どうぞ、よしなに

奈良ひさぎ

どうぞ、よしなに

 吉野のまちに、彼女を置いてきた。



 嫌がるのを無理やり一人にしてきたとか、息の根を止めたのを放ってきたとか、そういう人道に反することをやったわけではない。ただ、二人で吉野の山に咲き誇る桜を見に行って帰ってくると、みなとはいなくなっていた。宿に服や小物を一つ忘れてきたかのような感覚だった。


 舞い散る桜の花びらを見ていた時も、帰りの列車の中でも、隣には湊がいるという感覚が確かにあった。ところどころ骨張った感触すらある華奢な体に触れたことも、何度かあったはずだ。こんなきれいな桜吹雪が見られてよかったねと、余韻に浸りキスもしたはず。湊を思い出すためのあらゆることが手に取るように分かるのに、湊だけが、すうとぼくの隣から消えた。


 身近な人がいなくなったら警察に相談だ、と考えられるほどの冷静な頭はあった。しかし警官に事情を説明しようとすると、途端に言葉が出てこなくなった。いなくなった湊の個人情報と、家に帰ってきてみるといなくなっていたということは何とか伝えられたが、具体的にどのあたりにいそうだとか、いなくなった原因だとか、そのあたりはぼくにも何も分からなかった。


「キミと一緒に暮らせるとか、一緒にどこかに行けるとか。そういうのを考えるだけで、すごく楽しいよ」


 湊はどこか物事を達観している感じのある女性だ。歳はぼくよりも一つ下なのに、何事もリードをするのは決まって湊の方だった。それはぼくが頼りないからではなく、単に一緒に行動していると自然にそうなってしまうというだけ。研究者としてもう少し大学に残る選択をしたぼくを見ながら、先に社会に出た湊は、財政難にあえぐぼくを時々救ってくれた。


「財布がふたり分一緒とか、全く別々なんじゃなくて。こうやって時々助け合える方が、なんだか一緒にいる価値があるよね」

「ありがとうね、湊」

「いえいえ」


 ちょっとしたいたずらが上手くいった子どものような、したり顔に似た笑みをする湊のことが、ぼくは好きだった。俗に言う恋愛感情を持っていたのかもしれないけれど、一緒にいると居心地がいいんだろうなと思う方が先だった。湊はどうやらぼくの好意に似た感情を受け取り、悟っていたらしく、気持ちを伝えた時にやはりにっと笑ってみせた。一緒にいることに意味がある、という信念が揺るがなかったぼくたちは、結婚のことなんてまだ考えてもいないのにいきなり同棲を始めた。


「へえ、珍しいね。キミが満開の桜を見に行きたいだなんて」

「ひどいな、まるでぼくが美しい景色が好きじゃないみたいな言い草」

「だって、感情に訴えかけてくるものがあんまり好きじゃないって、前に言ってなかった?」


 吉野の桜を見に行こうというのも、ぼくの発案だった。もともと旅行が好きだったから、唐突に行きたい、それもせっかく行くなら湊と一緒に行きたいと思っただけで、本当の理由はぼく自身にも分からない。湊も乗り気になってくれたので、一番満開であろう日を狙って二人で出かけた。



『紀伊山地の霊場と参詣道』



 世界遺産には、その名前で登録されているはずだ。熊野の参詣道だけでなく、吉野から高野山、熊野大社へ至る道も含まれている。そして雄大な山々が並び人里から遠く離れた場所であることを示すそこは、この世とあの世の境目でもある。


 もしかすると、湊は「向こう側」へ行ってしまったのではないか。


 そんな考えが頭をよぎった。湊が何か病気をしていたとか、「向こう側」へ行ってしまうだけの精神的な問題を抱えていたとか、そういう心当たりはない。けれど、二人であの場所に立っていた時、今自分は「あちら側」にいるんだ、と感じるだけの空気がそこにあった。その正体を、帰ってきてから調べて初めて知ったのだ。あれは間違いなく、「この世にいないこと」によって感じられるものだった。


 だから、ぼくはもう一度、今度は一人で吉野を訪れた。


 桜はほんの少しあの時から散っていたけれど、サイトにはいまだ満開と記されていた。そして気温すら何度か下がったような心持ちになる境界線を踏み越えて、ぼくは陽炎を見た。


「や。久しぶり」

「……湊」

「どう? 元気にしてる?」

「……やっぱり。『こっち側』にいるのか」

「キミが『そっち側』にいるんだよ」


 まるで、湊が「あちら側」に行くことが運命づけられていたかのように。ぼくは湊を探しにもう一度「あちら側」を訪れたのではなく、湊に引き寄せられるようにして「あちら側」を「こちら側」にした。湊の言葉で、ぼくの感覚がだんだんふわりと宙に浮いてゆく。体重が軽くなり、地面とつながっているという、当たり前の触覚がなくなってゆく。


「きれいだね、桜」

「……うん」


 一度火を入れた卵は元には戻らない。しかし桜は戻る。花びらを一度は散らした場所が、ゆっくりと時間をかけて満開の方へと戻ってゆく。その時間感覚はとうにぼくの中からはなくなっていて、どれほどの時間が経ったのかは分からなかった。それでも、湊ともう一度、咲き誇る桜を目の前にできたことがぼくの心を満たしていた。


「帰ろう? キミと一緒に、もっといたいな」

「……ぼくもだよ」


 湊が伸ばしてきた手を、そっと包み込む。確かに湊のことを感じながら、二人でどことは分からない方向へ。しかし、桜並木の中を進んでゆく。

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