はえる深緑 ⑤
「ねえ、トウ」
毛布に包まったメイがモゾモゾと話し掛ける。一方でトウは、その微睡みと戦いながら、なんとか声を振り絞り、返した。
「……なに?」
「体調、大丈夫ですか?」
その声は、微かに震えていた。
不思議だ、と。トウは思う。メイの特徴は声だ。寧ろ声でしかそこにいるかどうか判断できないので、勝手にそう思っているだけなのだが、取り柄と呼べる部分は明確に、その快活さだと言える。
いついかなる時も、元気だった。いっそ喧しいとさえ思えるほどに。どんなに不可思議な状況下であっても、彼女は口から原動力足るエネルギーを吐き出し続けている。様々な国で、彼女はそうだった。
それがどうだろう。こんな弱々しい声を聞いたのは、思い出せる限り初めて彼女と出会った時以来かもしれない。普段のメイからは想像もできない、不安に押し潰されてしまいそうな言葉。
何が、一体不安だと言うのだろう。
「……大丈夫。メイは、重く受け止め過ぎ」
「……でも、くしゃみが止まっていません。どうして、治らないんでしょう。もしかすると、悪化しているのかもしれません」
「……多分、寝たら治る」
「そう、ですかね……?」
それきり、メイは黙ってしまった。しばらくの静寂。世界が閉じるまでの無音。聞こえるのは、メイの呼吸。
身体は確かに重かった。気怠さではない。眠気でもない。もっと圧し掛かるような重圧。体の芯から重力に向かおうとしているような負荷が掛かっている。
落ちていく。どこまでも。
これに委ねてしまうのが、正解かどうか判別しかねる。それはまるで空を埋め尽くす真黒のように、得体が知れなかった。意識が落ちるか踏み止まれるか。
その瀬戸際の最中。少女の声が、微かに流れた。
「ねえ、トウ。もう一人じゃありませんよ。私も、いますから。だから、安心してください」
何度も聞いてきた声だ。色々な国を見てきて、そして描いて周る中。
彼女の声はいつも隣にあった。
そんな当たり前のこと。そこにあって然るべきはずなのに。
トウはその声に、その言葉に。初めて安堵した。
「それは、お互い様……」
軽口を叩いて、メイが小さく笑った。
視界が微睡む。世界がぼやけて崩れていく。静かで、寂しい空間。
睡魔に負け、瞳を閉じて。しばらく続く冷たい暗闇に迎え入れられても。
メイの寝息が。彼女の存在が。そんな冷たさから守ってくれる。
だからトウは落ち着ける。
だから力を抜いて、身体の重さに引きずり込まれるように、深淵へと落ちていけるのだった。
◆
その夜、トウは夢を見た。不思議な、現実味皆無な夢を。
植物が動いていた。いや動いていた、という表現では些か不十分だろう。何故なら植物は風で揺られたわけでも誰かの手によって動かされていたわけでもない。それこそが現実的な話であって、夢であるその光景ではもっと有り得ない事象が起こり得る。つまり、ある種植物のように、それらは枝葉を這わせていた。
動きとしては爬虫類。ヘビの挙動に近かった。
それらはゆっくりと床を這い、一つの目的を目指して動く。その目標は横たわるトウ。彼女の元へと、少しずつ近付いていた。やがて辿り着いたその蔦や枝葉は、そこから今度はトウの身体を覆い始める。
声は上げない。上げられなかったわけではなく、不思議と上げなくてもいいと、そう思えてしまっていた。
身を任せるとはまさにこのこと。トウは自分の身体を埋め尽くしていく植物に対して何もせず、その命運の全てを委ねていた。
締め付けられるわけでもない。呼吸ができる程度の間隙もある。繭のように覆うことで、彼らは何がしたいのだろう。寝惚ける頭でそんなことを考えた刹那。
それら植物が淡く光り始めた。
薄緑色の発光。トウはその輝きに見覚えがあった。
水浴びの時に、まるで蛍火の如く放たれたその煌めき。幻想的な光景ではあったが、それが自分の袂で起こるとそんな悠長なことも言っていられない。
これから降り掛かる事象に対しての不安や恐怖が、夢中に浮かぶトウにも無いわけではないのだ。
ただ何も起こらない。幾ら待ってみても、幾ら身構えても、トウの身には何も影響は及ばなかった。
それどころか。泥のように重く沈んでいた身体が、いきなり軽くなったのだ。発光は尚もしばらく続き、目がその輝きに慣れてきたと同時、淡い光はその存在感を潜めていく。
やがて枝葉で造られた繭が解かれる。闇が漂う空間が視界に舞い戻り、見覚えのある夜が再現された。
そこで夢は終わった。瞳は開いていて、今も夢の続きを見ているんじゃないかと思えてしまう。夢現。今見ている光景は、幻か。いやそれまでに見ていた夢は現実か。
そんな曖昧な浮遊感には脇目もふらず。気が付けば、毛布を取り払って駆け出していた。身体は重くない。寧ろここへ来た時よりも軽いほどだ。文字通り、足取り軽く窓へと飛び付くトウ。
そこから見える景色は宵闇だった。空はどこまで広がっているかも分からないほど暗く、世界はもう元に戻らないんじゃなかというほどに淡々としていた。そんな中。寂しい空間が染める世界で、ある光が灯っていた。
暗闇に浮かぶ、緑色の球体。ここに来て幾度か見た発光だ。水浴びをしている時は遠くに一つ。そして、つい先程。夢か現実か区別もつかない中で、その光景を目の当たりにした。不思議な現象だ。点々と、家々に明かりが灯るかのようにそれらは次々と浮かび上がり、そして消えていく。森とも朽ちた街とも言えるその場所で、幻想的に彼らは輝きを放っていた。
まるで星々の輝き。瞬いてはすぐに消え、それからまた別の場所に現れる。その景色は美しく、そして儚かった。手に届きそうで届かないのは、空にあるそれと同じ。
トウは静かに、けれど速やかにリュックを引き寄せて、真白のカンバスと鉛筆を手に取った。
これが彼女が旅を続ける理由。国々を周る意義だ。
滑らかに、手を止めることなく窓に広がる一枚絵を写し取って進める。
暗黒に浮かぶ緑玉は、しばらくの間その姿を現し続けて。
やがて空が白み始めたその頃。
すっかりその影も形も、観測できなくなっていた。
◆
「あれ、もう立ち去るのかい?」
早朝。陽はまだ地平線の彼方に鎮座し、影を長く伸ばす時間帯に、ミドリの驚いた声が鳴った。それに対して、メイが応える。
「はい。この国はうだるような暑さが続きますから、まだ涼しい朝方に出発しようってなったんです」
「……もう暑いのは、いや」
せめてもの抵抗だ。歩けば歩くほどに熱を帯びるこの国で、どの時間帯に移動したところで待っている結末は熱さによる疲労困憊なのだが、動きやすいタイミングで次の宿を見つけておくに越したことはない。
旅人の朝は早いのだ。
「そうか。まあ君らがいなくなるのは寂しいが、世界を旅する人間がここに何日も根を下ろすというのがおかしな話なのかもしれないな」
不満げな表情ながらも、自己解決したようにミドリは首を縦に振った。
今日も暑くなりそうだ。木の葉の隙間から窺える、突き抜ける青空を見上げながらトウはそれ以上思考を進めなかった。
「……お世話になった。感謝する」
「ああ、また来るといい……、いや少し待て」
「……?」
踵を返したトウたちを、相も変わらず白衣のミドリが引き留める。何事かと振り返って見れば、玄関先に根付いていた植物をナイフで伐採していた。
「雨の日は傘代わりになる代物だ。日除けとしても一躍買ってくれるだろうさ」
それはトウの身長ほどもある茎と葉が一枚だけの植物だった。試しに手渡されてみれば、確かに。その葉がトウの全身を陽射しから守ってくれそうだ。
「ありがとう。使わせてもらう」
「これぐらいお安い御用だよ」
そこでトウとメイは一人の国民と別れを告げた。二人は、ミドリに聞いていたこの国の出口へと向かい始める。
緑を掻き分けて進み、押し寄せる草木に身を掠らせながら、剥き出しの地面を歩く。
「そういえばトウ。もうくしゃみが出てませんね。やっぱり薬のおかげですかね! もう、平気ですか?」
「……うん。この国に、ううん。多分この街に、助けられたから」
メイの質問を聞きながら、傍に生えていた名も知らぬ植物の葉を千切る。瑞々しい、深緑の青葉だ。彼女はそれを透明の液体が入った小瓶に入れる。
「えーと、それで今回は葉っぱ……、ですか?」
「そう。これは、この国の色そのものだから」
ちゃぷん、と。陽光へ掲げるように小瓶をつまみ、液体にたゆたう葉を眺め見る。深い深い自然を彩る、美しい三日月が躍っていた。しばらく時間を置いておくと、いずれこの葉も色となる。
トウは翳す小瓶をそっとリュックへと仕舞い、改めて視界に広がる世界へと向き直った。
澄んだ空気に熱が混じり始める。昼に近付いている証拠だろう。
暑く鬱蒼とした自然を切り抜けて、二人はその深緑を後にした。
クリアクオリア ~world color‘s~ 秋草 @AK-193
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