の下を覗き込むと、ちょうどターゲットと思しきスーツ姿の壮年の男性が歩いていた。

人間の姿に化けているが、資料にあった特徴と合致する。


私は気配を消してその男の背後に音もなく飛び降りた──はずだった。


私の足が地面に着くか着かないかというところで、その男の姿がかき消えた。

すぐさま体勢を低くし周囲を警戒する私の傍の地面に、トスッと刺さったものがあった。

灰色の矢だった。


上だ。

そう気づいた私が飛び退くと、次の瞬間、私のいた場所に同じ矢が無数に突き刺さっていた。


見上げると、先程まで私が立っていたビルの屋上から大きな灰色の狐が私を見下ろしていた。


「殺気が漏れていたぞ、小娘」


その背後には九本の尾が揺れている。


──九尾狐。


しかし私には動揺している暇などなかった。

どんな相手だろうと、姿を見られたからには生かしてはおけない。

地面を蹴り、道路の向かいの建物の屋上へと跳ぶ。


九尾狐は体の毛を引き抜き、灰色の矢に変え、宙に浮かべた。

私が大鎌を構えるが早いか、その矢は私に向かって一斉に放たれる。

矢を避けて屋上から跳び上がった私の体は、放物線を描いて九尾狐の額めがけて落下する。

空中で大鎌を振りかぶり、九尾狐の頭を真っ二つにする算段だった。

しかし、九本の尾のうちの一つに弾かれてしまう。


「……っっ!」


私の体は別のビルの屋上に叩きつけられた。

着ているパーカーに衝撃を緩和する術がかかっていなかったら即死だっただろう。


叩きつけられた拍子に、内ポケットに入っていたスマホがカラカラと落ちた。

それを見た私はスマホに手を伸ばし、咄嗟に朔に電話をかけていた。


「たす……けて………ゲホッ、ゴホッ」


打ちつけた脇腹が痛くて、情けない声しか出なかった。

体にヒビが入ったんじゃないかと思うくらい酷い痛みだ。

朔が電話に出ているかどうか気にする余裕さえなかった。


「降参しろ、小娘。今なら見逃してやる」


こんな所で戦っていると、一般の人間に通報されて警察が来る可能性がある。

そうなれば同盟の立場がなくなるためできるだけ早く撤退したい。

それは相手も同じなのだろう。


だが、こちらの姿を見られている以上、このまま放っておけば私の情報が敵に知れることになる。

一度狙いを定め攻撃を仕掛けたターゲットは必ず殺す、それが東京人外同盟の暗殺者のルールだ。


九尾狐がこちらにやって来る。私は大鎌を握りしめて立ち上がった。






先輩からの電話がかかってきた時、俺はカーテンを閉め切った真っ暗な部屋でベッドに横になっていた。

狼化防止薬を服用していても、やはり満月を直接見ると狼化の可能性があるからだ。


先輩は今夜、手違いで入ってしまった任務を一人でこなしに行っている。

俺が毎月こんな状態になる体質じゃなければこんな苦労はかけないのに、と情けない。


そんな時に電話が来たものだから、なんとなく悪い予感がして、俺はすぐにスマホの通話ボタンを押した。


聞こえてきたのは、いつも飄々としている先輩からは想像もできない声だった。


『たす……けて………ゲホッ、ゴホッ』

「先輩? ………先輩!?」


呼びかけても返事はなく、ハァハァという荒い息遣いが続く。


『こ………ろ、小娘。……まなら………てやる』


上手く聞き取れないが、しわがれた男の声も聞こえてきた。

何がなんだかわからないが、先輩がピンチに陥っているということだけは把握できる。


先輩を助けなければ。──でも、どうやって?


ひとまず、同盟本部に連絡することに決めた。

震える手で一旦先輩からの電話を切り、連絡先から本部の電話番号にかける。

ワンコールで出た職員に状況を説明すると、直ちに他の暗殺部隊のメンバーを向かわせるという応答があった。


電話が切れてもまだ手は震えていた。

本部が他のメンバーを手配している間にも、先輩がやられるかもしれない。

出来ることなら俺自身で助けに行きたい。


任務の指示書は俺にも送られてきているが、そこに記載されていた実行場所へは本部よりも俺のアパートのほうが近い。

今から俺が行けばおそらく数分で到着できる距離だ。


しかし、今の俺は、外に出て月光を浴びればたちまち狼化してしまう。

狼化した人狼は我を忘れて暴れ、朝日を浴びるまで家族も他人も見境なく喰らって回るという。

もし今、先輩を助けに行ったとして、現場に辿り着く前に完全に狼化して無関係の人を襲う可能性もあるし、最悪先輩を傷つけることになるかもしれない。あまりにもリスクが大きい。


他にどうする。落ち着け。考えろ。


しかし薬のせいでぼんやりした頭はそう思い通りには動いてくれない。

代わりに悪い想像ばかりを繰り広げる。


「ああ……っ、クソッ!」


手にしていたスマホをベッドに投げつける。

何もできない自分が情けない。

先輩は今にも命の危険に晒されているというのに、自分の家で祈ることしかできないのがもどかしい。


──あの時の父さんも同じだったのだろうか。


村人の目を避けて森の中に逃げ込んで、逃げ遅れた母さんが捕まって暴行されているのを知りながら、それでも右目を怪我した俺がいたから逃げなければいけなかった。

俺は助かったけど母さんは死んで、結局未練が残った。


俺は同じ轍は踏みたくない。


ハンガーにかかっていたジャケットを乱暴に外して羽織り、ベッドに転がったスマホをポケットにねじ込む。

ヘアゴムで髪を括りスニーカーに足を押し込み、俺はアパートを出て夜の街に駆け出した。


「先輩……頼む、間に合ってくれ、頼む……っ」


満月の下、俺は全速力で現場へとひた走った。






もうどちらから、どこから出ているのかわからない血のせいで、大鎌を握る手がぬるぬると滑る。

九尾狐にも何度か傷を負わせることができたが、こちらもこちらで痛手を負っていた。


いつもの黒マスクはどこかに行ってしまったし、骨の二、三本は折れている気がする。


「小娘、このあたりで手打ちとしないか」


九尾狐は何度も体毛を抜いて矢を撃っていたせいで、灰色の毛並みがボロボロになっていた。あちらも確実に消耗している。

私は無言のまま、再び宙に飛び出した。

九尾狐の頭上を飛び越えて一度背後に降り、改めて後ろから攻撃を入れるつもりだった。


けれど、駄目だった。


長時間の戦闘に慣れていない私の脚はもう強く地面を蹴れず、私の体は九尾狐を飛び越えるどころかその目の前で落下を始めた。


「諦めろ」


九尾狐の尾が再び私を強く叩き、大鎌が手から離れる。

私はなす術もなく建物と建物の間に落ちていく。


同盟のみんな、ごめん。千秋、ごめん。お父さんお母さん、ごめん。



『……次もご指導よろしくお願いします』


朔、ごめん。



一瞬のことのはずなのに、とても長い時間に感じられる。

体も心もこれ以上ないくらいに痛くて、私はぎゅっと目を瞑った。


不意にぐいっと体が持ち上げられる感覚があって、落下が止まった。

何か……モフモフしたものに乗っている気がする。


モフモフしたそれはふわっと下の地面に着地し、私の体をそっとそこに横たえた。

無理やり瞼をこじ開けて見ると、黒い大きな何かが私の側から九尾狐に向かっていくところだった。


ビルの上はよく見えなかったけれど、黒い何かと灰色の九尾狐が戦っているのはわかった。


勝負はすぐについた。

黒い何かは、自分よりひと回り大きな九尾狐の首に噛みついて振り回し、屋上から放り投げた。

九尾狐は私からかなり離れた地面にドスンと大きな音を立てて墜落し、二度と動かなかった。


黒い何かはまた私のもとに降りてきて、私を包み込むように傍に横になった。

近くで見るとどうやら獣のようだ。まるで狼のような──


「……さ、く………?」


まさか、と思いながらその名を呼ぶと、黒い獣が金色の目を細めたような気がした。


私の意識はそこで途切れた。






再び目を開いて真っ先に視界に入ったのは、見覚えのない白い有孔ボードの天井だった。


まさか敵に連れ去られたかと最悪の想像をし周囲を確認すると、ブラインドの隙間から陽光が差し込む窓と古びた水色のカーテンがあった。どうやら病室のようだ。


上体を起こそうとするが、身体中に激痛が走ったので諦めた。

左腕が動かしづらいと思ったら包帯でぐるぐる巻きにされていた。


ものすごく長いこと眠っていた気がする。

部屋の隅の時計を見ると朝の十時だった。

あの戦いから何日経ったのかわからない。

それに、最後に助けに来てくれたのが朔だったのかどうかも……。


その後、病室にやって来た看護師さんに訊くと、私が病院に運び込まれたのは昨日の朝のことだったそうだ。つまり、丸一日眠っていたことになる。


ここは同盟が運営する病院で、戸籍や身分証などの関係で普通の人間の病院に行けない人間や人外を治療する場所だ。


私は肋骨二本と左腕を折っていて、切り傷や打撲も無数にあったそうだが、奇跡的に命に関わる負傷はなかった。

やはり術のかかったパーカーとあの黒い獣のおかげだろう。


昼過ぎに、本部の職員二人に連れられて──というか監視されて──朔が病室に姿を現した。


「どうも、先輩。お怪我は大丈夫ですか?」

「うん、まあ………。身体中痛いけどそれだけだし」

「それだけって……骨折れてたんですよね? 十分大怪我ですよ」


そう言う朔の左頬にも絆創膏が貼ってある。


「ねえ……あの時助けてくれたの、朔だよね?」

「う……はい、俺です。って言っても、正直ほとんど記憶なくて」


私が電話した後、朔は本部に連絡したが、居ても立っても居られなくて私の所に駆けつけたらしい。

しかし、満月の夜に完全な狼化を発動したため途中から記憶がなく、気がついたら同盟の術者が作った結界空間に閉じ込められていた。

後から聞くと、私を助けて九尾狐を倒した後、現場に到着した同盟の暗殺者たちを威嚇したため捕縛されてしまったそう。


朔は満月の夜に狼化し一般人を襲うリスクを理解していながら外出したことで本部からお叱りを受け、結果的に被害がなかったことと私を救うことができたことも鑑みて一週間の自宅謹慎処分となった。

それでも私のお見舞いに行きたいと言い張り、本部職員の監視付きという条件のもとでようやく外出許可が出た、とのことだった。


「どうしても先輩が心配だったんです。でも、いろんな人に迷惑をかけてしまったのはわかってます……すみません」


本当は、そんな無茶をするなと叱りたかった。

しかししゅんとうなだれる朔を見ていると、そんなことを言う気力はすぐに萎んでしまった。

それにその無茶のおかげで私は助けられたのだから、彼を責めることはできない。


「同盟本部に連絡したのは良い判断だった。危険を冒して自分で動いたことについては、二度とやって欲しくないけど。でもおかげで助かったよ。ありがとう。………こっちこそ、迷惑かけてごめん」


私が謝れば、朔はぶんぶんと頭を横に振った。


「謝らないでください。俺、先輩が頼ってくれて嬉しかったんです」

「………!」


「先輩、いつも何でもかんでも自分でやろうとするじゃないですか。他の人の役に立とうとはするのに、自分に関することを人に頼もうとしない。全部自分の手の中で完結させようとする。

俺は先輩の隣にいて、それが寂しかったし不甲斐なかったんです。壁を作られてる気がして。

だからあの時、先輩が真っ先に俺に電話してくれて、本当に嬉しかったんです。あの時は不安でいっぱいで気づかなかったけど、後になってから、先輩に頼ってもらえるくらい自分が成長できてたのかな、とか、先輩と仲良くなれてたんだなって思って。自意識過剰かもしれないですけど。

………俺も先輩に感謝してます。ありがとうございます」


「………私、もっと人の力を借りていいのかな」

「もちろんですよ。俺だけじゃなく、本部の人だって、先輩の力になりたいって思ってると思いますよ。その調子だと、学校でも全部自己完結してるでしょう。先輩友達少なそう」

「は? 失礼だな、友達くらいいるよ。……一人は」


やっぱりじゃないですか、と笑う朔はどう見ても普通の男の子で、あの時ビルから落ちる私を受け止めた黒い狼と同一人物とは思えなかった。

だけど、黄金色の目を細める仕草を思い出せば、彼がやはり人狼であることを否定することはできなかった。


「でも本当は、俺だけ頼ってほしいな……なんて」

「ん? 何か言った?」

「いえ、なんでもないですよ」


朔は外出を許された時間が限られているらしく、まもなく名残惜しそうに帰って行った。




あの一件以来、私は何か困ったことがあったら人に頼ることを心がけるようになった。


すると、なぜか朔は心なしか以前よりも私の世話を焼きたがるようになってしまった。

最近では、私が朝食にトーストしか食べていないのを知り「栄養バランスが良くない」と毎朝自炊した朝食をお裾分けしてくるようになった。

これはもはや頼る頼らないの次元を超えて過保護な気がする。


しかし、私は私で自分にできないことの多さを実感している最中なので、何だかんだと甘えてしまっている。


だけどこれは、また別のお話。



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月を恋う 三雲零霞 @3kumo0ka

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